三.雛鳥の嘴
雨の日の地下鉄構内はひんやりとして、心なしかカビ臭い霧の粒が肌に纏わるようだった。改札を抜け、地上出口への階段をのぼると、傘をさした佳奈が気づいて手を振った。
「ごめーん、待たせて」
「ううん。スタジオ、歩いてすぐだから」
私の不案内な場所でも、佳奈は慣れた足どりで「こっち」と行く手を指差し歩いていく。秋の気配の見えはじめたこの頃は雨続きで、リンクにも靄が立ちこめる憂鬱な時期だ。
練習に身の入らない私を見かねてか、佳奈はある日ダンス教室の体験に来ないかと誘ってくれた。
身体表現を学ぶためにバレエや社交ダンスをやるスケーターはそこそこいるが、フィギュアと相性もよくないヒップホップを習っているのは佳奈らしいなと思う。
「誘っといてなんだけど、意外だねー。正直柚香、来ないと思ってた」
「うん……自分でもちょっとびっくりした」
どういう風の吹き回しかと聞かれたら、答えに窮しそうだ。むしろ、心が凪いだように波すら立たないのが焦りになり、あえて新風を吹き入れたくなったのかもしれない。
◇
スタジオに入ると、鏡ごしに気づいた先生らしき女の人が、振り返って手まねきをした。
明るい茶髪に燃えるオレンジのインナーカラー、溌溂と自信を湛えた容姿はどこかまばゆく別世界の人間のように感じた。
「こんにちは! あなたが柚香ちゃん?」
「そ、私のスケート友だち! 最近スランプっぽいから、気晴らしにって誘っちゃった」
私が自己紹介するより早く、佳奈は器用に口を動かしながらシューズとレッスン着を取りだしている。
「はじめまして、織口柚香と申します。佳奈と一緒にフィギュアをやってるんですが、その、身体表現を磨きたくて……」
「うーん、聞いてた通り! あたし、インストラクターのクミです。クミちゃんでいいわよ」
何が聞いてた通りなんだろう。関知しないところでのやりとりを問いつめる隙も与えず、佳奈はそそくさと更衣室に入ってしまった。
「あのね、あたしの教室では変に気を遣わなくていいから。スケートの先生だと厳しい人もいるかもだけど、心がかたいと動きにまで出ちゃうわよ?」
ほら、リラックスして、と肩を揺さぶられては苦笑いしか出ない。自分のことがなんと伝わっているか、これで大方察しがついてしまった。
◇
他のレッスン生たちが続々と到着し、スタジオはダンス着の生徒と、左右反対に映る鏡像の私たちで満たされた。
「それじゃ、まずはアイソレーションの練習から! ……っと、柚香ちゃんはじめてだったわね」
「はい」
「ダンスではね、体のパーツを別々に動かす練習も必要なの。できるとできないじゃ動きのキレも違うし、定番の基礎練みたいなもんなの」
なんとなく聞いた事はあるが、いざやってみると難しい。首、腰はなんとか動くが、胸を突き出す動きは思うようにいかず、背筋がいかに凝り固まっているかを思い知る。
ワン、ツーのリズムに沿って動くだけで、息が乱れて汗が噴きだす。運動にも慣れたと思っていたのに、体をコントロールすることがこんなにも難しい。
鏡に映る佳奈や他の生徒は笑顔ふりまく余裕すらあるのに、私だけが必死の形相のまま浮いている。
「ほら、もっと笑顔意識して! 頬の筋肉も緩めず!」
容赦なく速まるテンポに胸がちぎれそうだ。そこから先の時間感覚はない。目で追い、逆向きに跳ねてはあわてて戻り、動きをひたすらなぞるうちにいつの間にかレッスンは終わっていた。
◇
「はい、オッケー! 今日のレッスンは終わり、後片付けよろしくぅ!」
床に散った汗を拭く布を渡され、お疲れさまと労いあいながら慌ただしく掃除をする。
佳奈はというと、教室の隅の扇風機前に体よく陣どり、「あー」とビブラートのかかる声を発しながらシャツの汗を乾かしていた。
一度閉まった奥の扉が開き、クミ先生が苦笑いを浮かべながら戻ってくるのが見えた。
