第17話 怪物になった王子、事務に負ける
「……不快です。非常に、不快です」
私がバルコニーに降り立った第一声は、怒りでも恐怖でもなく、純然たる「衛生上の懸念」だった。
目の前にいるのは、かつてグラン・ゼニス王国の第一王子として、それなりに端正な顔立ちを誇っていたセドリック殿下の「成れの果て」だ。
彼の肉体は膨れ上がり、皮膚からは紫色の粘液が滴り、背中からは数本の歪な触手が生えている。その手には心臓のような魔道具が埋め込まれ、脈打つたびに周囲の空気を腐敗した魔力で汚染していた。
「リシアぁ! 見ろ、この力を! これが王に相応しい、絶対的な武力だ! 貴様のような小賢しい裏方が、数万人束になっても届かない高みに私は立ったのだ!」
セドリックは、濁った声で笑いながら地面を叩いた。
石畳が砕け、飛び散った破片が鋭い弾丸となって周囲の招待客たちを襲う。
「リシア殿、危ない!」
ユリウス様が瞬時に前に出、抜く手も見せぬ剣閃で石礫をすべて叩き落とした。その背中は、どんな魔獣よりも揺るぎない壁となって私を守っている。
「レオン、貴公は招待客の避難を! ここは私が食い止める!」
「断る。……と言いたいところだが、この不潔な液体を浴びるのは、帝国の王子の美学に反するからな。リシア、三分だ。三分以内に、この『粗大ゴミ』の処分ルートを確定させてくれ」
レオン王子が指を鳴らすと、周囲に展開された魔法障壁が招待客たちを包み込み、安全な後方へとスライドさせていく。
「……三分も必要ありません。エギス、戦闘エリアの『仕分け』を開始してください。……ユリウス様、そのまま殿下を中央の誘導ポイントへ押し込めますか?」
「お安い御用だ。……リシア殿の『段取り』を乱す者は、万死に値する!」
ユリウス様が地を蹴った。
怪物化したセドリックは、その巨体に見合わぬ速さで触手を振り回すが、ユリウス様の動きはそれを遥かに凌駕していた。
一撃。二撃。
剣がセドリックの粘液に覆われた腕を断ち切るが、異形の再生能力は凄まじく、瞬時に切り口から新たな触手が再生する。
「無駄だ! 再生するたびに私の魔力は強まる! 物理的な攻撃など、私というシステムの前では誤差に過ぎない!」
「システム、ですか。……その言葉、私への挑戦状と受け取ってよろしいですね?」
私は魔法端末を空中に展開し、管理者の紋章を最大出力で発動させた。
「殿下。貴方のその肉体、一見すると無敵のようですが……エネルギー効率が絶望的に悪い。その再生、一回ごとに貴方の脳細胞と寿命をどれだけ消費しているか、計算したことはありますか?」
「うるさい! 死ぬまでに貴様らを、この世界を支配すればいいのだ!」
「……いいえ、計算もできない方に、支配はおろか、事務さえ不可能です。世界は、無数の誰かの仕事でなりなっている。それに思いをはせることのできない貴方は、そもそも王の器ではなかったのです。……エギス、セクター4の『重力可変床』を作動。……それから、殿下の体内に流れる魔力血流の『循環不全』を引き起こして」
『了解しました。……殿下の魔力パスを、宮殿の「排水処理プログラム」に強制接続します。……同期完了』
次の瞬間、セドリックの動きがピタリと止まった。
彼の肉体から噴き出していた紫色のオーラが、足元の床に吸い込まれていく。
「な……なんだ、これは!? 私の力が、抜けていく……!?」
「殿下。貴方が使っているのは古代の魔道具ですが、その『通信プロトコル』は、この可動宮殿のサブシステムの一つに過ぎないんですよ。……つまり、私が管理者である以上、貴方の魔力は私にとって『未分類の不要データ』。……削除対象です」
私は指先で、端末上の「完全消去」ボタンをタップした。
ズドォォォォン!!
