第2章:雨と絶望と、懐かしい文字
王都を追われ、あてのない旅が始まって数日が過ぎた。立派な馬車も、上等なドレスも、全て取り上げられた。手元にあるのは、着の身着のままと、僅かばかりの金貨だけ。護衛もいない一人旅は、侯爵令嬢として生きてきた私にとってあまりにも過酷だった。
降りしきる冷たい雨が、容赦なく体温を奪っていく。泥濘に足を取られ、みすぼらしいローブはずぶ濡れで重い。空腹と疲労で、意識が朦朧としてきた。
もう、どれくらい歩いただろう。道の先に、小さな村の灯りが見えた。ベルフェリア、確かそんな名前の辺境の村だ。最後の力を振り絞って村の入り口にたどり着いた瞬間、私の足はもつれ、視界が暗転した。
次に目を覚ました時、私は古びた木製のベッドの上にいた。硬いが清潔な寝具の感触と、暖炉の薪がぱちぱちと爆ぜる音。体を起こすと、簡素なワンピースに着替えさせられていた。
「おや、目が覚めたのかい」
部屋に入ってきたのは、皺の刻まれた優しい目をした老婆だった。私が倒れているところを、夫が見つけて運んでくれたのだという。老婆は温かいスープを差し出してくれた。空っぽの胃に染み渡るその優しさに、思わず涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。
数日間、私は老夫婦の家で世話になった。彼らは私の素性を詮索することなく、ただ静かに回復する時間を与えてくれた。体力が戻ってきたある日、老婆が私の荷物を整理してくれていた。それは、私が倒れた時に抱きしめていた、小さな革袋だ。
「お嬢さんの大切なものだろうと思ってね。雨で濡れていたから、乾かしておいたよ」
その中に入っていた金貨と、そしてもう一つ。濡れて少しインクが滲んでしまった、一冊の小さな手帳。それは私が物心ついた時から、なぜか肌身離さず持っていたものだった。これまで一度も開いたことはなかったのに、何故か捨てられなかった。
そっとページをめくる。そこに書かれていたのは、見たこともない、不思議な文字だった。しかし、その文字を見た瞬間、私の頭に激しい痛みが走った。
――『チョコレートタルト』
――『クーベルチュールチョコレート、無塩バター、グラニュー糖、卵、薄力粉……』
知らないはずの言葉が、次々と頭の中に流れ込んでくる。蘇るのは、真っ白なコックコートを着て、大きな厨房に立つ自分の姿。甘いチョコレートの香り。オーブンから漂う、香ばしい匂い。たくさんの笑顔。
そうだ、私は――。
「私は……パティシエ……だった……?」
日本の、という国の、洋菓子職人。それが私の“前世”の姿。セシリア・マリーベル・エインズワースとして生きてきた記憶と、もう一つの人生の記憶が、濁流のように混ざり合い、そして一つになった。
手の中にあるのは、前世の私が書き溜めていたレシピノート。その一ページ目には、私の最も得意だったお菓子、「チョコレートタルト」の完璧なレシピが記されていた。
涙が、今度こそ頬を伝った。それは絶望の涙ではなかった。追放され、全てを失ったと思っていた。けれど、私は何も失ってなどいなかったのだ。この手の中には、この頭の中には、誰にも奪うことのできない“宝物”があった。
私はレシピノートを強く握りしめる。
「ありがとう、おばあさん」
私を助けてくれた老婆に、心からの感謝を告げる。
「私、ここで生きていきます。私にできることで、恩返しをさせてください」
その日を境に、悪役令嬢セシリアは死んだ。そして、一人の菓子職人、セシリアが生まれたのだ。この辺境の村、ベルフェリアで。




