つきつけられる別れ
目の前が霞む。眼球にぼんやりと膜が張ったようだ。
体調が悪い。正直になれば私の今の状態はそれに尽きる。
昨日旦那様が二ヶ月ぶりに部屋を訪ねてくださった。久しぶりということもあって力を抜けなくて、体に負担がかかってしまったのだ。目の調子も悪く、腰も痛む。頭も痛むので、今日は朝からベッドの中だった。
旦那様が朝までこの部屋にいて下さることはない。夜、私が眠ってしまったらそこで帰ってしまわれるし、眠らずとも後始末を終えたら部屋を出ていかれる。
朝起きたら目の前に旦那様のお顔がある。もちろんこんなに状況に憧れないわけはないけれど、それは夢のまた夢だった。
「奥様、昼食はどうなさいますか」
そばのソファに腰掛けてリリと共に編み物をしていたロロが声をかけてきた。
はっきり言ってロロは過保護だ。今日だってベッドの脇にたって動こうとしないから、他の仕事をしてきて、と言うと奥様のことが気になりすぎて花瓶を五つは割る自信がございます。と言われるし、せめて座っててというと、奥様が苦しんでおられるのにだらけてはいられません。と言うし。
ロロを立たせ続ける訳にも行かず、仕方ないので私の編み途中だった物を仕上げてもらっている。仕事の一環だ、と言って。
「昼食……特にお腹も減っていないし、何も」
「いけません。何かしらお食べになってください」
そーですよーと、ロロよりも編み物が得意なリリは黙々と手を動かし、顔だけこちらに向けてそう言った。
朝食を既に抜いているから、昼食から逃れることは出来ないだろう。
お腹の辺りが重くて食欲はまったくないけれど二人に心配をかける訳にも行かないので、果物を頼む。
ロロが持ってきた果物を、シーツにこぼしてしまわないように気をつけながら食べていると、リリが唐突にぱっと笑顔になった。
「そうですわ奥様!今度、街の方で女神デメテルの信仰祭があるらしいのです」
「まぁ。今年もそんな時期なのね」
ランドルアディス帝国では毎年女神の信仰祭が開催される。
水の女神や太陽の女神、勝利の女神だとか、その年に最も恩恵を下さった女神様のためのお祭りだ。今年は農村の方で豊作が続いたから、デメテルの信仰祭が行われるのだ。
街には飾り付けが施され、皇宮ではパーティーが開かれる。それが一週間と三日続く。
「今年こそは一緒に行きましょうね」
「……」
返答を返せず笑顔で濁す。
この二年間、わたしは信仰祭で街へ出かけたことは一度もなかった。そもそも普段から街へ出ることなんて滅多にないし、この邸宅から踏み出す瞬間といえば、旦那様の舞踏会のパートナーを務めさせていただける時だけだ。
旦那様は皇宮で開かれる夜会へずっと出席されているし、初日だけ私を連れて行ってくださるけれど、残りの九日間はおひとりで。
本当はロロとリリを行かせてあげたいけれど、二人は私も一緒でないと自分たちも行かないと言うし、私は旦那様が伯爵としてパーティーで社交活動とも言える公務をされている時に遊ぶわけに行かないのだ。
「シュゼットが限定商品を発売するらしいのですわ。なんでも、木苺と生クリームたっぷりのオーターと、それに合う限定ティーだとか」
それにロロが食いつき楽しそうにおしゃべりを始める。ロロとリリはまだ十八だ。そういったものを楽しみたい年頃だし、街中での運命的な出会いなんかも楽しみにしているはず。
食べ終わったお皿を近くのテーブルにおき、二人の話に耳を傾ける。
二人の笑い声で部屋が温かくなり、気を抜いたら私まではしゃいでしまいそうなほど楽しげな雰囲気に包まれていた。
けれど近頃私はこんな景色を見ると、あと何度これを見ていられるのだろうと、そう思ってしまう。
