去りゆくサルと捨てられた柿
ふと道を歩いていると、民家の庭の柿の木に、子猿が何匹も登っているのが目についた。実った柿を美味しそうに頬張っていた。
普段は滅多に観ることがない珍しい光景。私は慌ててポケットからスマートフォンを取りだし、内蔵カメラを起動させた。
しかしシャッターボタンを押す前に、猿達は私の気配を察知したのか、のしのしと木から降りて逃げ去ってしまった。猿が落としていった食いかけの柿を見つめながら、私はため息をついた。
それにしても便利な世の中だ。今ではこうやって誰でも簡単に写真を撮れる。スマートフォンに内蔵されているカメラの画質は、新機種が出る度に鮮明になっている。スマートフォンを手にするまで使っていたデジタルカメラは、既にリサイクルショップに売ってしまった。
音楽プレイヤーも同様だ。スマートフォンで聴く方が音質がいい。必要ないからカメラと一緒に売ってしまった。
小説も今では電子書籍化され、スマートフォンで読める。わざわざ本屋まで出向く必要もない。
目覚まし時計も使わなくなった。いつだったか、明け方に電池が切れて針が止まり、その針に騙されて寝坊した。それ以来はスマートフォンのアラームに頼っている。
手帳も持ち歩かなくなったし、辞書を引くこともなくなった。どちらもスマートフォンで用が足りる。
本当、スマートフォンの万能ぶりには感服する。これからも、便利な機能がどんどん導入されていくことだろう。時代の進化。それは素晴らしいことだ。
しかし、新しいものが出てくる一方、古いモノは捨て去られてしまう。カメラも音楽プレイヤーも目覚まし時計も、必要とされなくなったモノ達の行く先はゴミ棄て場だ。
街から徐々に消え去っていった公衆電話は、いつのまにか携帯電話の充電器へと姿を変えた。
やがて忘れ去られていくのだろう。失われていく。なにもかも。
店を何軒もハシゴして、目的の品をようやく手にしたときに味わった達成感。本のページをめくるときの音、肌触り。駅前の電話ボックスの中で、財布の中の十円玉を必死に探すこともなければ、友人に手紙を書こうと便箋を買うことも今では滅多に無い。
時代が変われば、人も変わっていくものなのだろう。不便なら不便なりに努力していた人が、便利な今では怠け者。そういう人が増える。便利な世の中がもたらした副産物だ。
「年賀状なんて書いてんの?律儀だね。メールでいいんじゃあないの?」
「毎年、これ書かないと年末って気がしないんだ。締まらないんだよ」
年賀状を書く人が少なくなる中、毎年必ず年賀状を書く人。昔からの習慣を重んじる人。こんな世の中でも、まだまだそういう人は残っている。
いずれは失われるかもしれない文化、忘れ去られるかもしれない技術、捨てられるかもしれないモノ。
その日が来るまでそれを大事にする姿勢にはとても尊敬する。しかしその姿勢さえも、いずれは失われていくのかもしれない。
とにかく今は、目の前にあるものをかけがえのないものと認識し、大事にしたい。失ってしまうまで。