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心から愛しております旦那様、私と離婚を致しましょう  作者: 菜ノ宮 ともり
season1:崩れ去る大切な日常
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すれ違う愛

 




「……熱が出始めましたね」


 額に置いてあった濡らした手ぬぐいをそっと上げ、そばに置いてある桶に張られた水にそれをつけ直しながら、リリが言った。


 窓から見える景色はもう夕暮れ。


 橙色の光がガラスを通して入って来ていて、カーペットを染めていた。


 同じく夕焼けの光を受けて茶色っぽく見えるようになったリリのお下げを見つめながら、私は自分の額に手を置いた。


 あれから私の体調が戻ることは一向になく、むしろ悪化していた。


 長時間続くことや熱が出ることはあまり珍しいことではない。酷い症状の時は尚更だった。


 視界の方も心なしか晴れてきたように思える。ぼんやりとリリの髪色くらいは識別出来ていた。


 屋敷中がバタバタと音に包まれているのが朦朧としながらも分かっていた。


 きっとみんな私の為に動いてくれているのだ。旦那様の出迎えの準備や通常の業務に加えて、私の仕事を代理で行っていてくれたり、看病を交代でしてくれている。


 ぼんやりしながらも、心の中で何度も何度もごめんなさいと呟いた。何度謝っても足りないのに、それを言う度にみんなは怒るからもう言わないことにしている。


「……ねぇリリ」

「はい」

「どうして旦那様はあんなに格好いいのかしら」


 リリが押し黙ってしまった。リリにとってみれば複雑なのだろう。リリはロロよりも感情の起伏が激しいから、一度好きと思ったものはずっと好きだし、一度嫌いと思ったものはずっと嫌いなのだ。


「今日の朝の、旦那様のお姿を見たかしら?いつも完璧になさっているのに、襟だけ曲がっていたわ。……きっとレイがやったのね。……出来ないくせにやりたがるらしいから。……それでも旦那様はぶつぶつ言いながらも黙ってやられているのよ。なんだかんだ言って、旦那様はレイのことを大事に思っているから。……旦那様、は本当に優しいわ。病持ちの私に良くしてくださるし、仕事も任せてくださるし」


 息がどうしても切れてしまう中で、心に浮かぶことをそのまま口に出す。その間リリが何かを発することはなかった。


 私はリリにわかって欲しい。旦那様は本当にお優しい方なのだと。


 私への対応に何もおかしなところはない。これでいいのだと。だからリリもこれ以上旦那様に敵意を持つことはやめて、前のように慕って欲しい。


 リリは本当は、旦那様のことを尊敬しているのだから。


「……でも、私は…旦那様があんな方だとは思いませんでした。私は幼い頃から旦那様を見てきましたが、何でも完璧にこなされて、使用人にも優しくて、いつも正しくて、憧れでした。……なのに、奥様が来られてからの旦那様はおかしいです。奥様への態度は正当化されていいものではありません。奥様が良くても、私たちが」


 リリが言葉を切った。それは、部屋にノックの音が響いたからだ。


 他の部屋のドアも開かれる音がするから、きっと全部屋複数人で回っているのだろう。リリが出ると、外に立っていたのはフットマンで、旦那様がお戻りになられた、とそう言った。


 旦那様のお出迎えは、行ける者は全員玄関前に集合することになっている。それがこの家の主人への礼儀であり、敬意を表す方法だから。


 私ぐっと体に力を入れ、上半身を起こした。それを見たリリがぎょっとした様子で軽く悲鳴をあげ、私を支える。


「何をしていらっしゃるんですか、まさか」

「旦那様のお出迎えに行くわ。悪いのだけれど、手伝ってくれるかしら」


 ベットから足を下ろしながら言うと、ロロさながらの般若のような顔でリリが私を押しとどめた。


「いけません!このような体でどこへ行くというのです!」

「大丈夫よ。もうだいぶ見えるようになってきたし、体の方も問題ないの」

「熱が出たばかりではありませんか」

「出たばかりだからまだ動けるわ。旦那様のお出迎えだけはすると決めているの。行かせて頂戴」


 手を握って目を見つめると、リリは首を振ろうとしたが私の顔を見つめて、口を真一文字に結んでそれから、もうっ、と諦めたように下を向いた。


 それを見て私はすぐさまリリの手を借りながらベッドをおり、立ち上がった。


 立ち上がってすぐ、ふらつく私に腕を回したリリが顔を青くしながら言った。


「やっぱりやめましょう。無茶ですわ、こんな……」

「早く行かないと遅れてしまうわ。連れて行って」


 私が無理やり歩き始めると、リリはそれに従ってくれた。


 大丈夫。挨拶くらいならできる。


 私は伯爵家へ嫁いできてから、一度も見送りや出迎えを怠ったことは無かった。そうしないと、それぐらいはしないと、敬意を払わない、何も出来ないくせに夫人の座に居座る図々しい女だと言われてしまうかもしれないと思ったから。

 

