もしかして:命ってすごく軽い?
僕の夏休みのある日のこと。高校三年生。
三階建ての一戸建ての一階の自室。八月に入っても温度はあがり、パン一になるだけでは暑さをしのぎ切れなかった僕は、クーラーが効いた部屋の中でぐーたらと過ごしていた。
万年床と化した布団の上でネットを徘徊し、自前のプレイヤーから音楽を過ごし、だらだらと。
自分でも不思議だが、クーラーのために窓を閉めていたにもかかわらず、その声は自然と耳に吸い込まれていた。
「救急車呼んでー! やばいよこれ。救急車呼んでー!」
その時僕が考えたのは、助けに行かなくちゃ、などという英雄的発想ではなく。
あ、こんなことって実際にあるんだ。という浮ついたものであった。
だらだらと身を起して、こっそり窓から外をのぞく。ふむ、どうやら坂の上の、家から15メートルぐらいの工事してるところからの声のようだ。
ゆったりと勉強机に投げられていたTシャツと短パンを手に取る。命の危険がなんだ。体裁より、命が大事だなんて全く思わなかった。助けなきゃ、などという気持ちはまったくなかった。すごく不思議な感じだ。
携帯をもって外に出ようとしたものの、なんと男子高校生としてあるまじきことに電池が切れていた。うん、ほら、うん。しゃーないね。
玄関でサンダルを履き、パタパタとゆったり歩きながら外へ出た。うへぇ、あっつい。
道路に出るとよく見える。つなぎを着たおじさんが、道路の脇に倒れていた。
二人の作業員が板で影を作り――といっても、やはりおじさんに太陽が当たっていた――バタバタと、寝間着の、だるっだるの短パンを穿いたまま出てきたであろう、近所の四十代ぐらいの方が心臓マッサージを行っていた。あ、こういう人だと物語の主人公になれそうだ、とも思った。躊躇いなく人工呼吸もしていた。
人は意外と少なかった。二人の作業員。心臓マッサージをしている女性。近所のお婆さん。そしてお爺さん。八月の、平日の、午後二時くらい。もっと人がいてもよさそうなのに。
僕はそこに近づいて、おじさんのために日傘を家から出してきた近所のお婆さんに尋ねた。
「あ、あの、救急車もう呼ばれました」
「うん、呼んだ呼んだ。そろそろ来ると思うけど。あ、なんか聞こえる!」
お婆さんに言われて耳をすませば、確かに救急車のあのピーポーという音が遠くから聞こえてくる。手ぶらで、何もすることがなく野次馬っぽくなっていた僕はなんとなーく、救急車を誘導するフリでも見せた。僕が立っていた側から消防署の救急車が来るとは思えなかった。土地勘ってヤツだ。
「あら……聞こえなくなっちゃった」
「あー、どうしたんですかね」
「迷ったのかしら……」
だろうな、と僕は思った。消防署からここへ来るまでの道は把握している。小学校の頃の通学路の途中にあったから。そして、聞こえていたのが聞こえなくなる、ということは、迷ったのだろう。ここら辺の道は複雑だ。住宅街だし。
先ほど電話をかけたであろうお爺さんが携帯電話を耳にあてる。
「お名前は? 倒れてる方のお名前は?」
お爺さんが作業員二人に声をかける。
「鈴谷さんです」
お爺さんがまた携帯電話を耳にあてた。
それを聞いた女性が、必死におじさんに呼びかけた。
「鈴谷さん、聞こえますか! お願い! 戻ってきて! お願い! 鈴谷さーん!」
とても、必死そうだった。それを僕は野次馬のように見ていた。いづらかったけど、救急車も来てないのに帰るのも、なんだか。
日傘を持っていたお婆さんが一度家に入り、うちわを持って出てきた。そして鈴谷さんを煽ぐ。
「あ、来た来た!」
救急車が近づいてくる音とともに、お爺さんが言った。来た。救急車だ。
坂道の上に停車した救急車から、二人の救急隊員が担架を運んで降りてくる。
一人がおじさんの服を肌蹴させた。いや、すでに肌蹴させていたのかもしれないが、僕はあまり気にしていなかった。その時に、おじさんのどっぷり出たお腹が僕の印象に残った。
救急隊員が重そうにおじさんを担架に乗せる。
このおじさん、死ぬんかな。僕はただ淡々と見ていた。
そろそろいいか、と家に引き返す。ふぅ、クーラーの効いた部屋は最高だぜ。
「こちらは、笹野区役所です。只今救助活動を行っておりました。火事ではございません。こちら、笹野区役所です。只今救助活動を行っておりました。火事ではございません」
外からスピーカー音声が流れてくる。なるほど、納得だ。救急車とパトカーと消防車のサイレンの音は違いがわからない。火事だとみんな結構心配になるのだろう。
そして僕はまた万年床に横たわってネットを彷徨う。その、ほんの一分ぐらい後のことだ。
「やぁねぇ」
向かいのおばさんの声だ。
「――って」
「ねぇ――」
ほかにも複数人の声が聞こえる。おそらく家の前の道路で井戸端会議をしているのだ。今のおじさんに関して。
この人たち、家にいたのに無視を決め込んでいたのか!
僕は人のことを言えたもんじゃないが、この人たちやべえな。いや、気持ちはわかる。ぼくも声が聞こえてすぐには外には出なかったけど。この人たちも、結構どうでもいいんだなぁ。
命って、やっぱ重くないよな。おう。
その二日後。近所の噂で鈴谷さんが亡くなったことを知った。
僕の素直な感想を言おう。
ふーん、だ。
かわいそうだ、も、罪悪感もなかった。ただ単に、一つの事実を知った感じだった。そして、あ、呆気ない死に方だな、とも思った。
命って、こんなもんなんだな。
命の軽さについての個人的な見解です。命を投げ出すことを助長する目的ではないのでご了承ください。