葬式と笑い
葬式では笑ってしまうものです。
なぜならば、死という事件が古来より、日常から切り離されてきたからです。
着物を逆に着せるなど、人間は普段とは違う行為を行い、
死の存在を非日常として受け止めてきました。
笑いという行動は理解しかねるものや、非日常的な光景に感化されやすいのです。
その異常が厳粛な多人数によって行われていれば、より異常性が増し、一層に笑いを引き出しやすくなります。
ゆえに、葬式で笑ってしまうのです。
それがどのような教えの元に、どのような由来から行われているのか理解はしていても、
どれほど悲しみに包まれた人間に囲まれていても、
我々は笑いをかみ殺しながらでなければ死者を弔えないのです。
笑う本人ですらも勘違いすることが多いのですが、実際そこには悪意も嘲笑も、何も含まれていないのです。
あえて言えば畏怖の裏返しと言うべきか、正気を失うほど恐ろしい死に、向き合うほどの精神力がないゆえか。
自らを騙すことを廃した人間に、死を覚悟することは容易ではないのです。
こうした詭弁があれば、一つの折り合いが付けられるかも知れません。
「私は死を笑うのではありません。死を恐れて笑うのです。
知らず知らずのうちになった無宗教家、無信心者達は、それに気づかず
敬意を払うことを一瞬だけ忘れてしまうのです」
生物は死を恐れます。生を全うする前に半ばで絶たれる事を、避ける本能が根本にあります。
そして、人類はどうも「本能には逆らうもの」と捉えている節があるので、
死を恐れることすらも脱却しようと臨みました。
ですが見つめれば見つめるほど、死とは絶対的に否定しようがなく。
いつからか目を背け、茶化し笑い飛ばすという手段をとることで、
死を忘れてしまおうとしました。
葬式では笑ってしまうものです。
なぜなら、私たちは死から逃れられないからです。
いつでも変化しえない己を望む。
https://note.com/tsukiha/n/n9b9112933292




