9 この国を離れようと思います
『ねえ、リアム君、なんで東国語なの?』
『東は大陸で一番大きな国だし、移民が多いんだヨ』
『つまり、リアム君は国を出るとしたら東国がおススメなワケナノダ……えっと……なのね?』
『この国からも頻繁に人の行き来があるから、紛れ込みやすいケド』
『ケド?』
『キミが面倒くさいと言うなら、瞬間移動でパッとドコへでも飛んでいくヨ』
「それはズルというやつでは?!」
エリアナはハッとして自分の口を覆った。
このところリアム君との会話は東国語が強制されているのだ。本で覚えるより、実際に話したほうが早いというスパルタ教育の一環である。
うっかり自国の言葉を発してしまったエリアナに、リアム君は黙って掌を差し出す。
「ううっ……」
エリアナは無念さをにじませながら罰金を支払った。
ザガリーの家で世話になりながら、ずっと真面目に働いてきた。無駄遣いはしていないので、それなりの額のお金が貯まっている。
「まあまあ、道中のお菓子代だと思えばいいじゃないか」
「そうね……」
エリアナは気を取り直し、東国語のレッスンに励むのだった。
商会長のザガリーは忙しい男だった。商談や仕入れのため王都を留守にすることも多い。
孤児院での出来事があった日、エリアナがザガリー邸に戻った時には、既に隣の領へ出発してしまっていた。以来、彼には会っていない。
(やっぱりザガリーさんには言うべきよね)
仕事を辞めなければならないし、今まで世話になったのだから行き先くらいは一言告げるべきだとエリアナは考えていた。
それから数日してザガリーが屋敷に帰って来ると、エリアナは久ぶりに夕食を共にする機会を得た。
住み込みの使用人がエバおばさんとベティだけなので、この方が効率的だからとザガリーはいつも皆と一緒に食卓を囲む。
エバおばさん渾身のビーフシチューに舌鼓を打ちながら、ザガリーはエリアナの話に耳を傾けていた。
「あの日のエリーったら、目が腫れるほど泣いて見ていられなかったんですよ」
時折、ベティがエリアナを庇う。だが、エリアナが「東国へいくつもりです」と告げると目を丸くした。
「ええっ! いなくなっちゃうのぉ?」
「はい。ベティさんの身軽さを見習おうと思いまして」
「そう言われると反対できないじゃないの」
ベティががっくりと肩を落とす。しかしエリアナが去っても、またいつもの調子で元気に過ごすに違いない。彼女には、最近、新たな恋人ができたのだ。
「そういうことなら、東国まで一緒に行くかい?」
黙って話を聞いていたザガリーが、ようやく口を開いた。
「終戦したし、暫く東国へ商売の軸足を移すつもりなんだ。というか、元々イーストン商会の本店は東国の首都だからね。エリーにはこのまま王都の支店で勤務してもらうつもりだったけど、本店に移ってもいいし、どちらにせよ我々と一緒の方が入国しやすいだろう」
「いいんですかっ?」
彼の提案はエリアナにとって願ってもないものだった。世間に忘れられてはいてもエリアナは貴族だ。女王の承認なしにリアム君と二人で国境を超えるより、平民エリーとして商会の一団の中に紛れるほうが怪しまれないし、ずっと安全だ。
「もちろんだとも。その代わり東国の地方の支店をいくつか回ってから本店に行くから、首都に着くまでに時間はかかるだろうけど」
「私、いろいろな場所に行ってみたいんです」
「なら決まりだ。随行メンバーにエリーも加えよう。旅券の手配もこちらでしておくから、荷物だけまとめておきなさい」
ザガリーが東国に行くことは前々から決まっていたらしく、出発は二週間後だと言われて慌てたが、エリアナは外国に行けるという期待の方が大きかった。
「はぁ、こんなに急にいなくなっちまうなんて寂しいね」
事の成り行きを黙って見守っていたエバおばさんはしんみりと呟いた。息子しかいないという彼女は、エリアナを実の娘のように思っていたのだ。
エバおばさんはキッチンの戸棚から一冊のノートを持ってくると、エリアナに差し出した。
「いつか息子の嫁さんになる人に渡すつもりだったけど、どうせ暫く見つかりそうにないからね。よかったら貰っておくれ」
エバおばさんのレシピノートだった。今日食べた特製のビーフシチューの作り方もちゃんと載っている。ベリーをたくさん敷き詰めたタルトやシナモンのきいたアップルパイのレシピも。
エバおばさんの料理には、いつもたっぷりの愛情が込められていた。それはお腹と同時に心も満たし、その場の雰囲気を明るくする。
「ありがとうございます」
エリアナは素直にノートを受け取った。そしてこれからは、自分が皆のために愛情を込めた美味しい料理を作ろうと思うのだった。
バーレイ家を出てきたときの古びたトランクに身の回りの物を詰め込むと、ずっしりとした重さになった。
やって来た時は二着だけだった着替えも新しいものに買い替えたし、日記帳は二冊目に突入した。エバおばさんに貰ったレシピノートもある。一つも持っていなかった髪飾りも幾つか揃えた。
ポシェットの中身は変わらないが、今度は財布の中にちゃんと金貨と銀貨が入っている。
「いつの間にか物が増えていたのね」
「今までが少なすぎたのサ。前はスカスカだったもの。忘れ物はないかい?」
「ないわ」
エリアナは二年間寝起きした、ザガリー邸の自分の部屋を見渡した。感慨深いものが押し寄せ、黙って頭を下げると踵を返した。
今日、ここを出てゆくのだ。
パチンと日傘を差すと、エリアナはザガリー商会の一行が待つ馬車に向かって歩き出した。
「この国を出て、本当にいいんだな?」
出発間際にザガリーから最終確認が入る。エリアナは力強く頷いた。
するとザガリーは少し迷ってから切り出した。
「すまなかったな。俺があの日、君を孤児院まで使いにやったばかりに」
「いいえ、ザガリーさんのせいではありません。頭を上げてください」
「いいや、俺はあの日、エリーの父親があの孤児院へ立ち寄ることを事前に知っていた。運が良ければ会えるだろうとサプライズのつもりだったんだ。最初からきちんと手順を踏んでいれば、こんなことにならなかったのかもしれない」
ザガリーのような豪商といえども、親交のない伯爵家の当主に会うにはそれなりの段取りが必要だ。
きっと彼は平民のエリーと手っ取り早く再会させるには、偶然同じ場所に居合わせるのが最善だと考えたのだ。父親は王都に帰還して間もないうえ、ザガリーはこの地を離れることになっていて時間が足りなかった。
エリアナは、そこまで甘えるつもりは最初からなかった。
「私、どうやって再会するかまでは考えてなかったんです。むしろ気を遣っていただいて感謝しています」
エリアナの顔は晴れやかだった。
「さあ、ヤツらに後悔させてやろうゼ」
馬車に乗り込むと、肩の上で寝そべるリアム君は耳元で物騒な言葉を囁いていた。