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心から愛しております旦那様、私と離婚を致しましょう  作者: 菜ノ宮 ともり
season2:手に入れた本当の幸せ
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決壊



「…トレル?リトレル?」

「あっ…ああ、どうした?」

「どうしたって…ずっと何もない所を見つめて動かないから、心配になったのよ」


 ツェツィーが目を擦りながら言った。夜通しつわりに苦しむ私に付き添っていたのだから、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 妊娠を自覚してから、急激に体調が悪化した。発作が出るようなことはなかったけれど、それでも虚弱な体は昼夜問わず悲鳴を上げる。


 結局一人で耐えられたのは、倒れた次の日の一日だけで、それ以降はツェツィーやマーサさんに助けてもらっている。


「何でもない。少し、考え事をしてて」

「……」


 それは、やっぱり私のことなんだろう。

 この妊娠をどう受け止めるのか、明確な答えが出ていないまま慌ただしく動くしかない。それでも堕ろすことは今は考えていない、その意思を伝えたところ、それで十分だと二人は言ってくれた。


「…昨日話し合ったでしょ?リヴェーラにも考える時間が必要だけど、やるべきことは決まってる。まずはリヴェーラを私たちで支えるの」

「そうだな。そのことは…いいんだ。いや、なんでもない」


 それきり黙り込んで、コーヒーを啜っている。

 私が倒れた時からリトレルの様子がおかしいことには気が付いていた。私が落ち着きすぎているのかもしれないけど、ツェツィーは持ち前の明るさで励ましてくれる中、リトレルは何も言わずに遠くを見つめていることが多くなった。


「ねえ、ツェツィ―」

「なあに?」

「やっぱり、リトレルは気にしてるわよね…」

「へっ!?な、なにを?」

「リトレルにとっては自分の兄の子供ってことになるし、いきなり甥が出来たとか、跡取りが…とか、気になることが多いと思って」

「あぁ~…そう、そうね。確かにね。……もっと気になることがありそうだけど」


 最後が聞き取れなくて聞き返したけれど、「何でもないわ!」とはぐらかされてしまった。

 二人は私がここに来る前から仲がいいようだし、私の知らない話を共有しているのかもしれない。


(知らない話と言えば…)


「リトレル、一昨日の夜は二人でここに泊まったわよね」

「え!?」

「ああ、そうだな…ツェツィー勘違いするな。仕事が終わらなくて、次の日の朝が早かったから……っ」


 突然、何かに気が付いたように口元を押さえた。

 一昨日の夜、つまり私が倒れた日の前日は、この執務室の隣にある仮眠室に泊まった。勿論部屋は別で、私が鍵をかけられるほうの部屋を借りて、リトレルはその向かいの部屋で寝ていた。


