"奥様"の傷
「奥様、奥様っ!」
自室に戻りソファに座り込んで休んでいると、旦那様のお見送りをしてきたのだろう、ロロとリリが駆け込んできた。
横よりも縦に大きいくりくりとした目はさらに大きく見開かれ、慌てて走ってきたためかドレスの裾はしわができていた。
「たった今旦那様がお出かけになられたんですが……!」
「今日はお二人で湖へ行く約束だったではありませんか!」
ドアを開け放ったまま大声でそんなことを言う二人をなだめて手招きをする。
「旦那様は急に皇帝陛下からお呼ばれになったの。勅命に逆らう訳には行かないわ。当たり前でしょう?」
「…………」
興奮しているリリとロロでも、勅命による行動には反論しようがないようだった。
仕方の無いことだなんて誰が聞いても分かること。賢いリリとロロは、この話をこれ以上掘り下げて旦那様を責めても正しいことではないと気づいたのだろう。
黙り込んで二人で顔を見合わせていた。
「……でも」
「あんなに楽しみにされていたのに…」
「いいのよ。ありがとう」
私が座っているソファの横に立っている二人を見上げて礼を言う。二人は旦那様が嫌いな訳ではなく、ただ私を心配してくれているだけなのだ。本当に優しい子達だし、私なんかに忠誠を誓ってくれているとてもいい子達。
私では無い別の誰かに仕えていたらもっと褒美を貰えただろうし、昇進ももっともっと上へ上り詰める程には受けられただろう。
「……せっかくですからブティックへ行きましょうか!奥様のドレスを買いましょう」
俯いた私にロロが膝を突いて目線を合わせてきた。
私は目を伏せたまま首を振る。
「私のドレスなんかに旦那様のお金は使えないわ。私は旦那様から頂けるもので間に合っているもの」
アルカディル伯爵家の財産は有り余るほどあった。この国のトップともいえる財力を持っているアルカディル伯爵家、その帳簿は私が管理していた。と言っても形だけで、最終的なチェックはレイにお願いしている。
伯爵家が貧乏であるはずもないし、ドレスの一着や二着買ったところでなんともない程の貯蓄がある。
けれど、それは旦那様のお金だ。社交界ではミランジェお姉様のように、自分で事業を展開してお金を稼いで家に貢献している女性達が沢山いる。
だけど私にはそんなことは出来ないし、ただでさえ毎日の薬にお金を使わせているのだ。しかも高価なものを。
こんな頼りきっている状況の中で私的な買い物だなんて、できるはずがない。
ぼやける視界を治すために首を振る。昨夜の行為による腰の痛みが頭にまで上がってきたのか、今度は頭痛に襲われ顔をしかめた。
顔を伏せているからか、ロロは気づかないようだ。
「そんなことを言って、奥様のドレスの保持数知ってらっしゃいます?男爵家の令嬢と比べても本当に少ないのですよ。しかもご自分で買われたものはひとつも無いし」
「装飾品もそうです。お菓子も香水も裁縫道具でさえ奥様は新調なさらないじゃないですか」
「……ごめんなさいね、あなた達にも何か買ってあげたいんだけど……」
「私たちですか!?どうして……」
「私たちは自分のお給料で好きなものを買っていますし、奥様からもいつもお土産を頂いております。私たちのことなんか気にせずに奥様が…………。奥様?」
肘置きにぐったりと体重を預けている私の様子のおかしさに気づいたのか、リリも私のもとに膝まづいた。
「奥様!?どうなさったのです!」
「リリ、主治医の先生を呼んできて」
「分かったわ」
「奥様?奥様、しっかりなさってください」
リリが部屋を出ていく音が聞こえると同時に、ロロによって肩を叩かれる。こんな場面に何度も遭遇してきたロロらしく、落ち着いた声をしているがほんの少し手が震えていた。
大丈夫、なんともない、そう言いたいのに体が重く、動かせない。
瞼を薄く開けても見える景色はぼんやりと白く濁り何も見えず、頭がぐわんぐわんと揺れている感覚がした。手足が痺れる中、震える指でロロの袖を掴む。
「!奥様……」
「ロロ、ごめんなさ、私……」
「謝らないでくださいませ!奥様、私に目を見せてください。お顔を上げられますか?」
顎を支えてくれるロロの手の導くままに顔を上げて瞼を開く。私の目の色を見たロロが息を呑んだのがかろうじて分かった。
「……そんな、酷い…………」
「奥様はどちらですか!?」
この掠れた声は先生だ。何をしてもぼんやりとしてしまう思考のなかでそれだけは分かった。
ぐっと肘に力を入れて上半身を起こす。こうしないと先生が診て下さる時にご迷惑になるから。
先生がいつも履いていらっしゃる革靴の音が近づいてくる。ロロが私の手を握りながら立ち上がり、先生の場所を開けた。
「奥様、私が分かりますか?」
「……先生」
「少し目を見せてくださいませ」
言われた通りに閉じていた瞼を再度開く。するとさっきロロに見せた時よりも視界が濁っていた。もはや色さえも分からず、雲の中にいるようだった。
「……酷いですね。どうしてこんな状態に……」
ガチャガチャと薬箱を漁る音がぼんやりと耳に入ってきた。先生も焦っているのか、何度か瓶が床に落ちる音が響いた。
「わ、私達も今気づいて……」
「朝食の席までは普段と変わらないご様子でした。症状も重くなく、色ははっきりとしていらっしゃったのですが、部屋にお戻りになられてから、この状態に……」
先生の少しかさつく指が瞼に押し当てられ、ぐっと上へ持ち上げられた。そのまま目薬をさされる。
その後リリが持ってきた水で薬を数え切れないほど嚥下し、注射を二本打った。