いくら深呼吸をしても、心を落ち着かせようとしても不安は拭いきれない。私は旦那様を怒らせて失望されて、この家の中には私では無い誰かに送られたドレスがある。
ロロとリリはそんなことは無いと言ってくれるけれど、可能性は、かなり大きいのではないだろうか。
そんなことは起きなければいい。旦那様がまだ、私に使い道があると。まだ捨てなくてもいいと、そう思ってはくれないだろうか。
その女性に愛想が尽きただとか、別の男性がいただとか、そんな風にはならないだろうか。
考えすぎ、それは自分でもよく分かっている。でもこの不吉な予感は何なのだろう。どうしてこんなに不安になるのか。
そしてその不安というのは、当たってしまうものだ。
◇◇
「聖女が現れたことは知っているな?」
「はい」
午後、旦那様に呼ばれた私は、重い体を引きずりながら旦那様の執務室で立っていた。
ばくばくと心臓がうちつけ、息を荒くさせる。
聖女、聖女が現れたことは知っていた。帝国内に知れ渡っていることだし、国中が歓迎ムードになっている。
数百年ぶりの聖女様の誕生で、今回の信仰祭のための皇宮のパーティーも、彼女が主役になっていたはずだ。
……どうして旦那様は、その話をわざわざ私を呼び出してまでするのだろうか。
旦那様に呼ばれたことは何度もない。ましてや、こんなふうに旦那様が椅子に座っておられて、机を挟んで私が立っているようなまるで主従関係のような対面の仕方は初めてだった。
旦那様はいつも私を気遣ってくださっていた。私の顔色が悪ければ座っていいと言ってくださるし、少しでも咳き込もうものなら、もう部屋に戻れと言ってくださる。
けれど今日は違った。旦那様は私が部屋に入ってきてから一度も顔を見てくださらない。傍にレイの姿もない。それがあまりにも不審で、不安を掻き立てるには十分だった。
「聖女が現れた場合、その血を残すために貴族との結婚を強いることは知っているな?」
「……はい」
「今、聖女の結婚相手を貴族の中から陛下が探しておられるところだ」
はい、と答える私の声はあまりにも小さくて、旦那様には聞こえていないかもしれない。それほどまでに、情けないほどにか細くて、震えていた。
私はこれから旦那様に何を言われるのだろうかと、それしか頭に浮かんでこない。
出来れば聞きたくない。いや、今すぐに耳を塞いで部屋を飛び出したい。
部屋の空気が酷く重く感じられて、背中を冷や汗が伝った。今日は暖かいはずなのに信じられないほどに指先が冷えていて、自分の手で握りこんだ。
机に疲れた右肘、袖は腕まくりをされていて、筋肉の着いた綺麗な腕が見えていた。その手は額に添えられていて、眉根は寄せられている。まるで旦那様も悩んでいるように。
今日も今日とて艶やかな髪は目にかかり、手元の書類に向けられるグレーの瞳がそこから透けていた。
その姿を見ているだけで愛おしさが胸に溢れてきて苦しくなる。触れたい、とさえ思ってしまうし、昨夜のことを思い出しもする。
一生おそばにいたい。私の願いはそれだけだ。愛されなくてもいい。なんでもいいからとにかく、とにかく旦那様のお姿を見ていたい。
……それすらも、叶わないの?
「俺も求婚することにした」
「…………、だん、な、さま」
一気に絶望に落とされる。手が震え、乾いた喉でひゅっと不規則に空気を吸い込む。そうするしか、息を吸うことが出来なくなった。
何も考えられない。頭が真っ白になって、霞がかかる視界にさらに涙で膜が張られる。
「……旦那様…………」
「俺が聖女に求婚するにあたり、妻である君には様々な憶測が飛び交うだろう」
心臓が止まってしまいそうだった。嗚咽を漏らさないのに必死で、耳がキーンと痛くなる。
これは夢では無いのだろうか。こんなにも、辛いことなんて人に訪れてしまうの?
