二.融けゆくかたち
他大学の選手や先生方に挨拶しながらリンクをまわると、見慣れた姿がすぐ目にとまる。厚手のダウンコートを着た後ろ姿。もう還暦は迎えたと聞くが、相変わらず貫禄がある。
「溝渕先生、こんにちは」
「おう、こんちは。相変わらず表情かったいなあ」
先生は私が師事するコーチで、選手時代は男子シングルからアイスダンスに転向とキャリアも長かったと聞く。スケート技術に関しては厳しいけれど、ちびっ子たちを相手する時は皺だらけの満面笑顔で表情の寒暖差が激しい。
丁重に挨拶したつもりがぎこちなかったろうか。返す言葉を決めあぐねていると、先生は「まず十周してコンパルから入れ」と言い残して他の練習生の方を向き直ってしまった。
◇
リンク外周の周回滑走を終え、小ぶりな円の描かれたエリアで氷を削らないよう静止する。
先生のいったコンパルは正しくはコンパルソリーといい、フィギュアの根幹をなす基礎練習だ。
内側と外側のエッジを丁寧に乗り分け、乱れなきトレースを氷上に描く。「強制させる」との原義を持つ基礎練を嫌がる選手も多いが、精神を研ぎ澄ませて自分と対話するこの時間を私はひそかに楽しんでいた。
息を整え、短く吐く。かかとから滑りだした靴は、私をのせて円軌道へと誘う。重心をぶらさぬよう、両の手のひらで目に見えないテーブルを押さえた。
そのままゆっくりと体の軸をひねり、上体と腰の切り返しでターンを決める。型を覚え、何百回と積み重ね、コントロール下におけば怖いものなどないと、そう信じていた。
『ほんならなんで、うちを受けたんですか』
しわがれた、語調の強い声が急にリンクに投げこまれた気がした。肩が竦み、軌道が歪む。はっと顔をあげて見渡したが、そんな声を発しそうなおじさんはここにはいない。
誰かが記憶の中にいる。唇を嚙み、どれだけ振りはらおうと努力しても、しみついた否定の声ばかりが大きくなっていく。
『わからんな……あなたの人柄がさっぱり見えへんのですよ』
やめて。そんな言い方しないで。邪魔立てする声の舞いこむたび、姿勢が乱れてサークルが歪む。どれだけ元に戻そうとしても、得意だったはずのコンパルはどんどん形を失っていった。
◇
――ただいまよりリンクの氷上整備を行います。ご滑走中の皆様はリンクサイドへお上がりください。
アナウンスが流れ、選手や子どもたちがリンクから上がってくるのを眺めていると「お疲れ」と聞きなれた声がして、ベンチが誰かの腰かける重みで軽く揺れた。
「コウジン」
「なんや珍しいな。柚香ちゃんが先に休憩してんのって」
コウジンこと、今村孝仁。彼とは大学一年の頃に知り合って、練習するリンクがかぶることもあり、他大学なのにチームメイトのような距離感だ。
ごつく不ぞろいな眉に濃い面立ち、福岡出身だという彼は見た目も声の太さも九州男児で、この人がフィギュアと思うと正直ユーモラスとさえ感じる。
「んー、まあね。ちょっと集中できなくって」
「わからんでもないかな。三年生までは気楽やったけどさ」
語尾のイントネーションはもう関西に馴染んだのに、コウジンはいまだに大学の年次のことを何回生でなく何年生とよぶ。そこが地方出身としてのささやかな抵抗っぽくて、面白いなと思う。
「ほんとさ、バイトに練習に卒論もあって忙しいのに、知らないおじさんたちと会って上から目線で品定めされんの、嫌になっちゃう」
コウジンが「ははは」と笑うから何かと思えば、「柚香ちゃんがそんなん言うとは思わんかった」なんて答えが返ってきた。
「まあな。嫌になるよな」
ザンボの愛称をもつ整氷車が音を立てながらリンクの氷を削っている。動く乗り物大好きな年頃のちびっ子たちが、手すりの向こうの景色を覗こうとぴょんぴょん飛びはねるのが見えた。
大学からスケートをはじめた私に、あんな風にリンクでたわむれた記憶はない。私もああして自由でいられたらと思うと、大人の器に閉じこめられた自分がひどく窮屈に感じた。
あの子たちはちゃんと、自信をもっているんだろうか。
「あのさ、コウジン」
「うん?」
「わかんなくなっちゃった。私に強みなんてあるのかな」
整氷車の駆動音が間近になり、子どもたちがきゃっきゃとはしゃぎ声をあげた。
声をかき消す音が過ぎ去り、氷の表面が滑らかに反射光を帯びるまで、コウジンは答えをよこしてはくれなかった。