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四.幼子は胸のうちに

 スポーツセンターの一階エントランスは、他の施設利用者もウォーミングアップに使う広間になっている。

 陸上、テニス、そして私たちスケート選手。ほかのスポーツの準備運動を見るのは新鮮で、時々よさそうなものがあれば拝借することもある。


 少し早めに着いてルーティンを終え、空いた時間でダンスの動画を流す。スマホの向こう、左右逆に映る先生のお手本を見ながら、習ったばかりのアイソレーションを真似てみた。


 リズミカルな音楽にあわせて動いていると、ダンスミュージックに似合わない鼻歌が紛れこんできた。

「アアアイ……ソレイショーン」

 怪訝(けげん)に思い声の主を見て、それからすぐに表情をあらためた。

 溝渕先生だ。自分に酔いしれるように全身をくねらせ、歌らしきものを披露している。


「先生、どうしたんですか」

「知らん? あ、そっか知らへんかあ。ジョン・レノン」

「……ビートルズの?」

 尋ねると曖昧に頷きかけ、先生は「ほぼ解散後のな」と付け足した。

「世界的に有名になったスターも、この十年後には『ジョン・レノン・キルド』だもんなあ。たまたまあっちに居てんけどな、新聞の一面を飾った時にゃびっくりしたわ。スターにはスターの孤独があんだわな、アアアイ……ソレイションッ」


 歌の結びらしき部分を真似ながら、白髪交じりの頭を振り乱して先生は階段を降りていく。ギタークラッシュでもしそうなジョン・レノンに思わず噴きだすところだった。



 アップを終えリンクへ入ると、先生は「お、吹っ切れたか?」と尋ねてきた。

「はい」

「表情ええな。もう夕方で空いてきたからリンク広く使いや。ステップとか、まわり気ぃつけてやっていいから。今日の夜練(よるれん)で動けるようにしとき」

「はい!」

 威勢よく返事をして、リンクの周回に入る。ふと思い立ち、コーナーを曲がるクロス滑走のところで円の外側を振り向こうとした。

 遠心力に体が持っていかれそうになり、歯を食いしばる。上半身だけ観客の方を向いて滑る、上位選手が平然とやっていたスケーティングがこんなに難しいとは知らなかった。


「上やぞ、上!」

 (いか)めしい声がとぶ。私の滑りを見ている。遠くから、こんなにちっぽけな私を、必ずどこかで見てくれている。

「目線下げるな、お客さんの方見ろ!」

「はい!」


 まだ誰もいない、試合会場なら客席がある空間へとまなざしを向ける。手をひろげて精一杯の笑顔、肩や口の端がつりそうだ。恐怖の重力に逆らうよう、口角にめいっぱい力をこめた。



 遅くまで練習したその日の晩、ベッドに寝ころびながら先生の言っていた曲を聞いた。私でも知っている世界的バンドの中心人物が、みんなが怖い、太陽さえも怖いなんて恐れを抱くのかと思うと、意外さと、ほんの少しだけ(いと)しさを覚えた。

『柚香はさ、これが長所やってオレがいったら信じるん?』

 あの日、コウジンがかけてくれた言葉が蘇る。

『オレがどげんかより、さ。本当に信じるべき相手は、もっと胸の奥におるんやなかろうかね』


 彼はこういう時ばかり賢くなるから(ずる)い。意地悪、と心の中で笑いかけ、そして自分の心の奥底にとぷんと意識を潜らせる。


 幼子(おさなご)がいる。

 無垢な手のひらをひろげ、つながりを求めて都会の人の波をさまよっている。

 その子どもは誰の心の中にもいて、自分を見出(みいだ)してくれる誰かを探している。


 胸の中央に手のひらを重ね、ぎゅっと押し当てた。心臓がじわりと温まって、子どもが泣きやむのが聞こえた。

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