それを一通り終える頃には視界は回復しないものの、体調はかなり良くなった。
痺れないことを確認するために手を握って開いてを繰り返していると、リリのすすり泣きが聞こえてきた。
「リリ?」
「……奥様、まだ、目が…」
「こんなに酷いのは初めてではありませんか?先生、命に関わることは今まで通りないのですよね?」
目が見えないためロロの表情が分からないけど、きっと不安に満ちていると思う。それを声で読み取った私は、ロロの声がした方に手を伸ばした。
ロロを探してふらついていた私の手をロロの小さな手がしっかりと捕まえてくれる。
「……ロロ、リリ、ごめんね。私は大丈夫だから」
「奥様が謝られることではありませんっ」
微笑んで言葉の代わりに手をぶらぶらと揺すると、リリは少し落ち着いてきたようだった。いや、落ち着かせてくれたのかもしれない。
奥様が一番苦しんでいらっしゃるのに自分が泣いてはいられない、とでも思ってくれたのだろうか。
そんなことは気にしなくていいのに。全て私が悪いのだから。
「……今日は何かありましたか?」
先生が器具を片付ける音と共に質問をされた。
「……今日は、特に…」
「そうですか。なんにせよ、安静になさってくださいね。この状態では一週間歩くこともままならないでしょう。ゆっくりお休みになられて、ストレスを溜めないように」
「はい……」
先生にもまた迷惑をかけてしまった私のこの病気は、一生治らないものだった。
病名はない。この国で、世界で、唯一私だけがもつ奇病だった。
人へ感染するものでは無い。ましてや薬で完治するものでもないこの病気は、目の色が無くなっていく、という症状があった。
私の元の目の色は緑と黄色を混ぜたような新緑をしているけれど、不規則に色が薄くなっていくのだ。その色が白くなればなるほど視力がおち、何も見えなくなってしまう。
とは言ってもその症状が出た後にゆっくり休めば目の色は元の濃さに戻り、普通の生活を送ることが出来る。
けれど、症状が出る時が予測できないことが問題だった。
一週間に何度も軽いもので来る時もあれば、一ヶ月の間に重く出ることもある。全く予測ができず、元々屋敷へ常駐していた先生を何度もこの部屋まで呼びつけてしまっている。
先生にも、そんな先生を呼びに行ったり看病をしてくれるリリとロロにも、そしてその治療費と、休んでいる間の業務を持たせてしまっている旦那様にも、私は迷惑をかけ続けているのだ。
私はこの奇病のせいで結婚はおろかあ、婚約者もいなかった。自分はこのまま独り身で過ごしていくのだろうと漠然と思っていた。
それでもいい、この病気のせいで誰かに迷惑をかけたくは無い。両親の邪魔もしたくはないから、一人で山奥にでも行こうか、そんな事を思いながら静かに過ごしている時、皇帝陛下からの命が降りたのだ。
現アルカディル伯爵と婚姻関係を結ぶように。そう伝えられた時は困惑しか無かった。そしてそれと同時に焦りも感じた。
人々が忌み嫌う私を、誰が好き好んで妻にするのか。伯爵様も陛下からのご命令で嫌々私を娶るんだろう、そして私は酷く旦那様に迷惑をかけてしまうことになるのだ。私のせいで。
予想通りだった。私の為に使わせる毎月の薬代はけして安価なものでは無い。予測できずに臥せる私の業務。私にさく使用人。
それでも旦那様は私に冷たい言葉をおかけになることはなかった。
化け物、厄介者、病気持ち、お荷物。
これくらいの暴言は覚悟していた。いざ邸宅に来てから私の様子を見て離婚されようともそれは当たり前のことだと思っていた。
けれで旦那様は離婚はおろか、暴言も何も私に向けることはなかった。
こんなにも手のかかる荷物はないだろう。何も出来ない、何も取り柄のないくせにさらに病気まで持っている。こんな私のことを、二年間も養い続けてくださっている。
こんなに優しい方だと思ってはいなかった。アルカディル伯爵は冷酷で、騎士たちにはもちろん、女性にさえも冷たいお方だと。
そんな噂は偽りだった。旦那様は理由もなく人を蔑ろにすることはない方だった。
実際私がここへ来てしまうまではロロとリリにも好かれていたし、他の使用人のみんなからの信頼も厚い。
この伯爵邸のみんなは、旦那様に心からの忠誠を誓っていた。
全ては私が邪魔者だった。私は旦那様に返しきれないほどの恩があるし、謝罪しきれないほどの罪もある。
傍から見れば冷たいと思われてしまうかもしれない旦那様の私への対応も、私からしてみればこれ以上ないくらいの優しさで、私なんかにドレスを贈ってくださるのも、朝食を毎朝一緒にとってくださるのも、たまにお出かけに連れて行ってくださるのも、言葉に表しきれないほどに嬉しくて、幸せな事だ。
こんな私がこれ以上何を望むと言うのだろう。
丁寧に扱ってもらって、何不自由なく過ごして、優しくしてくれる皆もいて、これ以上何を望めばいいのか分からないし、望んではいけないと思う。
私の旦那様への愛は一生旦那様に伝わることはないし、旦那様から愛を返されることも無い。
こんな当たり前のことを今更誰が覆そうと言うのか。少なくとも私はしないし、リリとロロだっていつかは私の元から離れていくだろう。優秀なあの子たちならもっといい主人に出会えるはず。
これから先、私がどんな酷いことをされようと、どんな境遇に置かれようと、旦那様やここのみんなを憎むことは無い。
私は与えてもらった幸せを返さなければならないし、返す手段もないから。
私は、何があってもこの先、何を犠牲にしてでも旦那様の為に生きると、そう誓っている。