7 戦争が終わりました
エリアナがオーブンから焼き立てのクッキーを取り出すと、キッチンに甘いバニラの香りが広がった。
エバおばさんが一つ口に入れると、うんうんと満足げに頷く。
「美味しくできたじゃないか」
「ホントですか!?」
「焦がすこともなくなったし、教えることはもうないね」
褒められたエリアナは、頬を上気させた。クッキーをポリっと齧ると今までで一番の出来栄えだった。
他にもケーキ、タルト、アップルパイなど、いろいろなお菓子を作れるようになった。パンも焼けるし、シチューの作り方も教わった。
最初は野菜を切るのも覚束なかったが、エバおばさんが辛抱強く指導してくれたのだ。
「これでもう、いつお嫁に行っても安心だね」
「エバおばさん、エリーはまだ十五歳だよ? 気が早いってば」
エバおばさんが太鼓判を押すと、メイドのベティから指摘が入る。
クッキーを食べたベティは「うん、美味しい!」と頬を緩ませ、もう二つ摘まんでから掃除の続きをしにバタバタと駆けて行った。
エリアナが王都に来て一年半が経っていた。
「西の砦から国軍が帰還するそうだ」
ある日、ザガリーの口から待ちに待った言葉が飛び出した。
国軍の帰還、つまり戦争が終わったのだ。
(お父様が帰って来る!)
エリアナは嬉しさで胸がいっぱいになった。
五年に渡る戦争だったが、幸い爵位持ちの戦死者は出ていない。怪我をしているかどうかまでは分からないが、とにかく無事でいることに安堵した。
「よかったな。父親に会いに来たんだろう?」
ザガリーは出会った時と同じようにエリアナの頭をポンポンと撫でた。
エリアナは、やはりこの人はすべて承知の上で自分を雇ってくれたのだと有難く感じた。
「はい、ありがとうございます」
エリアナはこれからも真面目に仕事をしようと心に決めた。
「リアム君、戦争が終わったんですって!」
早速、リアム君に告げると「そうみたいだネ」と冷静に返される。
「知ってたの?」
「ボクは優秀だからネ。だけど実際に帰って来るのは数か月先になるヨ」
「それでも、帰って来るのよね」
エリアナはニヤニヤと口元が緩むのを止められなかった。
以来、エリアナの心は軽かった。
調子に乗ってクッキーや焼き菓子を食べ切れないほど大量に作っては、近くの孤児院へ差し入れにいくこともある。
エバおばさんに褒められたとはいえ、素人の作ったお菓子を子どもたちはとても喜んでくれた。
「うわ~、すごく美味しい!」
「お姉ちゃん、ありがとう」
「モグ、モグ……ンぐっ……」
エリアナは裏心のない子どもたちの反応が嬉しかった。
イーストン商会は定期的に、孤児院へ食料や衣服などの寄付もしている。
ザガリーはエリアナがお菓子の差し入れをしていると知ると、商会の物資を持たせるようになった。
「じゃあ、エリー、今回も頼んだよ」
「はい!」
エリアナはザガリーに元気よく返事をすると、小さな荷馬車の御者台に座り日傘を差した。膝の上には焼き立てのクッキーを入れたバスケットをのせている。
ザガリーの使いで今日も孤児院に食料品を届けに行くのだ。御者が馬車を出発させると慣れた道をゆるゆると走った。
戦争が終わり、心なしか行き交う人々の表情が明るい。足や腕に包帯を巻いた男たちの姿もチラホラ見かけるようになった。兵士たちが戻って来たのだ。
さらには社交シーズンも始まり、領地にいた貴族たちが王都に集って賑わいが増している。
「こんにちは」
エリアナがクッキーを持って孤児院に入ると、既に先客がいたらしく辺りはケーキの甘い匂に包まれていた。
王都にやって来た貴族令嬢と差し入れが重なってしまうのは、ままあることだ。
(まあ、いいわ。明日食べて貰えばいいのだもの)
エリアナはクッキーをバスケットごとシスターに手渡すと、荷馬車に戻り搬入の手伝いをする。小麦粉の重たい袋は持てないが、リンゴの入った小さな木箱の一つくらい女の子だって頑張れば運べるのだ。
「エリーさん、無理しないでください」
「大丈夫ですよ、これくらい」
御者は気遣ってくれるけれど、エリアナは何かせずにはいられなかった。
何度か往復して運べるものがなくなると、シスターから声が掛かった。
「いつもありがとうございます。ザガリー会長にもよろしくお伝えください」
裏庭の方から子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてくる。自然と視線がそちらに向くと「先ほどから公女様がお見えになっているのです」と言う。
「凱旋の祝いを兼ねた舞踏会が王宮で催されるのに合わせて、孤児たちに陛下からお菓子が配られているのです」
公女様は女王の使いということらしい。平民暮らしをしているエリアナにとっては雲の上の人である。
「では、今日はこれで失礼しますね」
エリアナは自分の出る幕はないと感じて、早々に帰ることにする。
見送りに来たシスターと他愛ない会話を交わしながら荷馬車の準備が整うのを待っていると、豪奢な馬車が一台滑り込んできた。
中は見えないが高貴な人が乗っているのだろうと、エリアナは頭を垂れた。
ガシャンと人が下りてくる音がして、シスターの前に立つ気配がする。
「失礼。こちらにホフマン公爵令嬢がいらっしゃると伺い、お迎えに上がったのですが」
「はい、お呼びしてまいります」
シスターの去っていく足音と共に、エリアナの心臓がドクドクと波打っている。
この声は――――。
(お父様!?)
不躾ではあるが、そっと顔を上げると目が合った。
(やっぱり、お父様だわ! 無事にお戻りになったのだわ)
少し年を取って痩せた感じがするが、記憶に残る父親の顔を目の前にして、万感の思いが込み上げてきた。
エリアナが「お父様」と呼びかけようと口を開きかけたその時だった。
「君も孤児院に寄付しに来たのかい? 偉いね」
平民で裕福ではないだろうに――そんな含みを持たせた口調で話しかけられた。
エリアナはすぐには声が出てこなかった。まさか娘の顔がわからないとは想像していなかったのだ。
「えっ? あ、あの……私…………」
「私はあなたの娘です」と伝えようとするが、上手く口が動かない。
次の瞬間、スッーと父親の視線が外された。奥からホフマン公爵令嬢がやって来たのだ。
「まあ、わざわざバーレイ卿がいらしてくださったのですか。ありがとうございます」
「いえ、近くに所用があったものですから。帰りに寄るようお父上に頼まれたのです」
「今日は祝賀会で馬車が足りませんものね」
コロコロとよく通る声を響かせた令嬢は、父親の手を取るとエリアナを横切り馬車に乗り込んだ。扉が閉まり、ゆっくりと走り去っていく。
エリアナは、ただ呆然と見送るしかなかった。
日傘を差すのを忘れ、ポツリポツリと雨が降り始めていた。