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彫刻

作者: 豆苗4


『運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪に返すや否や斜すに、上から槌を打ち下ろした。堅い木を一刻みに削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挾んでおらんように見えた。

「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、

「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った』

(『夢十夜』第六夜より)




 木から能動的に仏を彫り出すのではなく、ありのままの姿を取り出した結果として、仏が眼前に現れる。それらはいつも事後的に起こる。内容の如何が重要ではない。何を彫るかではなく、そこに何が見られたのか。時間に順行するのではなく、逆行する形で現れてくる。私が意味を抽出するのではなく、意味が抽出されていたことに気づく。その何万年も前に。原因から結果を見出すのではなく、結果から原因が朧げに浮かび上がる。歴史が遡上する。私が不可逆的に破壊され長い期間を経て再形成された、その断続的な振る舞いが思い起こされる。一点に集約するのではなく、その経路ひとつひとつを辿って細部へ到達しうる。だから神は細部に宿るのだ。


 どんな文学作品であれ、そこに何らかの「仏」を見出すことは可能である。そうでない作品などあり得ない。そのことが啓示されるのだ。例えそれが正しいにせよ間違っているにせよ、文学の形をとっている限り、その奥行きが失われることはない。そうだろう? これらの作品が優れているだとか、極めて文学的であるだとか、琴線に触れるだとか、そんなお利口な談義をいくら重ねたところで一体何になろう? 誰がそんなことを言えよう? あの作品とその作品はどこが違うと言うんだ? 表面上の差異が文学を席巻せしめていたのならば文学はとうに死んでいるだろう。明確な差異と拭い去りようのない同一性がもたらす、死者との奇妙な連帯が文学の根底にはある。

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