第8章:王太子、後悔の再来
試食会での圧勝により、「ル・セシル」の名声は王都で不動のものとなった。王都製菓組合は権威を失墜し、私に敗北を認めた職人の中には、教えを乞うために店を訪れる者まで現れ始めた。
店は連日、開店前から長蛇の列ができるほどの盛況ぶりだった。私もカイもリゼも、休む暇もないほど忙しい毎日を送っていたが、その顔には充実感が溢れていた。
そんなある日の閉店後。店の扉を叩く者がいた。カイが応対に出ると、そこに立っていたのは、私が最も会いたくない人物だった。
「セシリアに会いに来た。通してくれ」
アルフォンス・フォン・クライネルト。私を婚約破棄し、追放した張本人である王太子殿下だった。供も連れず、お忍びでやってきたらしい。
カイが私を庇うように立ちはだかるが、私は静かに彼を下がらせた。
「……何の御用でしょうか、殿下」
久しぶりに見る彼は、以前よりも少しやつれているように見えた。彼は私の顔と、繁盛している店の様子を交互に見ながら、気まずそうに口を開いた。
「……君の噂は、聞いている。試食会でのことも。まさか君に、このような才能があったとは……」
「今更、何をおっしゃりたいのですか」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
「私は、君を誤解していた」
彼は一歩、私に近づいた。
「マリアは、王妃の器ではなかった。彼女は優しすぎたのだ。貴族社会の複雑な駆け引きについていけず、心労で倒れてしまった。国政も、私が思っていたようには上手くいかない。今になって、君がどれほど完璧に王太子妃としての務めを果たそうとしてくれていたか、分かったんだ」
彼は、縋るような目で私を見つめた。
「セシリア。もう一度、私の隣に戻ってきてはくれないだろうか。改めて、君を王妃として迎えたい。君が必要なんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の心に燃え上がったのは、怒りではなく、深い深い憐憫の情だった。ああ、この人は、まだ何も分かっていない。
私は、ふっと冷笑を漏らした。
「殿下。あなたは、本当に滑稽な方ですね」
「なっ……」
「あなたは、私が“完璧な王太子妃”だから必要だと言う。そして今度は、“素晴らしい菓子職人”だから必要だと言う。どちらも、私という人間そのものではなく、私の持つ能力や肩書きを見ているに過ぎません」
私はまっすぐに彼の目を見返した。
「あなたは、私を見たことなど一度もなかったでしょう?私が何に悩み、何を思い、何を大切にしていたか。あなたは私のことなど、何も知らなかった。そして、今も知らない」
かつて、彼の隣にいた頃の私は、ただ息苦しかった。今は違う。ここには、私の作るお菓子を愛してくれる人がいる。私という人間を信じてくれる仲間がいる。
「お断りします。私の幸せは、もうあなたの隣にはありません。私の居場所は、この厨房です」
私はきっぱりと告げた。
「お引き取りください。私たちは、明日の仕込みで忙しいのです」
アルフォンスは呆然と立ち尽くしていた。彼が求めたのは「悪役令嬢」の対極にいる「完璧な聖女」であり、そのどちらでもない、不器用で、でも懸命に生きる一人の人間としての私ではなかった。彼が自分の過ちに本当に気づく日が来るのかは、私にはわからない。だが、それはもう、私の知ったことではなかった。




