誰かための盾
数ヶ月ぶりに見た兄は、弱っていた。
頬の肉が落ち、濃い隈を垂らした目には光がない。あの時、リヴェーラを苦しめた兄を糾弾する気でいたが、その意気は直ぐに消え失せた。兄にとっても望まぬ状況なのだと、ひと目でわかった。
両親が亡くなった時、俺に残されたのは兄と、大きな邸宅と、英雄の子孫の座だった。泣きじゃくる俺を抱きながら、これからどうしようか、と兄が尋ねた。兄さんしかいらない、と答えた。なら残りは全部俺が貰うぞ、と困ったように笑っていた。
幼すぎて何も分かっていなかった、と言えば言い訳になるのだろうか。兄が怖い顔をするようになって大人が何人も出入りする執務室に近寄れなくなった。あんな場所で一日の大半を過ごす兄が信じられなかった。
時折叔父だという男の怒鳴り声が聞こえてきて、叔母だという女の猫なで声が聞こえてきて。兄は決して奴らに俺を会わせないようにと注意を払っていた。
伯爵位を奪わんと、俺たちの命を狙っている人間から守ってくれていたのだと後から気がついた。
兄はまだ、十四歳だった。
外交官になりたいと兄に伝えたことはなかったのだが、ある日突然、うちで扱っている貿易を任せると言われた。もちろんウィリアムの力を借りていいと言いながら、全権を俺に放り投げた。
目を白黒させながら、それでもアルカディル伯爵家で扱う貿易商は流石に規模が桁違いで、気がつけば熱中していた。
教師が、お兄様にリトレル様が外交官に興味があることを伝えておきました、と後から告げた。
経験を詰んだおかげで、早々にルーランチェへ飛び出した。その頃には兄は滅多に邸宅に帰っては来なくなっていた。叔父や叔母も、遠くへ行ったのだと聞いた。それは、子供ながらに兄が始末したのだと悟っていた。
段々と表情を失っていく兄を見るのが怖かったのだろう。ろくな会話も無くなっていって、兄が何をしているのかも知ろうとしなくなっていった。
それでももっと幼かった頃は、自分も仕事を手伝うと張り切っていたのだが、誰も決して俺に兄の仕事内容を教えようとはしなかった。兄も、完全に執務室から締め出した。
どうして気が付かないでいられたのだろう。兄さんは俺を逃がしてくれたんだと。
英雄の子孫などと謳われているが、実情は親戚に命を狙われ、屋敷でも使用人が度々買収され食事に毒が、服に針が。周囲の貴族からの重圧も、領地経営も、子供には重すぎる物事を全て兄が遠ざけてくれていたのだ。
俺を自由な世界へ押し出して、自分はあの場所へ残ると。両親と暮らしたあの邸宅で、一人残って守り続けると。
それがどれ程の覚悟と努力を要するのか、なぜ分からなかったのだろう。
兄の力になりたかった。それでも、残された俺たちは寄り添いあって生きていたかったのだ。
死に物狂いで上司にしがみつき、外交官として経験を積ませろと詰め寄り、外国を飛びまわった。
白い目で見られることも多々あった。なぜ金持ちの道楽に付き合わなければならない。もしくは、なぜ貴族に生まれながら下賎の真似をする。
大勢の人と交流することは楽しかった。これがいつか兄のためになればと思えば何も苦しくなかったが、交友関係を広げるほどに孤立していく感覚がした。
家を出てからも数えられる回数だったが、兄の元へ顔を出した。相変わらず顰め面をして出迎えられていたが、遠い世界の話をすると眉間が緩んでいた。
いつか当主補佐として帰ってくるつもりだった。けれど、兄は戦へ向かった。
ウィリアムから知らせを受けて駆けつけた時には、既に屋敷を空にしていた。今までのような小さな小競り合いではなく、国をあげた戦争だ。その最前線に兄は立つという。
