第12章:私が“私”になる場所
数年の歳月が流れた。
私の名は、大陸中に知れ渡っていた。しかし、もはや「追放された悪役令嬢」としてではない。「希望の菓子職人」あるいは「甘い革命の女王」として、尊敬と親しみを込めて呼ばれるようになっていた。
「ル・セシル」は国境を越え、いくつもの国に支店を持つ巨大な組織へと成長した。私はその総責任者として、多忙な日々を送っている。エリオットは公私にわたる最高のパートナーとして、常に私の傍らで経営を支えてくれている。彼の存在なくして、今の私はなかっただろう。
王太子アルフォンスは、数年前に王位継承権を辞退し、一人の貴族として地方の領地経営に専念していると聞いた。そこでようやく、民の暮らしや人の心の機微を学び、少しはまともな人間になったらしい。もう、私の人生に彼が交わることはない。
今日は、私が長年の夢だった、王都の平民街に新設した巨大な製菓学校の開校式の日だ。ここでは、身分に関係なく、お菓子作りへの情熱さえあれば誰でも学ぶことができる。壇上に立ち、集まった大勢の生徒たちの輝く瞳を見ていると、感慨深い気持ちになる。
式典が終わり、私は喧騒から逃れるように、一人で校舎の最上階に設けられた私のための厨房へと向かった。そこは、最新の設備が整ってはいるが、どこかベルフェリア村の最初の小屋を思い出させる、温かみのある空間だった。
私はエプロンを締め、慣れた手つきで材料を準備し始める。カカオ豆を挽き、バターを練り、卵を泡立てる。
どんなに組織が大きくなっても、どんなに偉い立場になっても、この場所だけは私の原点だ。全ての始まりである、チョコレートタルトを焼く時間。この時間だけは、誰にも譲れない。
オーブンから漂い始める、濃厚で甘い香り。それは、絶望の淵にいた私に希望をくれた香り。人々を笑顔にし、私に居場所を与えてくれた香りだ。
かつて、私は“悪役令嬢”と呼ばれた。完璧な侯爵令嬢を演じ、未来の王妃になるために生きていた。それは、誰かの期待に応えるための人生だった。
でも、今は違う。
「誰かのためじゃなく、自分のために――私は、今日もタルトを焼く」
私が私らしくあるために。私が本当にやりたいことを、自分の意志で選び取るために。
焼きあがったタルトをオーブンから取り出す。完璧な焼き色。部屋中に満ちる、幸せな香り。
一口食べると、あの日の感動が蘇る。サクッとした歯触りの後、濃厚なチョコレートの甘さと苦みが口いっぱいに広がる。
これが、私の味。これが、私の人生。
かつて「悪役」と呼ばれた令嬢は、もういない。
ここにいるのは、ただのお菓子を愛する一人の人間、セシリア。
私は、私が“私”になるこの場所で、これからもずっと、甘い幸せを焼き続けていくのだろう。