 私は仕事もろくに出来ないし、何か得意な分野がある訳でもない。だから妻として、最低限あの方を支えよう。私の全てを尽くして。そう思っている。


 部屋を出てすぐ大きな階段があり、その下に旦那様が出入りをする門がある。


 そこにはもう使用人達が集まって整列していた。やっとのことで階段の踊り場まで辿り着き手すりに掴まる。


 その時、門が開き、旦那様が入ってきた。


「お帰りなさいませ、旦那様」


 私の代わりに先頭に立つロロが先導を切った。それに二十を超えるみんなの声が続く。


 それを見ながら、旦那様は着ていた外着を脱いで辺りを見回したあと、ロロに話しかけた。


 私には一度も話しかけてくださったことなどない。これが、長年仕えてきてくれているメイドと、まだ巡り会って二年の妻との扱いの差なのだ。


 ぐっと唇を噛むも、頭を振って雑念を振り払う。


 今はそんなことを考えている場合じゃないわ。どうしましょう、遅れてしまった。


 今からこの階段を降りても、旦那様は直ぐに書斎へ行ってしまわれるから間に合わない。挨拶をしない訳にも行かない。


「ー…………ーラは……」

「奥様は…………ーーーで」


 左手を手すりに、右半身をリリに預けた状態で、僅かに身を乗り出して声を振り絞った。


「……旦那様」


 小さな声だった。本当に本当に小さな声。


 旦那様の所まで届くかも怪しい中、さらにロロと会話をしているのに、旦那様のお顔が上がったのがわかった。


 それに続いて、ロロもこちらを見やったのが色の動きでわかる。


「…………ーラ?」

「……旦那様、お帰りなさいませ」


 旦那様の呟きも聞き取れない。旦那様の表情もはっきりと分からない。


 リリに聞こうとした時、旦那様が動いた。もしかしてこちらへ来てくれるのかと思ったけれどそうでもなく、その場で立ち止まっていた。


「……申し訳、ありません旦那様。お出迎えが遅れてしまい……」

「どうしてここにいる」


 ひゅっと息が止まる。早く旦那様のもとへ行かなければという気持ちが一瞬で無くなり、怖気付いた足が半歩後ろへ下がる。


 旦那様のお声は、怒りに満ちていた。


「…いや、………」


 ふーっとため息が静まり返ったホールに響く。


 この時初めて、私は旦那様の出迎えに来たことを後悔した。


「いつから具合が悪かった?」

「……朝からです。朝食の後すぐに」

「……業務は」

「ロロが代わりにやってくれました」


 次に聞こえた旦那様の息遣いで、体の芯が震えた。


 旦那様は今間違いなく、安心なされた。私が出来なくなった業務は代わりにロロがやったと、業務が滞った訳では無いことにほっとなされた。


 当たり前のことだ。旦那様が私の体調を気遣われるわけが無い。そんなことよりも伯爵家の仕事の方が優先される。


 そんなことはわかっている。今まで何度も自分にも、ロロとリリにも言い聞かせてきたことなのに、胸がずきりと痛み、勝手に口から申し訳ありません、と謝罪の言葉がとび出た。


「いや。…今日、湖へ行かなくて正解だった」


 行かなくて正解。それは、私があっちでこの症状を出していたら、面倒だったから。


 つまりはそういうことだ。


 ずきずきと痛む胸を押さえつける。


 やめて。痛まないで。分かっているでしょうリヴェーラ。ちゃんと分かって。諦めて。旦那様に大事にされることを望まないで。


「…………」


 何かを言わなくては。その焦りから口を開くけれど、何を言ったらいいのか分からない。


 いつもの私だったら、深く謝罪をして、それで終わりだったはずだ。だけどこの時の私は、熱で朦朧としていたからなのか、それとも自分に必死に言い聞かせていた言葉が混じってしまったのか。いつもなら言わないようなことを、旦那様にぶつけてしまった。


「……今後も、二人でのお出かけは控えませんか。旦那様はご公務がありますし、私は」


 旦那様に不快な思いをさせてしまうだけですから。


 その言葉が続くことは無かった。しん、と静まり返り、一気にホールに冷たい空気が流れたことに、私はそこで初めて気がついた。


 ばっと口元を押さえる。


 私は今、何を…………。


 まるで些細なことを根に持って嫌味をぶつける、子供のように……。


 自分が今仕出かした事に呆然としていると、旦那様が歩き始めた。階段下に続いている廊下を歩く旦那様の靴の音が聞こえる。


 明らかにそこに怒りが混じっており、私は自分で自分の顔が真っ青になったのが分かった。


「だ、だんっ」


 階段を駆け降りようとして、自分の体が思い通りにならないことに気がつく。


 転げ落ちそうになった体を、リリが叫びながら支えてくれたのを感じていたが、私は手すりにすがりつき、その下を歩く旦那様の背中を見つめた。


「だっ旦那様!私……」

「安心しろ。二人で出かけることは金輪際ない」


 背を向けられたまま、そう告げられた。胸がすっと冷え、ずるずるとその場にしゃがみこむ。


 旦那様の歩がとまることはない。旦那様は私を振り返ってくれることなどない。そう分かっているのに、どうか、振り向いて欲しいと、意識せずにこぼれてくる涙でネグリジェに染みを作りながら願った。


 だけど、階段が邪魔になって旦那様の姿が隠れてしまうまで、旦那様が振り返ってくださることは無かった。


 奥様、とみんなが駆け寄ってきてくれているのを感じていたけれど、私は放心のあまり目を見開いたまま硬直していた。


 私は、なんてことをしたのだろう。旦那様を怒らせてしまった。自分の欲のせいで。


「……〜っだ、だんなさま、旦那様…………っ!」

「奥様!お気を確かに!」

「旦那様!申し訳ありません、旦那様!」





 お願い、私を嫌わないでください。捨てないで。あなたの為なら何でもします。


 約束を破られることなんてなんでもないし、部屋を奪われてもドレスや装飾品、持っているもの全てを奪われても、何をされてもいい。


 力の限りを尽くします。私の全てを捧げて、あなたの望む従順で仕事のできる妻になってみせますから。きっと、お役に立ちますから。


 だから、お願いです。私を捨てないで。


 私はあなたのそばにいられるだけで幸せだから、あなたの妻であると思うだけでそれだけで幸せすぎて涙がこぼれるの。


 心の底から愛しています。


 だからどうか、どうか私を、一生あなたのそばに置いてください。







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