数ヶ月、連絡が途絶えた。一体何が起こっているのか分からないまま、当主代理を受け持ったウィリアムの補佐に務めた。
その頃にはウィリアムの孫のレイも働き始めていたので、兄の不在も何とか守りきることが出来た。忙殺されていないと気が狂いそうだったのだろう。
兄がふらりと帰ってきたのは、半年後のことだった。四肢の欠損がないだけましだ、と本人は言っていたが、重体でしばらく臥せることになった。
後にも先にも、兄の我儘はこの時だけだった。
勝利へ導いた褒賞として兄が所望したのは、小柄で、自信なさげに目を臥せる儚げな女性だった。
初めて顔を合わせた時は、愕然としたのをよく覚えている。兄はこの女性を手に入れるために生死を懸けたのか、と。
淡い色の髪も、おどおどとした立ち振る舞いも、震えた声も、兄の庇護欲を掻き立てたのだろうか?ただでさえ大量に抱えているのに、これ以上守るものを抱えてどうするのだろう。
素直に振り返れば、そんなことを思っていた。
そんな考えも、式で兄と顔を合わせた時、心からの笑顔を見て吹き飛んだ。咄嗟に唖然としたふりをして、涙を隠した。
伯爵家も、英雄の子孫の名誉も、弟の未来も、全て押し付けられた「守らなければならないもの」だった兄にとって、彼女は初めて自分から請うた「守りたいもの」だったのだと。
義姉がいるだけで兄が幸せになる。それを見るのが何よりも嬉しかった。
奇病を持っていることを知り、元気づけるために話しかけたのがきっかけで、よく異国の地の出来事を伝えるようになった。
儚い女性だと思えば、意外なところで芯が強い。風邪気味の状態で働くメイドを叱りつけていたのが、初めて見た彼女の怒りだった。
こちらが照れるほど兄を愛していた。兄も義姉を愛していることを知っていたので、ただ安心していた。自分はずっと兄のそばにはいられないが、この人は違う。兄と永遠を誓ってくれたのだと。
だから、兄が彼女を捨てたと知った時、信じられないと一笑した。いくら噂が広まろうと、もはやその噂がたったことさえ不思議だった。
傍で見ていれば分かる。二人はお互いが唯一無二の存在だった。兄にとって、牢獄で唯一咲いた光の花だったし、義姉にとって、暗闇に現れた灯台だった。
だが、光の花は散らされていた。身も心も傷つけられた状態で兄の元から追い出されていた。
兄を責めた。いくら説明を求めても、一切取り合ってくれないその姿は、両親を亡くしてすぐの、あの執務室にこもった兄が再来したようだった。
その頃にはもう、リヴェーラを大切に思う気持ちが芽生えているのは自覚していた。この世でいちばん大切な兄が愛した女性。それだけで特別な存在だったというのに、それ以上を求め始めるのに時間はかからなかった。
ルーランチェへ連れ帰り、もう一度花開かせようとした。初めのうちは兄を思い出して苦しむ姿を見て、同様に兄を思い出した。
その後は、リヴェーラが笑うのを見た時、ハウスの制服に身を包んだ姿を見た時、林檎を坂の下まで転がして恥ずかしそうにしていた時、台所でスープを作る姿を見た時。
いつもいつも兄を思い出した。なぜ、この姿を見ているのが俺なのだろう?ずっとその疑問が心にあったのだろうと今なら分かる。
リヴェーラを女性として愛している気持ちに偽りはない。兄より先に出会っていたとしても、恋に落ちて、そばにいたいと願ったはずだ。
けれど、俺の中で、いちばん大切なのは兄だった。 彼女は、兄のいちばん大切な人だった。
「リヴェーラは俺の最大の弱みだろう?」
なんの疑いもなく兄がそう言った時、長い夢から覚めた気分だった。聖女に懸想したのだ、病弱な妻に愛想をつかしたのだ、人々はそうまくし立てたが、全てを信じたわけではない俺も、兄のリヴェーラへの愛を疑っていた。