嫌。離れたくない。旦那様のそばにいたい。
旦那様が聖女に求婚するところなんて見たくない。聖女様がその愛を受けてこの屋敷で幸せに暮らすところだなんて想像もできない。
私が頂けなかった愛を聖女様はこんなにも容易く手に入れて、旦那様を愛することを許されるだなんて。
何故、どうして私では駄目だったの。私の方が旦那様を愛しているのに。私の方が旦那様のお力になれるように努力しているのに。私の方が旦那様のことを、ずっと想ってきたのに。
許してください。お願いです。捨てないでください。
考え直してくれませんか。お気に召さないところはすべて直します。あなたが望むことなら何でもします。
旦那様に言いたいことはいくらでもある。許しを請いたいし、もう一度機会を頂きたい。聖女様と結婚なんてしないで欲しい。
なのに、
「……どうすれば、よいのでしょう」
私の口から飛び出るのは、そんな言葉ばかりだ。
私はもう分かっているんだ。いくら駄々を捏ねようと、機会を頂こうと、もうどうすることも出来ない。
なぜなら私は病もちで、聖女様は癒しの力を持つお方なのだから。
存在することでさえ価値が違う。私は誰もが遠ざけたがる病気持ち。聖女様は誰もが近づきたがる女神に愛されたお方。
どちらが旦那様のお役にたてるかなんて、考えなくてもわかる事だ。
それは想いだとか、年数だとか、努力だとか、そんなものは関係ない。生まれつき決められてしまうのだ。愛されるに値する者か、そうでない者か。
私はそうでない者だった、ただそれだけだ。
「……無視しなさい。伯爵家の別荘に行くのもいいかもしれないな。あそこには前補佐官のウィリアムもいる。上手く君を隠してくれるはずだ」
「…はい……」
離婚。
つまりはそういうことだ。アルカディル伯爵家は名門。しかも旦那様はこの国で最も人気のある男性と言ってもいい。
こんな素敵な方から求婚を受ければ、聖女様だってお受けになるし、陛下が相手を探しているとなれば、結婚までの道のりもそう遠くはないだろう。
そして邪魔になってくるのは妻である私だ。私がここにいては行けない。ここにはすぐに旦那様の運命のお相手が来ることになるのだ。
ここに私が残って聖女様がお越しになれば、それこそ世間体が悪い。
出ていかなければならない。この屋敷を。
そして、ありとあらゆる社交界からの憶測や中傷に、反撃することなく甘んじて受け入れろと、そう言っておられるのだ。
「……はい、分かりました…………」
こんな病もちをここまで養っていただけただけで私は幸せ者だわ。
そうよ、彼の隣には聖女様のような皆から慕われ尊敬され敬われる方がふさわしい。私なんかよりも。
私はもう十分幸せだったわ。私のような者がこんな扱いをうけていいはずがないのに、私はそれが幸せで手放したくなくて。
身の程知らずな図々しい行いだった。ここまで居残り続けるなんて。
それなのに旦那様は優しくしてくださった。もう十分よ。十分、な、はずなのに。そう思わなければいけないのに。
唇を噛んで固く閉ざし、さらにその上から手で押さえつける。そうしないと叫んでしまいそうだった。
「表面的には病が進行したことにしよう。もし別荘に誰かが訪ねてきても姿を見せないように。当然外出は控え、静かに暮らしていなさい」
「はい」
人に姿を見せてはならない。旦那様の世間体を守るために。旦那様の名誉のために。
死んだように生きなさい。初めからいなかった者のように。静かに、静かに暮らして、そうして…………。
「分かるな?」
そのままそこで死んでしまえばいいと、そう思っているのですか?
「……はい、分かりました」
嗚呼、これが欲深い女の末路なのだわ。今までに犯してきた罪の償いをするための罰なんだわ。
愛しいその姿を視界から締め出すために瞼をきつく閉じる。
愛しています、旦那様。