 明け方はやけに目覚めるのが早くて、陽が登りきる前にベッドから起き上がった。その時、執務室で物音を聞いた気がしたのだ。


「もしかして、何か聞いたのか!?」

「え、ええ…誰かの話し声が。あの朝、リトレルも起きていたわよね。もしかして誰か来てた?」

「いや…えっと」

「どうせアンディでも遊びに来てたんでしょ?リヴェーラと泊まったって聞いて、揶揄いに来たんだわ」


 アンディはハウスの検問を担当している。私が入館したときに審査したのが彼だったけれど、あんなに朝早くからハウス内に居るのは見たことがない。

 船が到着するのが昼頃なので、人であふれかえる前に商品を港へ運び込む必要があるので、早朝は門の近くにいるはずなのだが。


「なら声をかければよかったわね。お客様だったらって、忍び足してたりしたのよ」

「アンディじゃない、けど…まあ、リヴェーラは会ったことがない人だから」


 コーヒーを飲み干すと、おもむろに立ち上がった。そのまま部屋を出て行ってしまう」


「どうしたのかしら?やっぱり変よね」

「…恋人でも出来たのかしら?」


 冗談のつもりで言ったのだが、ぎょっとした目を向けられた。


「リヴェーラ、他でもないあなたが言っちゃダメよ」

「え?」

「とにかく、リトレルの前でそういうことを言わないであげて。ただでさえ繊細になってるんだから」

「わ、わかった」


 本当は困惑しているが、頷くとツェツィーも仕事に戻ると言って立ち上がった。今はお昼休憩で、ここからどっと忙しくなる。


「リヴェーラは無理せず、ゆっくり休むのよ。体調が良いときだけ働くこと」

「ええ。ありがとう」


 ばたん、と扉が閉まる。伯爵家にいた頃は、部屋で一人になると静寂に包まれていたのに、ここは違う。

 ここでは常に街の音が届く。遠くで船の到着を知らせる鐘の音が鳴っている。港町特有の喧騒にほっとして、この地に馴染んできたなぁと思う。


 手を彷徨わせて水差しを掴み、半ば無意識のまま水を嚥下する。

 コップを戻そうとした時、ポシェットから万年筆が滑り落ちた。かつんっと音をたてて落ちたそれを、私はしばらくぼんやりと見つめる。


(…あの手紙も、これで)


 拾おうとして、万年筆の蓋の部分にひびが入っているのに気が付いた。思わず息をつめてそれが単なる汚れでもないことを確認する。


 単なる万年筆だ。誰かからの贈り物でも、高価なものでもない。けれどあの屋敷にいた時から使っていた、愛する人への手紙を書くのに使っていたものだった。

 実家に封印してきた束になった手紙も、この万年筆で綴った。離婚届も。

 

(インクが、漏れてしまうかしら)


 ポシェットに入れるのを躊躇した。インクが漏れたら、裏地に染みついてしまうだろう。

 悩んだ末にテーブルに置いた。修理に出すにも、今すぐには行けない。


(こうして、あの頃の持ち物を一つずつ手放して、いつかは忘れてしまうのだろうと思ってた)


 この場所でかけがえのないものをたくさんもらって、伯爵夫人のベールはいつの間にか消えていた。見上げる空の色は何も変わらないのに、視界が広くて、まるで透き通っているようで。


 もっとこの感覚を研ぎ澄ますにはどうしたらいいのだろう。もっと体を軽くするにはどうしたらいいのだろう。


 ―辛くて苦しかったあの頃の荷物を、全て捨てればいいんだ。


 そう、思っていた。


 窓枠越しに空を眺める。皮膚の下で心臓が脈打つのに神経を集中させると、下腹部がほんのりと熱を持つ。ここに命があるのだと思い知らされる。


(じゃあ、旦那様の子供であるこの子は、捨てなければならない荷物なの…?)


 婚姻は届を燃やしてしまえば赤の他人に戻る。でも命は肉体としてこの世に存在して、肉親のつながりをその身で証明し続ける。

 私が母親で、旦那様が父親だという事実は何をもってしても覆ることはない。この子がいることで、私と旦那様には決して切ることの出来ないつながりが出来た。


 でも、堕ろすことは微塵も考えなかった。

 冬の次に春がきて、暖かいお日様のもとで花が芽吹くように、人生で必ず訪れると約束された瞬間が今なのだと思った。

 まるで初めから予想していたかのように、妊娠したと告げられた瞬間から産むという選択肢以外ありえなかった。


(…妊娠が分かったのが、ここで良かった。きっと、屋敷にいた頃だったら素直に喜べなかっただろうから)


 それに、リトレルやツェツィーや、この街で出会った人々に支えられながら育てることが想像できる。父親が誰であれ、私の子供であることに違いはない。

 ただこの温かい日常に可愛らしい笑い声が重なるようになったら、涙が出るほど美しい毎日になるんじゃないかと、そう思う。


(そうは言っても、迷惑をかけたままじゃいられないし)


 気合を入れて立ち上がる。今日はつわりもひどくないし、仕事に行こう。

 万年筆を残して部屋を出る。まずはカウンターで対応中の顧客リストを見に行かなくてはならない。


 人が目まぐるしく行き交うカウンターの前で立ち尽くした。ただでさえ多くの人が集まるこのハウスで、一番人口密度が高いのは間違いなくここアンバーミッドハウスの玄関口、受付だろう。

 

 ルーランチェの顔とも呼べる場所なだけあって、さすがに受付嬢たちは美人ぞろいだ。しかし彼女たちの魅力は美貌だけにとどまらない。聞くに受付嬢専門の学校まであるほど、求められる能力は多岐に渡る。


(まるで舞っているみたい..)