殻に閉じこもるようになった兄。自ら牢獄へ残った兄。それらは全て、俺のためだった。あの時、両親の墓の前で、泣きじゃくりながら兄さんの他には何もいらないと言った、無責任な俺のせいだった。
氷のような仮面を被るようになった兄でさえ俺のものだった。
けれど、その兄が自ら変わろうとしている。リヴェーラのために。この世で最も愛する人のために。
「リヴェーラを守ることしか考えていなかったからな。それが彼女を大事にすることにつながるとは限らないのに」
その言葉を聞いて、数日前のリヴェーラとの喧嘩を思い出した。ふと目を離した隙に彼女の姿が見えなくなっていて、探し回っても見当たらなくて、結局夕方になって戻ってきた彼女を見て、複雑な感情が湧き上がった。
彼女を常に見張らないと。そんな独占欲に近しいものだったと思う。今考えても愚かだ。彼女を物扱いして、自分より早く家を出ることにさえ神経質になっていた。見知らぬ人間と話していれば嫌な感情が生まれて、戸惑う俺を見てリヴェーラは悲しそうな顔をした。
そしてついに、リヴェーラは俺に言った。
「私はリトレルと、こんな関係は望んでない」
具合が悪いままに働いていたメイドを叱った時と、同じ目をしていた。
誰が見たって明白じゃないか。そう思い知った時、自分が情けなくて、恥ずかしかった。兄が捨てたのなら貰ってもいいだろう、そんな醜い欲が自分にあったんじゃないのか。
それとも兄を奪われたリヴェーラへの嫉妬?リヴェーラを手に入れた兄への嫉妬?まるで子供の駄々こねのように、自分も構ってくれと叫んだだけだったんじゃないのか。
あぁ、恥ずかしい。俺はリヴェーラの隣に立つ資格なんてない。
リヴェーラは兄といる時、弱かったんじゃない。ただ盲目になっていただけだ。メイドや、俺のことはきちんと叱れる人間だった。昔も今も。
兄はリヴェーラといる時、非常な人間だったんじゃない。愛し方を探っていただけだ。あまりにも大切で、愛し方が分からなかっただけだ。俺を執務室から締め出したように。
そんなことにも気が付かずに、兄からリヴェーラを奪おうとした。そんな間抜けなことをしている間に、兄はクーデターを止めるために働いていた。その最中でもリヴェーラを最優先で守ろうとしていた。
いつだって危険な場所に立ち続けたのは兄さんだった。一番苦しい場所を選ぶんだ、兄さんは。
そう分かっていたのに、リヴェーラに会わせなかった。今この街にリヴェーラがいるんだと言い出さなかった。
何故か喉が凍りついたように何も話せなくなって、兄の顔を見られなくなった。
「ごめん、兄さん」
ごめん。俺は卑怯者だ。
それでも、リヴェーラが欲しいだなんて。
「間違いありません」
リヴェーラの顔が白くなる。ツェツィーも、俺も、同じような顔色をしている。
ふっと視線をリヴェーラの下腹部へ向けた。何も変哲のない体。その中には、兄の子供が宿っている。
どうして、今なのだろう。兄はもう発ったのか?今呼びに行けば間に合うのか?いや、そんなことよりも。
ほんの少しだけ残っていた未練すら、打ち砕かれた。リヴェーラのお腹に宿った命は、再び兄とリヴェーラを繋いだ。元より離れる運命にはなかったことを考えれば、当然の結末だ。
兄の元を離れてルーランチェで過ごした全ての時間でさえ、彼女は兄のものだった。
なぜ今なのだろう。せめて彼女が伯爵家にいる時に。いや、ほんの一刻前に。この事実を知ることが出来たなら。
リヴェーラを手に入れようだなんて愚かなことは、考えもしなかったはずなのに。




