第1話 失恋したら髪を切る?
学生生活最後の記念舞踏会が始まる。
見世物のように婚約破棄された時は、こんな風にドレスを着て舞踏会に参加することになるなんて夢にも思ってなかったのに、人生って本当に分からないものだ。
先月までは卒業生代表として挨拶だけしてこっそり帰るつもりだったのに、今はお母様が着せてくれた赤いドレスに身を包み、弟が施してくれたヘアメイクで別人のような姿になっているんだもの。
今の私を見て、これが人前で婚約破棄された地味な駄作令嬢ロクサーヌだなんて、誰が気づくかしら。
ああ。緊張で手が冷たい。
「大丈夫だよ、姉様。会場の中で一番綺麗だって保証する! ほんとだよ。わたしの腕を信じなさーい」
私と入れ替わりで学園に入学するから下見代わりだと、ここまで送ってくれた弟のセビーがニカッと笑う。そのお世辞半分、自画自賛半分の言葉に噴き出しそうになった私が小さく頷くと、彼はふと顔をあげて待ち人の到着を教えてくれた。
「それじゃ、楽しんできてね」
そう言って私のパートナーに「よろしく」と真面目な声で一礼すると、セビーは一般客用の入口の方へ振り向きもせずに行ってしまった。いそいそとして見えるのは、待たせている友達のところに早く行きたいからだろう。可愛いなぁ。
軽く深呼吸してパートナーに手を預けると、彼は気遣うように私の目を覗き込んだ。
「緊張してる、ロクサーヌ?」
「いいえ、大丈夫。楽しみだわ。みんなあなたを見て驚くでしょうね」
「君もね」
ええ、きっと。
うつむくことをやめて、本当によかった。
◆
事の起こりは二か月前。
社交場の一つである遊技場の一画で、私は唇をそっとかみしめた。
「というわけでロクサーヌ。この場を持って君との婚約を正式に破棄する!」
芝居がかった大声で意気揚々と婚約解消の書類をつきつけたギヨームの腕には、すでに彼の新たな婚約者予定だという少女、ピピ・グラック嬢がすっぽりと収まっていた。
少女と言うと語弊があるかもしれない。でもどう見ても彼女は、私よりも年下の少女にしか見えないのだ……。
パッと見ただけでも良家の子女に間違いないけれど、学園では見かけたことがない。
まさか十四歳以下とは考えにくいから、十六、七歳だろうか。自分と同い年――つまり十八歳以上には見えない、どこか既視感を感じる女の子。
服に何か詰めてるのかと思うような大きな丸い胸。それを彼に押し付け、折れそうなくらい細い腰にはギヨームの腕が回されている。長いまつ毛をゆっくりとしばたたかせた綺麗な少女は、目だけが成熟した女を感じさせた。
あからさまなほど親密な二人の前に佇むことしかできない私は、はたから見ればきっと、無関係な通りすがりに見えるだろう。
(こうなる予感はしてたのに、どうしてこんなに苦しいんだろう)
よそよそしくなった彼が、コソコソと何かしていることは分かっていたけど、こんな見世物みたいな婚約破棄をするなんて思ってもいなかった。
婚約は元々六年前、熱心なギヨームの申し出に折れた父が認めたものだったけど、私は私なりに彼を好きだったし尊敬もしていたんだもの。
彼が十歳も年上だったから、隣に立っても恥じないよう勤勉に頑張ってきた。それ以外の未来なんて考えたこともなかった。
だから、色々なことを見ないふりしてきたのに――。
(どうして?)
唇だけでそう呟く。でもギヨームはしっかり読み取ったらしく、ニヤリと笑った。
「君が私にふさわしくなくなった。それだけさ。分かってるんだろう? 現当主である君の兄君もすぐに納得したんだ」
「――っ」
わざわざ最後に会うだけ優しいだろうと言うような傲慢な声。
周囲にいた人が遠巻きに見ているのを感じ、私は反論もできずにみじめに俯いた。
(そうよ。本当は分かってた。認めたくなかっただけだわ)
三年前にお父様がなくなって我が家が破産寸前だと判明したとき、持参金なんて必要ないよと言ってくれたのに。
私は私のままでいてくれればいいんだって言ってくれたのに。
私の背が大きくなるにつれてあなたの視線が冷たくなっていたことに、気づいていなかったわけがないでしょう。
彼の隣に並んだらほぼ肩を並べてしまうことに気づいて、スカートの陰でひざを曲げて立ったり、こっそりと背を丸めるようになったのはいつからだった?
