五.アイソレーション
迎えた三月の大会の日、試合会場は保護者や選手の友人、関係者で毎年いっぱいになる。インカレに比べ大会規模としては小さいが、一部の学生の気合の入りようはあの時以上。なにせ、泣いても笑ってもこれで引退だ。
アップの最中、曲をかけているスマホに一通の通知が舞いこんだ。企業からのメッセージを、いまは指先で右に送って消去する。内定先の担当者には悪いけれど、今日だけは後回しにさせてほしい。
演技する自分を思い浮かべ、軛から解き放たれたイメージをそこに重ねる。血のにじむ回数ステップを刻んだ足はもう、もつれることはない。
揺るぎない肉体と精神の土台の上、活力の満ちる胸を、フィギュアらしくない躍動感で大きく動かしてみせる。
「柚香、そろそろやで!」
呼びに来たコウジンに大きくうなずき、イヤホンをしまう。会場のドアをくぐれば前のグループが残り二人、そろそろ靴を履いて覚悟を固める頃合いだ。
◇
――ただいまより、第三グループの練習を開始します。選手の皆様はリンクへお入りください。
歓声が聞こえる。反響して誰かもわからない混ざりあった声を背に、衣装纏う私たちは銀盤の上へ飛び出していく。
リンクサイドで先生の手まねきが見え、急いでそちらへ駆け寄った。
「まずはトウループとアクセルからや! 助走つけて本番通り跳べよ、ええなっ」
「はい!」
リンク真っただ中に漕ぎ出るのも、気づけばもう臆さなくなった。はじめてだった一年の時の足の震えを思えば、とうとう私もここまで来たのだと思い至る。
私の歩み。誰かとの比較でなく、過去の私との対比。
リンクの上、小鹿のように立つばかりだった足は靴にも馴染み、いまや氷の水面に私の進むべき方向を伝えている。
コーナーを猛スピードで突っ切る時、佳奈とコウジンの姿が見えた。佳奈の声は九州男児の野太い声にかき消え、口を開けた二人がしきりに何かを叫んでいる。
二人へ宛て、不敵な笑みを浮かべてみせる。安心して、今ならこんな風に笑えるんだよと、示すように。
――練習時間、終了です。選手の方はリンクサイドへお上がりください。
ジャッジ席に一礼をしてリンクから上がり、エッジケースでかかとについた氷を払い落とす。先生がジャンプの修正点を伝えながら、身体が冷えないようジャケットを被せてくれた。
「ええか、最初のトウループは絶対下りろ! 軸ほどけるから目線左に向けるな、右やぞ右!」
「はい!」
先生の矢継ぎ早の指示にも、もう狼狽えなくなった。体だけじゃない。心にも一本の太い幹が通って、いまならきっと揺らがない。
曲は「アイソレーション」じゃなくても、曲の解釈は自分次第だ。
最後の演技、テーマは独立。心を縛る不自由さからの旅立ち、へその緒を切って分かつアイソレーション。そんな意味をこめて滑るのなら、一人きりでも心強い。
想いを分けてくれたジョン・レノンも一緒に連れて行こう。
――十四番、織口柚香選手。××大学アイススケート部所属。
「柚香、ガンッバー!」
「ファイナル、かざってこい!」
強くうなずき、真っ白の海原へ漕ぎ出した。
独立の味は無軌道で誇らしくて、すこしだけさびしかった。