第3章:幸せのひとかけら、初めての焼き上がり
記憶を取り戻した私は、早速行動を開始した。まずは、チョコレートタルトを作るための材料集めだ。しかし、ここは王都から遠く離れた辺境の村ベルフェリア。レシピノートに書かれた材料が、そう簡単に見つかるはずもなかった。
「カカオ……ですか?聞いたこともない豆ですね」
村の商人に行商人が持ち込んだ珍しい品々を見せてもらうが、私の求める「チョコレート」の原料、カカオ豆は見当たらない。バターや砂糖、小麦粉はなんとか手に入ったが、品質は決して良いとは言えないものだった。
それでも、私は諦めなかった。数日かけて村中を探し回り、森に詳しい猟師に話を聞いた。すると、彼は「黒くて苦い実がなる木」を知っていると言う。案内してもらった森の奥深く、そこに生えていたのは、まさしくカカオの木だった。この世界にも存在したのだ。収穫期は過ぎていたが、木に残った数少ない実を、私は大切に譲り受けた。
そこからの作業は、前世の知識がなければ不可能だっただろう。カカオ豆を発酵させ、乾燥させ、焙煎する。石臼で根気よくすり潰し、砂糖と混ぜ合わせる。途方もない時間と労力をかけ、私はようやく黒く艶やかな、自家製のチョコレートを完成させた。それは日本の製菓材料店で手に入るような滑らかなものではなかったが、力強く、野性的な香りを放っていた。
老夫婦の家の、古びた石窯を借りる。タルト生地は、質の悪い小麦粉の風味を消すために、森で採れる木の実を砕いて混ぜ込み、香ばしさを加えた。卵と砂糖を丁寧に泡立て、溶かしたチョコレートとバターを混ぜ合わせる。レシピ通りの完璧な配合とはいかない。材料も、道具も、何もかもが違う。けれど、私の感覚が「これだ」と告げていた。
焼き上がりの時間が近づくにつれ、家中に濃厚で甘い香りが立ち込めてきた。それは、村の人々が誰も嗅いだことのない香りだった。噂を聞きつけた村の子どもたちが、興味深そうに家の周りをうろつき始める。
「……できた」
石窯から取り出したチョコレートタルトは、少し不格好だったけれど、紛れもなく私が目指したお菓子だった。艶やかなチョコレートフィリングが中央でぷるりと揺れている。
粗熱が取れるのを待って、私はタルトを切り分けた。そして、外で待っていた子どもたちに、一切れずつ手渡す。
「さあ、食べてみて」
子どもたちは恐る恐る、黒いお菓子のかけらを口に運んだ。次の瞬間、全員の目が大きく見開かれる。
「……なに、これ……」
「あまい……!でも、ちょっとだけ苦い!サクサクする!」
「おいしい……!こんな味、知らない……!」
一口、また一口と、子どもたちは夢中でタルトを頬張った。その顔には、これまで見たこともないような満面の笑みが浮かんでいる。その笑顔を見た瞬間、私の胸に温かいものが込み上げてきた。そうだ、私はこの顔が見たかったんだ。王城で、完璧な令嬢を演じていた時には、決して得られなかったもの。
その日のうちに、「セシリアの作る不思議で美味しいお菓子」の噂は、あっという間に村中に広まった。老夫婦も、村長も、畑仕事帰りの農夫も、誰もが私の焼いたタルトを一口食べると、驚き、そして幸せそうに微笑んだ。
それは、ほんのひとかけらのお菓子だったかもしれない。けれど、貧しく、日々の暮らしに追われるこの村の人々にとって、それは確かに「幸せのひとかけら」だったのだ。
私は確信した。私の作るお菓子は、ここでなら誰かを幸せにできる。私の居場所は、ここにある。