ひょろひょろとどこもかしこも平坦で美しくもない。父も、生みの母ももういない。強いて言えば家柄という名前にしか取り柄がない女なんて。
父がいない今、兄が正式に認めたものを、成人式を迎える前の私に覆せるはずもないのだ。
目の奥が熱いけど、涙をこぼさないようぐっと歯をかみしめる。
ピピ・グラック嬢と目が合うと、彼女は慈悲深いとさえいえるような優しい笑顔を私に向けた。その目は面立ちとは裏腹に大人の女を感じるせいか、私は自分が小さな子供に戻ってしまったかのような奇妙な気持ちになる。
怒りたいはずなのに怒りもわかない。責める言葉は唇にたどり着く前に雪のように消えてしまう。
苦しくて悲しかったけれど、間違いなく彼女は美しかった。
(最悪……。なんで既視感があったのか分かったわ)
目の前にいるのは私が毎晩空想し、なりたいと願ってもかなわなかった幻想。
波打つ金色の髪も陶器のように滑らかな白い肌も、花びらのような可憐な唇も小さな鼻も、華奢な手足も全部全部――。
ああ、そうだ。
彼女のすべてが私にはないもので、私がなりたかった、まさに理想そのものの姿をしている女の子なのだ。
少し前に兄嫁とギヨームが笑いながら冗談めかして言っていた。
『ロクサーヌは小柄で女らしい母の容姿と、美しい金髪に整った顔立ちの父の良いところをうまく受け継げなかった【駄作】』なのだと。
お父様はともかく、今のお母様は継母なんだから似るわけがないと笑った私を見て、彼の目に心底残念そうな色が一瞬浮かんだように見えたのは気のせいではなかったのだ。
だからなの?
あれは冗談なんかじゃない、まぎれもない事実なんだということを、はっきりと目に見える形で私に突き付けるなんて。
涙を抑え込んだせいで無表情になっていただろう私に満足そうな笑みを浮かべたギヨームは、ピピを抱きながらひらひらと手を振ると、勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
「君はその御大層な貞操を死ぬまで守ればいいさ」
「なっ!」
悠々と立ち去りながらの芝居がかった大きな声に、視線がさらに集まる。
私は羞恥で熱くなった頬を押さえながら、心の奥がスッと凍り付くのを他人事のように感じていた。
(ああ。そういうことなのね……)
◆
「それで、お姉様は納得しているの?」
女言葉だけど、声変わりが終わりかけの低めの声。
私の髪をくしけずりながら唸るように言ったのは、十五歳になったばかりの異母弟、セビーことセバスチャンだ。
普段家族の前では使わないけれど、今日は幼馴染の女の子が来ているからだろう。こんなふうに人前で女言葉を使うのには何か理由があるらしい。
もっとも、ドレスを着せたら間違いなく可憐な美少女にしか見えないセビーは、かすれ気味の声でもこんな話し方がよく似合う。
母親似の整った顔立ちでまつ毛も長いし、明るいサラサラの茶髪は思わず撫でたくなるし。
私がこんな姿だったら浮気なんてされなかったわよね? と確信できるくらい、この弟はとっても可愛いのだ。
(ま、本人に言ったら確実に顔をしかめるだろうけど)
昔から少し変わっている最愛の弟は、外では女言葉を使っているくせに、姉の私より背が低いのが嫌だとか、着やせするのが嫌だとか、うちではいつも文句を言っている。一見華奢なセビーだけど、幼馴染と一緒に体を鍛えているからか、意外と力も強いのだ。男らしい面と女っぽい面をどちらも磨いてるっぽいのは――
(良くも悪くもあの子の影響だろうな)
私はちらっと、継母と一緒に楽しそうにこちらを見学している本日のお客様ニーナを盗み見た。
以前は避暑地として使っていたこの町に住むニーナは、弟の幼馴染だ。
どこからどうみても正真正銘の美少女! なのに、お父様とお兄様が騎士だからなのか、体を鍛えることが趣味という女の子。そんなニーナが弟の想い人だと密かに思ってる私は、心がホコホコするるのを感じほっと息をついた。
