16 騎士と王子様
伯爵領にやって来てからというもの、エリアナはずっとシモンズ伯爵にエスコートされている。
何日も降り続いた雨が落ち着いて晴れ間が見えるようになると、近くの丘に連れ出してくれるようになった。心地良い風がそよぐ丘から見渡す可愛らしいポピーの花にエリアナの心は安らいだ。
「あなたには、ずっとここにいていただきたいのです」
「シモンズ伯爵様…………」
「どうかジャックと呼んでください」
青い瞳にじっと見つめられると、エリアナは胸がドキドキして俯いてしまった。
(本当に王子様みたいだわ)
生まれてから家族以外でまともに接した男性は、ザガリーとイーストン商会で仕事を教えてくれたビリーくらいだ。伯爵家の次期当主でありながら貴公子は一人もいない。エリアナは令嬢として扱われたことがなく、紳士的な振舞いに慣れていなかった。
「ジャ、ジャック様」
なんとか名前を発するが、どうにも照れ臭くて赤面してしまう。
シモンズ伯爵はエリアナの初々しい様子に顔を綻ばせ、そっと腕を差し出す。その腕におずおずと手を絡ませる白い日傘の令嬢を領民たちは静かに見守っていた。
数日してザガリーはエリアナを残して帰っていった。
「我々はあと一か月ほどしたら首都の本店に向かう。エリーもそれまでに戻って来れればよいが、無理かもしれないな。伯爵の頼みでは私も断りづらい」
バーレイ家を出てからずっとザガリーに世話になってきた身としては、いざ彼から離れてみると急に心許なくなった。いつの間にか彼のことを父親のように頼りにしていたようだ。
エリアナの不安を思い遣るように、シモンズ伯爵は優しく声を掛ける。
「大丈夫です。ここにはエリー嬢を傷つけるものは何もありません。私がお守りしますから」
「ありがとうございます、ジャック様」
歯の浮くセリフに、やっぱりエリアナは照れて下を向くしかないのであった。
対してご機嫌斜めなのはリアム君である。
「なんだアイツは! キミを守るのはボクの役目だヨ? キミもデレデレしちゃってサ」
夕食後、伯爵にエスコートされて部屋に戻ると、リアム君はプリプリと怒りだした。
「お、落ち着いてよ、リアム君。外に聞こえちゃうわ」
「防音魔法をかけたから大丈夫サ」
興奮しているわりには、抜け目のないリアム君である。
エリアナは自分の手の甲をまじまじと見つめた。
「別にデレデレなんてしてないわ。ドキドキするというかバクバクするというか、なんとなく落ち着かないのよ。手にキスなんて初めてなんだもの」
「キミは、そういうのが好きなの?」
「そりゃ、私だって女の子ですもの。王子様に憧れるのよ」
「それくらい、ボクだって出来るヨ」
リアム君は青年の姿に変身すると、エリアナの右手を両手で優しく包み込んで掌にキスを落とした。
「り、リアム君ッ……!」
エリアナは真っ赤になって口をパクパクさせている。
それもそのはずで、目の前にいるのはエリアナが知る茶目茶髪のいつものリアム君ではなく、プラチナブロンドに藍色の瞳の美男だったのだ。
龍神の加護に連なる独特の藍色だ。月夜に煌めく銀の水面のような静清とした瞳に、エリアナは思わず息を呑んだ。聞かずともこれがリアム君の本来の姿なのだと直感する。
「リアム君て……優秀なだけじゃなくて、実は眉目秀麗だったのね」
「そうだよ。だけどこの格好だと目立っちゃうだろう? だから普段は平凡なほうが都合がいいのさ。ちょっとは見直した?」
「うん……すごくカッコイイわ。物語の主人公みたい」
エリアナはコクコクと頷き、見惚れている。
リアム君が恥ずかしそうに耳を赤くした。
伯爵領で過ごすようになって暫くたつと作物の発育が正常に戻った。しかし母国の様子は芳しくないらしい。
「女王が神殿で祈るようになって少しはマシになったが、纏まった雨が降るまでには至っていないようだ」
そう教えられ、エリアナはガックリと肩を落とす。やはり国に帰ろうか。そんな考えが頭をよぎる。
伯爵領の収穫に懸念がなくなった今、エリアナが滞在する理由は無い。ならば雨の降らない場所へ赴く方が合理的だろう。
シモンズ伯爵は見透かしたように、ついとエリアナの手を取る。
「まさか、ここからいなくなったりしませんよね?」
熱のこもった視線で訴えかけられるとドギマギしてしまう。悪いことをしているわけでもないのに罪悪感に駆られ明言を避ける。
エリアナは動揺を気取られぬように顔を伏せた。
美青年のリアム君にもようやく慣れてきた。この頃のリアム君は、夜になるとヤモリ姿から本来の姿に戻るのだ。
エリアナが母国を憂いていると「ま、節度のない行いを何代も続けた結果さ」と平然とソファに腰かけている。
その声は張りのあるバリトンボイスで、普段の子どもっぽいしゃべり方も美青年の時だけは落ち着いた口調に変わる。おそらくこちらが素なのだろう。
「そんなことより――」と、リアム君はずいっとエリアナに顔を近づける。
「キミは、シモンズ伯爵に惚れているの?」
エリアナの顔がかぁーっと赤くなる。
「真っ赤になっちゃって!」
「ち、違うわよっ! これは――――」
リアム君の顔が近いから…………などとは言えず、エリアナは口ごもる。しかしリアム君は許してはくれない。
「これは?」
「な、なんでもないわ。なんだか喉が渇いちゃった。ちょっとキッチンでお水を貰ってくるわね」
リアム君の追及を逃れるように、エリアナはあたふたと部屋を出た。
礼儀正しい紳士の気遣いを見せるシモンズ伯爵が麗しの王子なら、リアム君は姫を守る騎士である。ずっと傍にいて、敵から守ってくれて、誰よりも頼りになって、いつも味方でいてくれるような…………。
騎士は王子と並ぶ女性の憧れの主人公である。
エリアナが家出するときに持ってきたお気に入りの一冊も、騎士が悪から姫を守り抜く恋愛物語だ。
(リアム君が人間だったらいいのになぁ)
理想と現実は違うのだとため息を吐き、エリアナは夜半の暗い廊下をトボトボと歩いた。
階段を下っていくと、すぐ近くの灯りの漏れた部屋からボソボソと話し声が聞こえてきた。
「…………は、エリー嬢と結婚するおつもりですか」
はっきりと自分の名前を認めるとエリアナの足が止まった。そっと扉の近くに身を潜め、耳をそばだてる。
「ああ。そろそろこの領を出て行くと言い出しかねない。彼女をここに留め置くには結婚するのが一番だ」
「しかしジャック様、ご婚約者のマーシャル侯爵令嬢はどうするのです? この婚姻は王命ですぞ」
婚約者がいると知り、侯爵に匹敵する辺境伯の地位であればさもありなんと思う。が、王命に背いて自分と結婚しても利などないだろうと首を傾げる。
「いいか、これは千載一遇のチャンスなんだ」
「とおっしゃいますと?」
執事らしき男に話の続きを促されると、シモンズ伯爵は警戒するように声を落とした。