 ひと際輝く金髪を揺らしながら、くるくると動き回るツェツィーリエの姿に私は釘付けになっていた。例えばツェツィーは三か国語を操り、会計や石工業にも心得があるとか。


 そんなことを考えていたら、ばちっとツェツィーリエと目が合った。

 

「あら!歩き回って大丈夫?ご飯は食べた?つわりは平気?」

「ええ。大丈夫よ。今ハウスに来てる商人リストを見たくて…」


 その時、カウンターに一人の男が来た。ツェツィーとは別の受付嬢が対応する。


「ミディエル商会の方ですね。少々お待ちください」


 受付嬢がアポイントの確認をするために頭を下げる。頭一つ分は背が高かろう男の目線は、カウンター内に注がれていた。


 特におかしなところはないはずなのに、何かが引っかかる。

 全身を真黒なローブで隠しているのは、ハウスでは珍しいことではない。肌の色を隠したがる外国人も多い。他に身体的特徴も見当たらないが。

 

(この人、全く足音がしなかった……)


「申し訳ございません。本日のお約束はないようです。こちらで確認を致しましょうか?」

「いえ。結構」


 そのまま立ち去ろうと踵を返す。すれ違う瞬間、ローブが潮風で舞い上がった。目は合わない。けれど、吊り上がったその目元と鼻横のほくろに見覚えがある。

 その瞬間、心臓が跳ねた。


(まさか…いえ、そんなわけない。なんで…)


「ヴェーラ?どうしたの?ヴェーラったら」

「ツェツィー、リトレルは今どこ?」


 きょとんとした顔で、ツェツィーはリストを差し出した。


「今なら第三応接室で商談中だと思うけど」

「ありがとう」


 自分の表情がどれだけ強張っているかも気づかないまま、早足で来た道を戻った。

 あの男の後をつけるのは自分には不可能だ。となれば、リトレルを問いただすしかない。もしリトレルが無関係だというのなら。


(いえ、考えるよりもリトレルと話をしなきゃ)


 足音が鳴らないように極限まで訓練されて、真っ黒なローブで全身を隠す。見覚えのあるあの顔を最後に見たのは、真夜中に帰宅した旦那様を出迎えた時だ。

 ロロとリリに頼み込んでなんとか教えてもらったその組織。


 旦那様直属の影の組織。あの男はその一員だ。




***


  


 リヴェーラが後ろ手で扉を閉めた。山陰から顔を出し始めた太陽が静まり返った執務室に差し込む。


 先日、この部屋に夫が来ていたことを彼女は知らない。任務のために香りなど場所に残るものは身につけていなかったとはいえ、リヴェーラが「話をしたい」と言ってここへ呼び出した時には、嫌な予感が背中を走った。


 始終強ばった顔をしているリトレルを見て、安心させるようにリヴェーラが笑った。


 ハウスへ来た頃よりも随分と頬がふっくらとして、赤みがさしている。ミルクティ色の髪にも艶が戻り、まるで屋敷にいた頃のような彼女が、質素なハウスの制服を着ているのは、違和感があった。


「ごめんなさい。仕事で疲れているでしょうに、呼び出してしまって」

「…いや、あまり眠れていなかったから、気分転換になるよ」


 つい口が滑って、慌てて本を読んでいたと訂正するが、肩身が狭そうにしている様子はない。相手を信用して心を許していることが分かる。


 というより、他のことに気をとられていると言っていいかもしれない。


「…今日、ハウス内である男性を見かけたの。真っ黒なローブを着て顔を隠していたけれど、足音がまったくないからすぐに分かったわ」

「なんの事だ?」


 思い当たる節がないリトレルは、眉をひそめる。それもそのはずだ。アルカディル伯爵家の影の組織は、当主の命令にのみ従う。

 例え肉親であっても、特にリトレルのように早く家を出ている者にはその存在さえ詳しく説明されない。


 彼らが従うのは当主、そして次に当主夫人のみなのである。


「…本当に気がついていなかった?それとも、私には隠していたのかしら」

「リヴェーラ、なんの事だか俺には分からない。怪しい人間でもいたのか?」

「……怪しい、そうね。怪しいわ。ねぇリトレル、私をここへ連れてきてくれた時、そのことを誰かに言った?」


 予想していなかった質問に、リトレルは困惑した。

 フェンデル侯爵夫妻に挨拶に行ったことを除けば、他の誰にも話していない。


 あの時は妻に何の関心も示さなくなった兄に、報告する必要もないと思っていたからだ。

 