(息が楽。やっぱりお母様の方に来て正解だったわ)
あの婚約破棄から一か月余りが経ち、学園の卒業舞踏会まであと三週間を切っていた。
本当だったらこの時期の卒業生、少なくとも上流階級の女子学生はみんな、その準備のために実家に戻る。それ以外の生徒や下級生は、その手伝いなどで小遣い稼ぎをしたりするらしい。
私は家柄だけはいいけれどそれだけで、経済面では庶民も同然。
決まってたはずの将来は閉ざされ、首席での卒業できるという誇らしさも今はほぼない。むしろそのせいで舞踏会を欠席するわけにはいかなくて、億劫だなぁなんて思っていた。
かといって、今は兄のものである実家に帰るのは気が進まなかった。
八歳年上の兄とは仲が悪いわけではなかったけれど、兄嫁のサロメは昔から私のことをとても嫌っているのだ。今帰っても何を言われるやら。
きっと、唯一の結婚の機会を逃した女として、下働きや掃除婦として扱われるわね。
私が自室の掃除を自分でするようになったのは、昔盗難事件があったことがきっかけなんだけど、サロメはことあるごとにそれを揶揄した。
『まあ、誰しも特技ってあるものなのね。勉強ばかりしてるより、よほど有意義ではなくて?』
ニヤニヤしながら小さくなった私のドレスを処分し、掃除婦のほうがお似合いだという、サロメの優し気な口調の皮肉を思い出す。
父が亡くなったのに学園に行くなんてと、一番反対したのも彼女だった。
首席を保っているおかげで学費がすべて免除なのも気に食わないらしく、長期休みに帰るとよくこき使われた。
使用人を最低限まで減らさなきゃいけなかったから、私もできることはなんでもしたけど、サロメのメイド(侍女ではない!)みたいにアゴで使われるのはつらい。掃除をしても繕い物をしても、すべて台無しにしたうえ理不尽なことばかり言うし、背が伸びないようにって食事をさせないよう画策するし。
使用人たちも見て見ぬふりをするけど、奥様であるサロメに逆らうと路頭に迷うのも理解してるから、いつもギリギリまで我慢した。食事を抜いても背は伸び続けたしね。
もっとも彼女が嫌いなのは私だけらしく、兄はもちろん、継母や弟の前では見事な淑女でいてくれるからまだましなんだけど……。
それでも心が弱っているときに実家へ向かうのはつらくて、結局継母タチアナのところに行くことにしたのだ。
(そう言えば、縁談が来てるって手紙も来てたし……)
他のみんなみたいに舞踏会の準備なんてする気にもなれないけれど、サロメが見つけてきたという四十も年上だというどこぞの男爵の後妻も遠慮したい。断ったことで兄嫁を怒らせたとは思うけど、今は考えない。
まだ道は見つからないけれど、継母の住んでるところはリゾート地だから何かと仕事があるし、せっかくなら人脈も作っておきたい。とりあえず短期の仕事をしようと決めた。
そんなふうに行動できたきっかけは、思えば隣のクラスのユーゴ・ヴァレルの一言だった。
学園で腫れ物のように扱われる中、あきらかに「くだらない」という態度を隠さなかったユーゴに、
『あるはずだった将来が閉ざされたなら、違う扉を開けて全力で取り組めばいい』
と、なんでもないことのように言われ、(それもそうね)と素直に思えたから。
普段なら彼は首位を脅かしてくる手ごわいライバルだった。見た目は浅黒い肌に何か頭に生き物でも乗せてるかのようにもっさりした髪の、なんとも不思議な存在という感じのユーゴだけど、この時ばかりは割といい人のように思えたの。
自分のすべてを否定されてる気持ちはまだ消えないけれど、明るい継母と可愛い弟のところなら、もっと前向きになれる。そんな気がしたのだ。
それに私にとって継母であるタチアナは、実の母も同然の存在なのよ。
実の母は私を生んで間もなく天に召されてしまい、まだ乳飲み子だった私の世話をするために父が再婚したのが彼女だと聞いている。
うちより家柄のいい娘であったにもかかわらず彼女が結婚に同意したのは、父に一目ぼれをしたからだそうだ。
