【番外編】ジャック・シモンズ伯爵のその後 後
「はあ? 婚約破棄なんて聞いてないわよ。シモンズ家からもウチからもそんな申し入れはしてないでしょ」
アリシアに言われて、ジャックは自分がなんの通達もしていなかったことに思い至った。王命もそのままだ。あれだけ社交界を騒がせたのだから、てっきり破棄されているものだと信じ込んでいたのだ。
「だが俺は君を裏切って、他の女性と結婚しようとした」
「そのご令嬢はあなたがプロポーズするまでもなく、他の男と一緒になるからって出て行ったんでしょ? 交際にも至らなかったって執事のダレンに聞いたけど」
「そ、それはそうだけど…………」
エリー嬢とはエスコートして領内を案内しただけで特別な関係ではなかった。手の甲のキスも客人へのもてなしの範疇と言えなくもない。
「それに俺は隣国の侵略に失敗した。いずれ次期当主から外されるだろう」
跡を継げないのであれば、アリシアだって婚約を継続する意味はないだろうとジャックは思う。
するとアリシアは大きくため息を吐いた。
「はあ~。で、その侵略って具体的に何をしたのよ。挙兵でもしたの?」
「いや、反乱を煽るために王家の噂を広めている途中だった」
「あのねー、王家のよからぬ噂なんてめずらしくもなんともないでしょ。それをちょっと煽ったくらいで廃嫡になる? おじ様がその気なら、もうとっくにここへお戻りのはず。だけど雪祭りまでは北国に滞在するって、今日、便りが届いたわよ」
「は…………?」
ではあの「シモンズ伯爵が婚約者マーシャル侯爵令嬢を裏切った」だの「シモンズ伯爵は血も涙もない冷酷な男だ」などという社交界の噂は? 隣国に手を出すなという陛下の叱責はなんだったのか。
ジャックがポカンとしているとアリシアにバシッと背中を叩かれる。
「もう、しっかりしてよ。相変わらず思い込みが激しいんだから! そんなんだからザガリー・イーストン男爵にお仕置きされちゃうのよ」
「お、お仕置き!?」
「考えてもごらんなさいよ。ほとんど実行してもいないあなたの妄想なんて、誰も知るわけないじゃない。ダレンの他は、ご令嬢の行方を問い合わせたイーストン男爵だけ。誰が陛下にチクって、社交界にあなたの悪口を広めたかなんて単純明快でしょ。しかも私が同情されるように、あなただけを悪者にするなんて器用な真似までして」
ジャックは脱力した。イーストン男爵の仕業だったのか。彼はエリー嬢の件で立腹していた。
「元気出してよ。ちょっと陛下に叱られたくらい、どうってことないじゃない。噂はいい気味ね。これであなたに嫁ぐ物好きはいなくなったわ。ご愁傷様」
つまりジャックの相手はアリシアしかいないという訳だ。
なぜだか陛下とイーストン男爵の術中にはまった気分になるのは考えすぎか。
しかし当の彼女はそれでいいのだろうか。
「もー、お腹空いちゃった! その前にひと風呂浴びて着替えてこなくちゃ」
ジャックの疑問をよそに、アリシアは鼻歌を歌いながら滞在中の屋敷へ戻っていった。
ジャックが乗っていた馬を預けに厩へ寄ると、愛馬アスランがいた場所がぽっかりと空いているのが目に入った。毎朝アスランに会うのが日課だったが、いなくなってからはいつ戻ってきてもいいように自ら清掃している。
「もう帰って来ないのかもしれないな」
弱気な一言が口を衝いて出る。
ジャックにとってアスランは相棒だ。特に当主代理を命じられてからは、肩にかかる重荷を振り切るように快走する愛馬の存在は心を軽くしてくれた。
つい湿っぽくなってしまったのを切り替えようとグズっと鼻をすすった。踵を返して顔を上げる。
「わっ!」
ジャックはびっくりして尻もちをついた。目の前にブルッと鼻を鳴らすアスランがいたのだ。
「やあ。借りていた馬を返しにきたよ」
愛馬の隣にはプラチナブロンドの髪と藍色の瞳の美青年が立っており、優雅な手つきで背中を撫でていた。
気持ち良さそうに目を細める黒毛の軍馬は、色艶が良く今まで大切に世話をされていたのが一目でわかる。
「君の所に帰りたいって言うものだからね。毎朝、君から貰うニンジンが格別なんだってさ。やっぱり絆は日々の積み重ねが大事だよね」
自分とアスランしか知らない習慣をなぜこの人は知っているのかと不思議に思いながら、ジャックは立ち上がった。
「あ、あなたは……?」
「もう会わないけど、ま、いいか。僕はエリアナの守護霊獣で婚約者のリアム君です」
(守護霊獣!?)