「していない。君の両親に挨拶に行っただけだ。その時は俺と一緒にいただろう?」

「ええ。私がここにいることを知るのは両親と、ロロ、リリだけ…。でも、私はウィリアムにも手紙を送っていたの。ウィリアムは必ず旦那様に報告するだろうと思っていたわ。遅かれ早かれ、私が残した離婚届も見つけるだろうと…」


 リトレルは目を見開いた。

 先日会ったばかりの兄は、リヴェーラの居場所さえ把握していなかった。ウィリアムは報告していないのだ。

 リヴェーラが離婚届を残し、ルーランチェにいることを。


「離婚届と一緒に指輪まで置いてきた。なのになぜ、今更私を探しているの?離婚するだけではだめだった?子供が出来たと知って、連れ戻そうと……!」

「待て。落ち着くんだ、リヴェーラ。兄さんはリヴェーラがここにいることすら知らないはずだ。いや、間違いなく知らない。そのウィリアムに送った手紙と一緒に離婚届を置いてきたのなら、それも見ていない」


 リヴェーラの瞳に涙の膜が張った。あっという間に盛り上がり、白い頬を転がり落ちる。

 自分を守るように腕を回した彼女を、リトレルはさらに庇うように抱きしめた。


「リヴェーラ、何があった?」

「旦那様直属の影の組織が…その一人がハウスにいたわ」


 言葉を失ったリトレルをリヴェーラがじっと見つめた。まるで、そこに何かの答えがあるかのように、全てを見透かす瞳を向けた。


「今すぐに離婚できる状態なのに、私を探そうとする理由なんてひとつしかないわ。誰かが私の妊娠を知らせたの」

「違う。……それは違うよ、リヴェーラ」

「あなたを疑うつもりなんてない。もし…もし、旦那様と連絡を取り合っていたのだとしても…責めるつもりもない。あなたたちは兄弟なんだから」

「リヴェーラ」


 頬を両手で挟み上を向かせる。不安に揺れる瞳が痛々しくて、リトレルは己の不甲斐なさに嘆息した。


 密輸品の告発に人手が必要だと判断したリアムは、数人を残して行くと言った。リヴェーラがかつて屋敷内で彼らを見かけている可能性は十分に考えられたのに、リヴェーラの妊娠発覚の騒ぎに気を取られて放念していたのだ。


 兄がここへ来ていたことを知らせるつもりはなかった。

 リヴェーラに関係なく、別の任務で来ただけだと説明することは出来るだろう。しかし、リヴェーラが影に気がついたというのなら、その男もリヴェーラの顔を知らないはずがない。


 遅かれ早かれ、兄に報告が上がってしまう。リトレルにそれを制することはできない。彼らが従うのは当主であるリアムのみ。

 そのことを、リヴェーラに黙っておくことが出来るはずがなかった。


「…ごめん、リヴェーラ。全部俺のせいだ」

「……リ、トレル?」

「兄さんに君がここにいることを知られてしまう。そうしたら……兄さんは必ず、ここへリヴェーラを迎えに来る」


 驚愕と混乱に満ちた表情で自分を見上げるリヴェーラを、リトレルはもう一度強く抱き締めた。


 兄と再会する前のリトレルであれば、歓喜したのだろうか。思いを寄せた女性が自分に体を預けてくれているその様子に、自分によって変わった彼女の姿に。

 けれど今は、どうして喜ぶことが出来ようかと罪悪感が襲いかかる。


 初めから愛されていたのだと知ったら、彼女はどう思うのだろうか。

 兄、リアムの人生で、自分が唯一望まれた存在で、任務のためにやむを得ず遠くへ逃がされただけだったと。


 戸惑う必要も、怯える必要もない。ただお互いがすれ違ってしまっているだけだと知ったら。

 そしてそのすれ違いを知っていながら黙っていた自分のことを、リヴェーラはどう思うのだろうか。


「…一昨日、兄さんがここに来ていた」

「…そんな」

 

(それでも、もうこれ以上兄さんを裏切りたくない)


 リトレルはぐっと歯を食いしばった。胸の痛みがせりあがって、全てを感情のままに吐露してしまいそうだった。




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