第18話 終焉と始まりの「引継ぎ書」
朝日が地平線を黄金色に染め、要塞化した宮殿の黒銀の装甲を美しく照らしていた。
未曾有の「夜会での決戦」が終わった翌朝。並の人間であれば、勝利の余韻に浸って祝杯を上げるところだろう。
だが、私の朝は、一五〇〇ページに及ぶ「国家解体に関する最終報告書」のタイピングから始まった。
「……よし。これで旧王国の固定資産税の整理と、全職員の有給休暇の振替、および『王位』という名の不良債権の処理に関する項目は完了ね」
私は、執務室の窓から差し込む朝日を浴びながら、魔法端末の確定ボタンをタップした。
画面には大きく『処理完了:グラン・ゼニス王国(ステータス:清算済み)』の文字が表示される。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「リシア殿、失礼します。……朝食と、例の『署名者』を連れてきました」
入ってきたのは、夜通しで警備にあたっていたはずなのに、微塵も疲れを感じさせない完璧な身なりのユリウス様だ。
その後ろから、力なくズルズルと引きずられるように入ってきたのは、ヨレヨレのジャージ姿のゼニス三世である。
「……リシア。頼む、もう一度だけ考え直してはくれぬか。わしは王だぞ、歴史ある王国の主だぞ。せめて……せめて『名誉王』とか、そんな肩書きを……」
「却下です。ゼニスさん、貴方は昨夜の時点で、自国のインフラ維持能力を完全に喪失し、さらには王子のテロ行為を未然に防げなかったという『管理責任の重大な不備』があります」
私は、デスクの上に一枚の書類――正確には、この世で最も冷酷な内容が記された『業務引継ぎ完了証』を提示した。
「これにサインを。これをもって、貴方は王としてのすべての重荷から解放されます。……あ、代わりに今日から三日間、キャンプのゴミ捨て当番がフルタイムで組まれていますので、遅れないように」
「うおおおん……。わしの王冠が、トングに化けてしまったぁ……!」
国王が震える手でサインを終えた瞬間、私の管理者の紋章がまばゆい光を放った。
旧王国のシステムが、正式に私のカナン・システムへと統合された合図だ。
歴史の教科書なら、ここで「王権の終焉」として何十ページも割かれるであろう瞬間だが、私の感覚としては「不採算部門の整理がようやくついた」という安堵感の方が強かった。
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「リシア様! 大変ですわ、大変すぎますわ!」
会計官のミレーヌが、鼻息も荒く執務室に飛び込んできた。彼女の手には、更新されたばかりの連邦の財政ログが表示されている。
「どうしました、ミレーヌ。予算に不備でも?」
「いえ、逆です! 旧王国の解体と同時に、大陸中の商人たちが『ゼニス金貨』をすべて『リシア』に換金しようと殺到しています! 現在のリシア連邦の経済規模……なんと、昨夜の時点で昨年の大陸全体の総生産を超えてしまいました! 私、もう計算機が追いつかなくて、脳が溶けそうですわ!」
「あら。……それは、少しだけ段取りを早める必要がありますね。レオン王子に連絡して。帝国の銀行網をすべてカナンのサーバーに直結させなさい。……手数料は五パーセント、帝国への『指導料』として徴収します」
「かしこまりました! 帝国の国庫を空にする勢いで毟り取ってきますわね!」
ミレーヌが電光石火の勢いで去っていく。
レオン王子も今頃、自分の国がいつの間にかカナンの「経済的属国」になりかけていることに気づいて、頭を抱えていることだろう。
だが、彼なら「これもリシアの愛の形か」とポジティブに解釈しそうなので、あまり心配はしていない。
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騒がしい午前中の業務が一段落した頃。
私はバルコニーに出て、涼やかな朝の空気を吸い込んだ。
隣には、常に影のように私に寄り添うユリウス様がいる。
「……リシア殿」
「はい、ユリウス様」
「貴女は、本当に世界を作り変えてしまいましたね。……昨日まで一介の事務官だった貴女が、今や大陸全土を動かす『連邦』の最高調整官です」
ユリウス様が、珍しく神妙な面持ちで私を見つめた。
「……私は、貴女の騎士として、これ以上望むことはありません。……ですが、一人の男としては……」
その言葉に、私の「有能な心臓」が、わずかにイレギュラーな鼓動を刻んだ。
ユリウス様が私の手を取り、跪こうとする。
これは。
私の膨大なデータベースによれば、九十九パーセントの確率で「公開プロポーズ」というイベントに該当する。
「リシア殿、私は貴女に――」
「あ、ユリウス様! ちょっと待ってください!」
私は慌てて魔法端末を操作し、彼に見せた。
「……これ、貴方の来月の『福利厚生プラン』の修正案です。……騎士団長としての激務に見合うよう、特別手当の増額と、週休二日の完全保証、および……私の隣での『優先同行権』を永久付与しようと思っているのですが、いかがでしょうか?」
「…………」
ユリウス様は、跪こうとした姿勢のままフリーズした。
「……リシア殿。今の私の言葉を、福利厚生の交渉だと思われましたか?」
「え? 違ったんですか? ……非常に重要な、生涯にわたる『雇用契約の更新』だと判断したのですが」
私は小首をかしげた。
ユリウス様は、呆れたように、けれど愛おしそうに笑って立ち上がった。
「……ふふ。……ええ、そうです。最高の内容です。……その契約、謹んでお受けしましょう。……生涯、貴女の隣という『職場』を死守させていただきますよ」
「はい。……期待しています。貴方の代わりは、私のシステムの中にも存在しませんから」
二人の間に流れる、少しだけ甘くて、決定的に仕事熱心な空気。
私の乙女心は、まだ「段取り」の途中だったけれど、ユリウス様が握る手の温かさだけは、どの書類よりも真実であると確信できた。
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しかし、平穏な時間は長くは続かない。
それが、有能すぎる事務官の宿命なのだ。
『――警告。カナン領・西方の外洋にて、未知の巨大反応を確認。……魔力波形、既存のどの大陸のものとも一致しません』
エギスの冷徹な音声が響き渡った。
私は即座に、手の中の温もりを離し、戦士の瞳――いや、管理者の瞳に戻った。
「モニターに出して」
空中に投影されたのは、水平線の向こうから現れた、見たこともない形状の巨大な蒸気船だ。
マストには、黄金の太陽と歯車を組み合わせた、未知の紋章が翻っている。
「……新大陸の使節、ですか。……事前の入国予約は届いていませんね」
「リシア殿、不審な船です。……帝国の飛空艇より巨大だ。……迎撃の準備をしましょうか?」
「いえ。……向こうも『交渉』のつもりでしょう。……でなければ、わざわざあんな目立つ旗は掲げません」
私は、新しい手帳の最初のページに、大きな文字でタスクを書き込んだ。
『新大陸との外交折衝・およびシステムのグローバル化』。
旧王国の崩壊は、単なる国内の整理整頓に過ぎなかった。
これから始まるのは、世界という名の巨大な「非効率」との戦いだ。
「さて……ユリウス様。……お客様のようです。……一列に並んでいただく準備をしてください。……新大陸の方々にも、カナンの『段取り』をたっぷりとお見舞いして差し上げましょう」
リシアは不敵に微笑み、ペンを回した。
彼女の「お片付け」は、ついに世界の果てまで届こうとしていた。
世界は広かった。リシアの段取り、ついに「世界平和」へ。