ジャックが言葉に詰まっている間に、リアム君はニッと笑うと「じゃ、確かに届けたよ」と言って次の瞬間、パッと消えてしまった。まるで魔法のように。
「消えた…………」
あの日エリー嬢がどうやって姿を消したのかを実際に目の当たりにして、ジャックはなぜ陛下がわざわざ自分に釘を刺したのか納得がいった。
未知なる者の登場に、神の加護を持つと言われる隣国の底知れなさを感じる。
未遂でこれだけの天罰が下ったのだ。もし彼女を無理矢理ここに留め置いていたら――と想像するとゾッとなった。手を出してはならぬのだ。
「それにしてもリアム君、か……」
彼がエリー嬢の愛する人なのだ。圧倒的な美しさと謎の力を持った彼女だけの守護霊獣。敵うわけがない。
ジャックは憑き物が落ちたようなサッパリとした気持ちになっていた。
それから毎日、ジャックは領民たちと一緒になって復興作業に汗水を垂らした。
ショッキングピンクの頬被りとモンペ姿のアリシアも参加している。快活な彼女は次期当主の奥方として認知され、現場のムードメーカーだ。最初は沈みがちだった人々も徐々に笑顔が多くなっていった。
それはジャックも同様で、アリシアの明るさに救われていた。
なにより領民たちと苦境を乗り越えることで絆が深まり一体感が生まれた。それは今までジャックが経験したことがないものだった。
「なあ、アリィ。さすがにそのド派手なショッキングピンクはどうかと思うぞ? 俺、ピンクのモンペなんて初めて見たよ」
ジャックの憎まれ口に、アリシアはカーッと顔を赤らめる。
「わ、私だってそう思ったわよっ。だけど侍女のマリンが『こんな時だからこそせめて服装くらいは明るいほうがよろしいのでは』って言うんだもの。いいじゃない、これで笑いが取れるなら安いもんよ。そ、それにこの格好なら、私の顔を知らない人でもすぐに見つけられるもの」
彼女は彼女なりに領民のことを考えてくれていた。社交場で見せる優美な微笑みや貴族令嬢らしい上品な言葉遣いを封印して、以前のようなお転婆な調子に戻っているのも、彼女なりに皆を元気づけようと努めた結果なのだ。
「アハハ、ありがとうな。俺、アリィが婚約者でよかったと思ってる」
「フン、何よ、他の女と結婚しようとしたくせに」
アリシアがくしゃりと顔を歪めてそっぽを向く。目の端には薄っすらと涙が溜まっていて、ずっと彼女を傷つけていたことに気づく。
(馬鹿だな、俺は)
だが、失う前でよかった。
「ごめん! 俺が悪かった。これからはよそ見なんてしない。生涯アリィ一筋だって誓うよ」
ジャックが畑の真ん中で土下座をすると、何事かと人々が遠巻きに注目している。
アリシアはグイッと袖口で涙を拭うと、頬に泥のついた顔で笑った。
「あったり前よ! 一生尻に敷いてやるんだから、覚悟してよね!」
それを見ていた執事ダレンが安堵した様子で「雨降って地固まる……ですかな」と呟いていたのを、この二人が知ることはなかった。
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