第23話 宮殿、成層圏へ。世界の掃除が始まる
「エギス、気圧調整を忘れないで。あと、全職員に酸素ボンベ代わりの魔導マスクを配布。……あ、経理部には『高所作業手当』の特別加算を伝えておいてください」
私の指示が飛ぶと同時に、可動宮殿『カナン自由行政センター』の四対の巨大な光の翼が、さらに激しく、そして優雅に羽ばたいた。
窓の外の景色は、もはや「水平線」ではなくなりつつあった。
青かった空は急速にその色を濃くし、深い群青、そして星々が煌めく漆黒へと移り変わっていく。
「リシア殿、落ち着いて聞いてください。……我々は今、空を飛んでいるのではなく、世界の外側に飛び出そうとしています!」
ユリウス様が、浮遊し始めた自分のマントを必死に押さえながら叫んだ。
重力制御が追いつかないほどの急加速。執務室のペン立てからペンが一本、また一本と浮かび上がり、まるで無重力のダンスを踊り始めている。
「リシア、君は正気か!? 帝国の最新鋭飛空艇でも、この高度まで上がれば魔力炉が凍結して墜落するぞ! 君の言う『世界の掃除』とは、物理的に星を離れることだったのか!」
レオン王子も、ソファの手すりにしがみつきながら、流れる汗を拭っている。
そんな二人の「常識的なパニック」を横目に、私は空中に投影された巨大な魔導レーダーを指差した。
「二人こそ、落ち着いてください。……見てください、この空に溜まった『淀み』を。……これが、古代システムが起動した原因です」
レーダーには、地上からは見えない「魔力の塵」が、雲のように世界を覆っている様子が映し出されていた。
それは、数千年にわたって人類が無計画に放出し続けた魔力の排気ガス――いわば、世界の『ゴミ箱』が満杯になった状態だ。
「古代の管理システム『アトラス・リセット』。……その正体は、このゴミを処理するために、地上の文明ごと『全削除』して初期化する、極めて横暴で非効率な自動マクロですわ。……私の書き上げた完璧な帳簿を、そんな雑な理由で白紙にされてたまるもんですか」
私は、浮かび上がったお気に入りの万年筆を空中でキャッチし、不敵に微笑んだ。
「削除が正解だと言うのなら、私が『整理整頓』が正解だと教えて差し上げます。……エギス、宮殿を第三形態――『環境浄化要塞』へ移行。……吸引ノズル、展開!」
『――了解。……マスター。……全吸気口を開放します。……これより、成層圏に滞留する「魔力の澱み」を一括吸引。……宮殿の動力源へリサイクル変換します』
ズドォォォォォン!!
宮殿の下部から、まるで世界を飲み込む掃除機のような轟音が響いた。
空を覆っていた不吉な紫色の霧が、巨大な渦を巻いて我が宮殿へと吸い込まれていく。
「な……!? あの禍々しい魔力を、吸い込んでいるのか!? 浄化してエネルギーに変えるなんて、帝国の魔導工学でも理論上の空論だったはずだ!」
「理論がないなら、私が段取りを作ればいいだけのことです。……あ、ガストンさん! 厨房の排気ダクトが逆流しないように気を付けて!」
私は通信端末で厨房へ指示を飛ばす。
世界が滅ぶかどうかの瀬戸際だというのに、私の脳内では「いかに効率よく大気汚染を解決し、ついでに燃料代を浮かせるか」という計算が火花を散らしていた。
宮殿はぐんぐんと高度を上げ、ついに空気の薄い「世界の天蓋」へと到達した。
そこから見下ろす世界は、丸く、輝いていた。
「……綺麗ですね」
ユリウス様が、窓に手をついてポツリと漏らした。
激しい加速が収まり、宮殿は静かに衛星軌道上を滑り始めた。
「……あんなに美しく、しかし不合理な世界を守るために、私は剣を振るってきたのですね。……リシア殿。貴女がここに来なければ、私は一生、この視点を持つことはなかった」
「感傷に浸るのは後です、ユリウス様。……見てください、あそこです。……『ゴミの元凶』がいます」
