悲しい夜
辺りが寝静まった真夜中。
満月に近い形をする月光が普段と何も変わることの無い伯爵邸を濡らしていた。月が雲に隠れる度にその窓は光を受けることがなくなり、そしてまた姿を表せば眩い光が地に降り立つ。
何も変哲はないこの夜。しかし今日は、伯爵邸の使用人たちは気を揉んでいることだろう。それは使用人たちの部屋が未だに煌々としていることからもよく分かる。
なに、二ヶ月前まではよくある事だった。
主人の機嫌は良くもなく悪くもなく、女主人はいつも通りの心の清らかさ美しさで屋敷に花を咲かせる。
その頃では二週間に一度は訪れていたこの日が、この二ヶ月間は音沙汰がなかった。
それは、この屋敷から花が消え去ったことが原因であった。花は傷つき花弁を引き裂かれ、水を得ずに光を失ってしまった。
その花は今、明かりのない部屋で自身の夫を部屋に招き入れていた。癒されることのないままに。
月の光だけが揺らめく部屋の中、薄着姿の男女が一人ずつ。男の髪はまだ濡れており、それがぽたぽたとカーペットに染みを作っていた。
男は手を伸ばしグラスを手に取ったかと思うと、そのそばに置いてあったワインのコルクを片手で開け、それを注いだかと思うとそれを呷る。
その一連の動作を離れた場所に立ち尽くしながら見つめていた女は一声も発することはない。その顔には怯えや動揺、不安、悲しみが見て取れる。
そのことに夫である男は気づかないのだろうか。気づかないのだろう。夫は部屋に入ってきてから一度も妻の顔を見ていなかった。
いつもは酒など飲まない。妻の体に酔いしれてしまうため、そんなものはいらないのだ。では何故いま男は酒を飲んだのか。
コトンと音が響き、女の方がびくっとすくんだ。それに目もやらずにベッドへ腰掛ける夫の元に、妻は足を震わせながらも、形式的なものをこなすかのように歩み寄る。
膝と膝の間に体を入れる動きは、東方の言葉でいえば佳人であるというにふさわしい程に、淑やかで物静かな普段の妻からは考えられないほど大胆な行動だ。
しかしこれは男を誘うものでもなく、また今夜初めてすることでもない。
この一連の妻の動作は、彼女が夫を受け入れ始めてから変わっていない。初めての夜、夫がそう指示したことを、二年がたった今でも実行し続けているのだ。
他にどういう風に行動したらいいのかが、夫しか知らない、夫しかいない彼女には分からなかったために。
体重が移動しベッドが軋む。長く悲しい夜の始まりだった。
男が尋ねる。 「痛いのか」
女は答える。 「いいえ。どこも痛くありません」
窓をすり抜け入ってくる月光が、シルク素材のシーツに反射され、女の体に光の波模様を作り出す。
そのミルクティー色をした淡い色の髪は、光を受けると銀にも見えるような色になり、何度も夫の口付けを受けていた。
唇に受けた訳でもないのに、その度に女は身体を震わせ、幸せを噛み締めながらもその先の悲しみを見据えるような、ぼんやりとした目を夫の肩越しに天井に向けていた。
新緑の瞳には水の膜が張られ、夫の目には葉を伝う雨水のように見えていることだろう。宝石のように美しいその涙は、夫にとっては美しいと同時に、自分の胸の傷に染み込む塩水だった。
それが妻のこめかみを伝い髪に染み込む度に、男の手はシーツを握りしめ、抱きしめたい衝動を抑えるかのように首を項垂れていた。
何度尋ねようと何度慰めようと、妻の涙が止まることはない。
「どこか痛いのか」「苦しいか」「今日はやめるか」
何を言っても答えは否。
「どこも痛くありません」「苦しくありません」「いいえ、続けてください」
その震えた声が部屋に響く度男が唇を噛むことに妻は気づいているのだろうか。気づかないのだろう。女はほんの一瞬しか愛する夫を見上げることは無かった。
見ては瞼を閉じ、また見てはすぐに閉じる。まるで自分の視界に入れてしまうことが罪であるかのように、それは犯してはならない禁忌だとでもいうように。
いや、禁忌だと思っているのだ。夫を愛することが。
愛を伴わない義務からの行為。静まり返る邸宅にすすり泣く声が聞こえてくるのではないかと思うほど、屋敷中が重苦しい雰囲気に包まれていた。
愛を望むことを許さず、愛を受けることを諦め、ただひたすらに夫に尽くす妻と、愛を口に出せず、贈り物に込めることしか出来ない妻を愛しすぎている夫の、心の探り合いだった。
彼は私のことをどう思っているのか。
君は俺のことを憎んでやいないだろうか。
どちらか一方が口に出せれば、あいしている と、この一言を伝えることが出来れば、こんなにも寂しい夜はないと言うのに、人間とは心から愛する者の前では、酷く臆病だった。
言葉でなくとも愛を伝える方法はあるだろう。例えばそう、口付けがその一つだ。恋人同士が自分の思いを伝えるために行うそれは、この二人には経験のないことだった。もう二年、結婚して夫婦になってから二年が経っている。
その先の行為は数え切れないほどだというのに、口付けを交わすことは一度もなかった。
その理由は単純で、口付けとは義務では成り立たない事だからだ。
後継者を残すための事とちがう。望まなければ交わさなくてもいいし、望むのであればすればいい。
無論夫は望むだろう。妻を狂おしいほどに愛している男だ。ただ義務で成り立たないそれをするということは、妻に好意を寄せていると気づかれることになると彼は知っていた。
好意を寄せられていると知った妻はどういう行動に出るのかも予想が着いていた。
予想さえなければ変わっていただろう。世界で一番では足りない、何を捧げてもいい、妻を失うことだけは耐えられない。そんな男に盲目的に愛されている妻がここまで傷つくことは無かっだろう。
堅物な伯爵と、遠慮がちな伯爵夫人。
心の底から愛し合っているお互いの心が伝わることはなく、抱き合っているという最も互いを感じられる瞬間に、彼らは孤独だった。