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カフェ・アトラス

 今日でやっと工事も終わった。ケルン通り42番地。ここに、やっとまた姿を表したのだ。


「コバヤシの旦那、内装はこれでいいですかい」

「いいねぇ。すごくいいよ。イメージどおりだ。ありがとう」

「へえ。毎度どうも」  


 コバヤシが帝都へ来たのは、もう30年前になる。最初は世界中から集る、夢で胃とポケットをいっぱいにした画学生たちの一人だった。留学費用は、すべて地元のパトロンが出してくれたおかげで、生活の心配は全くない。美術学校へ足を運び、適当にサロンに出品し、華やかな帝都の風景を何枚も描いておけば帰国後は「先生」、とか「ヨウコウガエリ」などともてはやしてもらえる。そう安易に考えていた。


 ある夏の朝、汗を拭きながら北駅に降り立った彼は、石造りの街並みに度肝を抜かれた。極東の島国からやってきた彼は、初めて見る大都会に圧倒されてしまった。自動車が溢れ、人々は美しく着飾り、何もかもが目まぐるしい。どこを切り取っても絵の題材になりそうな街だ、そう思った。


 コバヤシは、必死に描いた。一流の環境の中で描けるのだ。当時の彼は、ただがむしゃらに幾枚も幾枚も描いては展覧会に出品していた。だが、どれも落選した。自国では上手いと思っていた自分の腕も、ここでは全く問題にされない。


「あなたの絵はどこかで見たような気がします」


 年下だが才能のある地元の芸術家仲間にそう批評されてしまった。自分でも気がついていたことである。その日から、何を描けばいいのか全く見当がつかなくなっていった。そして絵具を買うため金は安ワインに代わっていった。


 ある真冬の夜のことだ。まとまった金が送られてきた彼は、芸術家仲間の溜まり場になっていたカフェのカウンターで独り、ウィスキーをあおっていた。もう一滴だって飲めないと感じたとき、頼んでもいないのにコーヒーが一つ、目の前にコトリと置かれた。


「・・・・・・?」


 出してくれたのは、ふとった店主である。何も言わず、ただコバヤシの顔を見ていつものように微笑んでいた。  


 濁った意識のなかから、なぜかむしょうにそのコーヒーを飲みたいと思った。いつもなら胃が拒むだろうに。エスプレッソの小さなカップを掌に持った。そして、ひとくち。

 そのとき、急に少年時代の風景が現れた。座敷の上に世界地図を広げ、一日中飽きもせずに、ただ眺めていた時のことを。そこには城や塔や象やペンギンや、様々な絵が描かれていた。畳はいつでも大海原になって、彼を自由な冒険の旅へ連れて行ってくれたのだ。そうだ。わすれていたっけ。


「おまえさんが遠い国から来て、ひとりぼっちで必死になっているのは、わしがよう知っている。もう少し肩の力を抜いて描いてみろ。な」


 それからどうやって自分の部屋に帰ったのか、あまり覚えていない。翌朝、目がさめると、絵が描きたくなった。キャンバスに向かうと、いままで走らずに苦しんでいた絵筆が、ウソのように動いてゆく。躍動する。まるで白い海の上を爽快に走るヨットのように。何で今まで、これが描けなかったのだろう。その日のうちに仕上がってしまった。


 彼の展覧会の初入選作は、その絵である。間もなくその絵には買い手がつき、手もとにはいくらかお金が残った。帝都に来て初めてのことだ。よろこんであのカフェに報告しに行くと、店主は一番目立つところに、何かを掛けるため壁に釘を打っている途中だった。傍には、どこかで見たことのある絵が立てかけてある。


「あ、よく来たね」

「その絵は・・・・」

「そうさ。おまえさんの絵だよ。よう描けてる。気持ちがいい絵だ。だから買ったのさ。本当によくやったよ、おめでとう」  


「そう、あれから随分経ったな」

 順調に評価を高めていったコバヤシは、故国に戻らず地元の女性と結婚して、大戦中も帝都に住みつづけた。そして世界的に名が知れ渡った彼は、去年、3年ぶりに懐かしいカフェに戻ってきた。


 ところが店内は暗い。馴染みのガラス扉は閉まっていた。聞けば店主が高齢のため閉店したという。

 コバヤシは黙ってそこを後にした。


そして、今日。


かつてあの店主が営んでいたカフェの跡地に、同じ店名のカフェを出すことができた。 「カフェ・アトラス」  もちろんあの往時の、壁一面に描かれた世界地図の店内装飾もそのままに。最後の仕上げとして、あの絵を飾るために、自分で釘を打った。

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