私が指差した先。
漆黒の宇宙空間に、巨大な「黒い立方体」が浮かんでいた。
それは、古代人が遺した最終防衛拠点。
地上の文明が「散らかしすぎた」と判断した時に起動し、すべてを塵に帰す神の審判機。
『――警告。……侵入者を検知。……環境維持プログラム「アトラス」の実行を妨害する個体を排除します。……これより、地上への「リセット光線」をチャージ開始』
黒い立方体が、眩い光を放ち始めた。
地上に向けて放たれようとしているのは、文明を一瞬で蒸発させるほどの熱量。
「リシア、あれを撃たせたら終わりだ! 何か策はあるのか!?」
レオン王子が叫ぶ。
私は、慌てることなく、手元の魔法端末に「あるファイル」を表示させた。
「……策? そんなもの、一つしかありませんわ。……エギス、宮殿の通信出力を最大に。……相手のメインフレームに、私の作成した『一万年分の改善提案書』と『未払い残業代の請求リスト』を同時送信して!」
『――承認。……一括送信。……データの重みで、相手の回線を物理的にパンクさせます』
――ガガガガガッ!
地上へ向けて照射されようとしていた光が、一瞬で乱れた。
黒い立方体から、先ほどの暗黒ギルドの時とは比べ物にならないほどの「バグ音」が漏れ出す。
『――理、解……不能……。……一万年分の……タスクリスト……? ……「掃除の仕方が甘い」……? ……「もっと効率的な、捨てない管理方法がある」……? ……ギギ……ギギギ……』
「いいですか、古代システム。……貴方は『捨てる』ことで管理しようとしましたが、それは管理職としての敗北です。……真の管理とは、ゴミさえも資産に変え、持続可能なルーチンを組むこと。……貴方のプログラミング、私の手で一からリファクタリングして差し上げます!」
私は、紋章の輝く手を宇宙へと向けた。
可動宮殿から放たれた無数の光の糸――それは攻撃ではなく、膨大な「修正プログラム」だ。
黒い立方体に取り付き、その非効率な回路を一つずつ書き換えていく。
「……凄い。……リシア殿は今、神の意志を『書き換え』ているのか……」
ユリウス様が、畏敬の念を込めて呟く。
数分後。
凶悪な光を放っていた黒い立方体は、穏やかな白い輝きへと変化し、その形状も「立方体」から「巨大な収納棚」のような形へと変わっていった。
『――診断……完了。……管理権限を移行します。……マスター・リシア。……世界の掃除方法を、再学習しました。……これより、地上へのリセットを中止し、全世界の「ゴミ収集システム」への接続を開始します』
「……よし。これで少しは、世界がきれいになりますね」
私は、額の汗を拭い、椅子に深く腰掛けた。
成層圏を飛ぶ宮殿。
その眼下では、世界中の空を覆っていた紫の霧が消え、人々が驚きとともに青空を見上げていることだろう。
「……リシア。君は本当に、世界の掃除を終わらせてしまったんだな」
レオン王子が、信じられないものを見るように笑った。
「掃除は終わっていませんわ、レオン王子。……溜まったゴミを片付けただけで、これからは『汚さない仕組み』を作らなければなりません。……そのためには、全世界の国境を取り払った、一括管理体制が必要です」
私は、新しい手帳の真っ白なページをめくった。
「……さあ、地上に戻りましょう。……新大陸も旧大陸も関係ありません。……明日からは、世界中の人々が私の『完璧なスケジュール』に従って動く、新時代の幕開けです!」
可動宮殿が、ゆっくりと大気圏へと再突入を開始する。
その光り輝く姿は、地上から見ればまさに「神の帰還」そのもの。
しかし、その中では、一人の事務官が「あ、宇宙空間での酸素代の経費精算、どうしよう」と、切実な問題に頭を悩ませているのだった。