セドリックの肉体から、不潔な魔力が逆流して爆発した。
だが、その衝撃さえも宮殿の防衛障壁によって隔離され、一滴の粘液さえも周囲を汚すことはない。
「ぐあぁぁぁぁぁぁ! あああぁぁぁ! 私の、私の王の力がぁぁ!」
再生を封じられ、急激に萎んでいく異形の肉体。
数分後、そこには怪物としての威厳を失い、泥にまみれて這いつくばる、半裸の男が転がっていた。
背中から生えていた触手は枯れ木のように折れ、瞳からは狂気が消え、代わりに底知れぬ「空虚」が宿っている。
「……リシア……。……なぜだ。……なぜ、私は……勝てない……?」
「殿下。……貴方は『力』さえあれば人が付いてくると信じていた。……ですが、逆ですよ。この宮殿が私についてきたのは、私が力を持っていたからではありません。……私が、彼らの名前を覚え、彼らの生活を整え、彼らの『明日』を保証したからです。そんなみんながいることこそ、私の力なんです」
私は静かに歩み寄り、セドリックの目の前に立った。
彼の胸元には、旧王国の第一王子であることを示す、泥にまみれた金色の勲章が一つだけ残っていた。
「……殿下、見てください。会場の招待客を。……貴方の旧臣たちを。……そして、貴方の父上を」
セドリックが、震える首を回して周囲を見渡した。
そこには、怯える人々はいなかった。
あるのは、憐れみ。軽蔑。そして、「もう関係ない」という無関心。
カナン領のキャンプで草をむしっていた国王ゼニス三世さえも、トングを握りしめたまま、悲しげに息子を眺めていた。
「……誰も、貴方の名前を呼んでいません。……この大陸に、貴方の居場所は、もう一平方メートルも残っていないのです」
「…………」
セドリックの瞳から、一筋の涙が溢れた。それは魔獣の返り血でも、呪われた粘液でもない、ただの情けない、一人の男の涙だった。
彼はそのまま、力を失って気を失った。
「エギス。……彼と、その取り巻きの残党たちを『再教育センター・特別隔離棟』へ。……罪状はテロ未遂および公共物汚染罪。……あ、クリーニング費用は彼らの一生分の労働で相殺させてください」
『了解しました。……対象の移送を開始します』
光の粒子となって消えていくセドリック。
会場に、一瞬の静寂。
そして、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
それは武勇を称えるものではなく、不合理な災厄を「事務的」に、そして完璧に片付けた一人の事務官への、最大級の感謝であった。
「リシア殿……お見事でした。……しかし、少々やりすぎではありませんか? 王子の絶望した顔が、今も目に焼き付いていますよ」
ユリウス様が剣を納め、優雅な礼を捧げる。
「やりすぎではありません。……掃除を中途半端にすると、カビが生えますから。……レオン王子、お待たせしました。……三分を十秒オーバーしましたが、許容範囲内ですよね?」
「……いや。……君に『期限』を突きつけた私の傲慢を謝罪しよう。……リシア、君はもはや、この大陸を導く女神だ。……いや、女神の管理者だな」
レオン王子が、感服したように私の手を取った。
「女神ではありません。……ただの、段取りが得意な事務官です」
私は、手帳を取り出し、今日の最後のタスクに線を引いた。
『旧王国の残党処理』――完了。
顔を上げると、夜明けの光が水平線から差し込んでいた。
その光に照らされたのは、ボロボロになった旧王国の旗ではない。
カナン領、サフィア帝国、そして大陸中の国々が、一つの「効率的なシステム」のもとに繋がろうとする、新たな時代の幕開けだった。
「……さて。……ユリウス様、レオン王子。……皆様。……夜明けとともに、新しい発表があります」
私は、要塞化した宮殿のスピーカーを最大出力で起動させた。
「グラン・ゼニス王国は、本日、正式に解体されました。……代わって発足するのは、カナンを中枢とした、大陸最大の自由貿易・行政共同体……『リシア連邦』です。……参加を希望する国の皆様、あちらの受付窓口に並んでください。……順番に、片付けますから」
史上最速の建国宣言。
その主役は、誰よりも目立たないように、誰よりも完璧な仕事をする少女だった。
次回、旧王国の完全な消滅と、新しい「リシア連邦」の発足。