二歳年下のセバスチャンが生まれた後も、彼女は三兄弟を平等に扱ってくれたし、愛情も注いでくれた。
でも一番愛していた父の死。
既婚者である兄が当主になれば、未亡人である母は当然出ていかなくてはいけない。
裕福な実家に戻ることもできただろうけど、タチアナは唯一譲り受けた父の遺産であるこの小さな邸宅に移り住んだのだ。
父が生きてた頃は毎年避暑に訪れていた街だからと、セバスチャンも一緒に。
学園のある王都から離れているのに、弟があの婚約破棄を詳しく知っていたのは驚いたけど、私と入れ替わるように入学することになっているから、友人の誰かに聞いたのだろう。賑やかなのが好きなタチアナに似たのか、弟の人脈は謎に広いのだ。
「納得も何も、お兄様が決定したことよ」
なんでもないことのように肩をすくめるけど、さすがにギヨームが最後に言ったことは聞いてないわよね? と、内心焦ってしまう。十五歳の子供に聞かせる話ではないもの。
私にとって、結婚するまで清くあるのは至極当然のことだったし、今もそう思ってる。
でもよくよく思い返してみれば、彼が冗談交じりに私をベッドに誘ってきたことが何度もあった。あくまでいつもの「大人の冗談」というやつだと思っていたけれど。笑顔でお断りをするまでが一連の流れで、自分が大人になったような錯覚をしてたわけね。
それも私の身長が一気に伸び始める前の話。
とはいえセビーがこっそり舌打ちをして、「あのロリコン親父!」と不思議な悪態をついてるのが聞こえてしまったから、多分知ってるんだろうなとは思う。ロリコンが何なのかはさっぱり分からないけど、いつものセビー語――彼が小さなころから自作している不思議な言葉――の一つなのだろう。
普段から、
「セバスチャンと呼ばないでくれと、いつも言ってるでしょう。執事にならなきゃいけない気分になる」
(おじいさまが付けてくれた名前のどこに執事要素が?)
とか、
「女の魅力ってのはアラサーからなんだよなぁ」
(アラサーってなに?)
なんて不思議なことを言ってるし。
セビーがニーナに恋してるって気づいてなかったら、姉様、あなたの恋愛面や婚期が心配になるところだったわよ。
家族にしか言わないらしいから気にしてないけれど、よくあれこれ思いつくものだわ。
そんなセビーが今、なぜ私の髪をいじっているかというと。昨日私がこの家についてすぐ、
『女の人って、失恋したなら髪を切るものなのでしょう? なら、わたしが切ってあげます』
なんて、不思議なことを言い始めたからだ。
失恋という言葉にちょっとカチンときたけれど、だからって髪を切るなんて話聞いたこともない。
そもそも普通髪を切るときは理髪師を、パーティー用に複雑に髪を結い上げる時は髪結い師を呼ぶ。
髪結い師は女性ばかりだし、メイド上がりの女性なんかが自立できる職業のひとつだけど、理髪師は刃物を使うため、国と神殿に認められたという資格が必要な職業だ。命を預けられるくらいの信用が必要だから。
とはいえ、理髪師のほとんどが男性ばかりだし、お値段もそこそこ高いので独身の女性はめったに呼ばない。
でも家族間で散髪するなら、資格がなくても特に問題はない。前髪なんかは姉妹で切り合うなんて話も普通だしね。
セビーがこういうことに興味を持ってたということが、少しだけ意外だったけど。
(でもいいわ。どうせ私なんて名ばかりの駄作令嬢だもの。いっそグチャグチャにしてれたら、舞踏会を休むいい口実になるわね)
そう思って快諾してしまった。
お母様とニーナが見物するとは思わなかったけど、キラキラした二人の目が可愛くて気がまぎれるから、これでよかったと思う。
「さあお姉様、バッサリいくわよ。絶対可愛くするから信じてね」
おちゃらけた口調。そのくせ真剣な目で言うセビーに、私は投げやりに手を振った。
「はいはい。任せるから好きにして」
確かにそう言ったし、後悔もしていないけど。
(まさか、腰まであった髪を肩までバッサリとは思わなかったわぁ。頭が軽い!)