四.幼子は胸のうちに
スポーツセンターの一階エントランスは、他の施設利用者もウォーミングアップに使う広間になっている。
陸上、テニス、そして私たちスケート選手。ほかのスポーツの準備運動を見るのは新鮮で、時々よさそうなものがあれば拝借することもある。
少し早めに着いてルーティンを終え、空いた時間でダンスの動画を流す。スマホの向こう、左右逆に映る先生のお手本を見ながら、習ったばかりのアイソレーションを真似てみた。
リズミカルな音楽にあわせて動いていると、ダンスミュージックに似合わない鼻歌が紛れこんできた。
「アアアイ……ソレイショーン」
怪訝に思い声の主を見て、それからすぐに表情をあらためた。
溝渕先生だ。自分に酔いしれるように全身をくねらせ、歌らしきものを披露している。
「先生、どうしたんですか」
「知らん? あ、そっか知らへんかあ。ジョン・レノン」
「……ビートルズの?」
尋ねると曖昧に頷きかけ、先生は「ほぼ解散後のな」と付け足した。
「世界的に有名になったスターも、この十年後には『ジョン・レノン・キルド』だもんなあ。たまたまあっちに居てんけどな、新聞の一面を飾った時にゃびっくりしたわ。スターにはスターの孤独があんだわな、アアアイ……ソレイションッ」
歌の結びらしき部分を真似ながら、白髪交じりの頭を振り乱して先生は階段を降りていく。ギタークラッシュでもしそうなジョン・レノンに思わず噴きだすところだった。
◇
アップを終えリンクへ入ると、先生は「お、吹っ切れたか?」と尋ねてきた。
「はい」
「表情ええな。もう夕方で空いてきたからリンク広く使いや。ステップとか、まわり気ぃつけてやっていいから。今日の夜練で動けるようにしとき」
「はい!」
威勢よく返事をして、リンクの周回に入る。ふと思い立ち、コーナーを曲がるクロス滑走のところで円の外側を振り向こうとした。
遠心力に体が持っていかれそうになり、歯を食いしばる。上半身だけ観客の方を向いて滑る、上位選手が平然とやっていたスケーティングがこんなに難しいとは知らなかった。
「上やぞ、上!」
厳めしい声がとぶ。私の滑りを見ている。遠くから、こんなにちっぽけな私を、必ずどこかで見てくれている。
「目線下げるな、お客さんの方見ろ!」
「はい!」
まだ誰もいない、試合会場なら客席がある空間へとまなざしを向ける。手をひろげて精一杯の笑顔、肩や口の端がつりそうだ。恐怖の重力に逆らうよう、口角にめいっぱい力をこめた。
◇
遅くまで練習したその日の晩、ベッドに寝ころびながら先生の言っていた曲を聞いた。私でも知っている世界的バンドの中心人物が、みんなが怖い、太陽さえも怖いなんて恐れを抱くのかと思うと、意外さと、ほんの少しだけ愛しさを覚えた。
『柚香はさ、これが長所やってオレがいったら信じるん?』
あの日、コウジンがかけてくれた言葉が蘇る。
『オレがどげんかより、さ。本当に信じるべき相手は、もっと胸の奥におるんやなかろうかね』
彼はこういう時ばかり賢くなるから狡い。意地悪、と心の中で笑いかけ、そして自分の心の奥底にとぷんと意識を潜らせる。
幼子がいる。
無垢な手のひらをひろげ、つながりを求めて都会の人の波をさまよっている。
その子どもは誰の心の中にもいて、自分を見出してくれる誰かを探している。
胸の中央に手のひらを重ね、ぎゅっと押し当てた。心臓がじわりと温まって、子どもが泣きやむのが聞こえた。