「ごめんごめん、柚香ちゃん体験だったわね! 今日参加してみて、どうだった?」
「うーんと……」
正直、どういえばいいのだろう。何か得られるものがあればと気まぐれで参加してみたが、必死のまま終わったレッスンはまだ胃の中で消化されずに蠢いている。
「ついてくの大変だなって。まわりは皆ちゃんとできてるのに、私、動き覚えるのに精一杯でした」
クミ先生がぷっと噴きだし、「やーね」と手をパタパタさせて答えた。
「いきなりついてけたんじゃ、あたし教えるところなくなっちゃうわよ」
それもそうか、と納得する部分もあった。けれど、仮にも運動部員であるからには息が上がるなんてもってのほかだ。
何より笑顔の余裕がないことは、普段溝渕先生から言われているだけに悔しく、つい意地を張るように言葉を重ねてしまった。
「でも、できなきゃ。魅せるのがフィギュアなのに、私、考えてもらった演技もまだモノにできてないんです」
言ってすぐに後悔がきた。先生にこんな態度をとるなんてリンクでは許されない。はじめて会うダンスの先生にはなおのこと失礼に映ったんじゃなかろうか。
けれどクミ先生は怒るそぶりもなく、かわりに「はーん」と何か腑に落ちた様子で私の目を覗きこんだ。
「佳奈ちゃんが連れてきたわけ、なんとなくわかったわ。あなた、自分軸がないタイプね?」
自分軸。言葉の意味するところも判然としないのに、ドキリと胸が脈打った。
「ダンスでも時々いるのよ、殻をやぶれない子。人と比べて自分はまだとか、こんなのじゃダメとか、延々と自分にダメ出ししちゃう子。ストイックだから技術はうまくなるけど、技術のガワだけじゃお客さんを惹きつけられないのよね」
先生の言葉は私の胸のやわいところに杭のように突き立った。一生懸命築いてきたものを「ガワ」とけなされた気がして、表情が歪むのを堪えきれない。
そんな私を見ていたたまれなくなったのか、クミ先生は「誤解しないでね」と言い添えた。
「悪い子じゃないのよ、皆。むしろいい子すぎ。厳しくしつけられたり、競争の中で育ってきたりすると、どうしても誰かと比べるのがベースになっちゃうのは無理もないわ……でもね」
鏡へ向きなおり、クミ先生はこれまでと違った所作を浮かべてみせる。
伸べた指先はバレエの手。嫋やかに、柳のように肩から指先までをしならせて描く、繊細で優雅な曲線の美。
「それじゃいつまでも、最後の殻が破れなくなっちゃう。比較も、ねばならないって考えもみんな、じぶんが出てくるのを邪魔しちゃう」
「努力は伝わっても、どんな人かが伝わらないの。あなただけの演技もきっと、できない。それが嫌なら……どこかで決別しないと、自分がかわいそうって思わない?」
静かに語るクミ先生は、先ほどまでと別人みたいだった。
朗らかにダンスを踊っていた体は自我の表出を抑えたように、均整のとれたアラベスクのまま止まっている。
「先生も……昔バレエを?」
振り返って笑うクミ先生は、どこか照れくさそうだった。今のイメージからは想像もつかない、先生には先生の過去があるのかもしれない。
「はい、湿っぽい話は終わり。レッスン、気に入ったなら来週もいらっしゃい。ダンスの技術は役に立たなくても、自分を好きになるコツなら教えられると思うわ」
肩を叩かれ、決意する。ここでの日々は、いまの私に必要だ。
先生が控室に戻っていくのを見て、荷物をまとめた佳奈が笑いかけてくる。
「話、終わった? ね、先生いい人でしょ?」
「うん、すっごく。ありがと、佳奈」
ここでなら、私も殻を破れるだろうか。卵から孵ろうとする雛鳥が、最初の覗き窓を開けるように。
ヒップホップの動きは、演技に直接活かせるとは限らない。それでも私の知らない私と出会えるなら、月謝は高い安いの問題じゃないと思った。