命を抱いて2
「リトレル?入っても…いいかしら」
部屋の鍵まで渡されているのだから、自由に出入りする許可は出ている。けれど、この状況では躊躇ってしまう。
私が声をかけてすぐ、部屋の中で大きい物音が響いた。まるで、何かを立て続けに落としたかのような。
その次に荒い足音が聞こえて、ばん!と勢いよく扉が開いた。
「リヴェーラ!?…大丈夫、なのか?寝ててもいいんだ、呼んでくれれば俺が行ったのに」
「もう大丈夫。ありがとう」
リトレルも、さっきのツェツィーリエと同じような顔をしていた。それでも私の泣いたあとの顔が痛ましく見えたのか、苦しそうな顔をしながら、頬に残る雫を拭ってくれた。
「帰りましょう、リトレル」
「あ、あぁ。すぐに準備する。…あ、そうだった、ツェツィー、お前の」
「ツェツィー?」
リトレルがツェツィーリエを呼んだ瞬間、その背後から男性が顔を出した。見覚えがある。
ツェツィーリエの夫君であり、現コンバット子爵の弟であったはず。
彼はツェツィーリエの泣き腫らした顔を見て、すぐに彼女に駆け寄った。
「あぁほら、擦るな。肌が傷つくだろう」
「うぅ、ルイス〜〜」
先程よりかは落ち着いてきているけれど、まだ涙が止まっていないツェツィーリエの顔を慰めるように撫でる。ツェツィーリエもごく普通のことのようにその胸に抱かれ、顔を擦り付けていた。
仲の良さがよく現れていて、隣で見ていてなんだか恥ずかしくなってしまう。
「リヴェーラ様、お久しぶりです」
私が目をそらそうとした時、ルイスに声をかけられた。
「あの時、ゆっくりご挨拶出来ませんでしたので」
「あ、えぇ」
「改めまして、ツェツィーリエの夫の、ルイス・コンバットと申します」
このような形ですいません。と苦笑いしながら謝る彼のシャツはツェツィーリエの涙で濡れ、未だに腕の中にはぐずるツェツィーリエが居る。
その涙は私のためのものであるから不要な気遣いではあるし、どちらかと言うと彼の最愛の妻を号泣させたのは自分なわけであるので、私こそ、と苦笑いで返す。
「リトレルから、経緯を伺いました。リヴェーラ様のいらっしゃらないところで、申し訳ありません」
「いいえ。お気になさらず」
ツェツィーリエの旦那様であるわけだから、いずれは知られることだろうし、この状況を話も聞かずに理解してくださいだなんて無理な話だ。
「リヴェーラ様もまだ驚かれている時に、こんな話をするのは気が引けるのですが」
「はい」
何やら真剣な話をされる時のような雰囲気だけれど、そこまで堅苦しくならないのはツェツィーリエの泣き声が響いているからか、それとも笑みを絶やさずに話すルイスの人柄からなのか。
「…可能であれば、診察を担当した医師を呼び戻し、秘密保持を厳重にした方がよろしいかと」
「……」
さすがは元貴族、と言ったところか。それでも、私もリトレルも動揺するがあまり考えられていなかった。こうして直ぐに気づけるというのは、経験の差なのだろう。
「…はい」
「…どういうこと?」
ツェツィーリエが顔を上げる。私は笑顔を向けようとするけれど、引きつっているのが自分でもわかった。
「もし、この子の存在が旦那様、いえ、旦那様でなくても陛下やその他の貴族の皆様に知られたら、少し面倒なことになってしまうから」
「…まさか」
「可能性は低いが、宿った赤子はアルカディル伯爵家にしてみれば後継者候補になる。もし、伯爵が求めるとなれば、…アルカディル伯爵家は国の英雄の子孫だからな、裁判にでもなると間違いなく……」
「親権は、奪われてしまう」
ツェツィーリエが息を呑んだ。
親権が奪われるということは、産み落とす前、母体にいる時から既にその命の権利を奪うということだ。
「産まれる前に知られれば、私ごと連れ去られる危険性もあるから、隠し通さなければならないの」
「そ、そんな酷いことを、するの…?あなたの元旦那様は…」
「…分からないわ。旦那様がしなくても、政治的な目でこの子に狙いを定める貴族はいくらでもいると思う」
「貴族裁判が開かれれば良い方だ。突然、誘拐されることも有り得る」
ツェツィーリエはすっかり青ざめてしまっている。私はそれを安心させたくて、歩み寄り頭を撫でた。
「大丈夫だと思うわ。このことを知っているのはここにいる三人と、あのお医者様だけだから…。これから話さなくてはならない人も、ちゃんと私が選ぶから」
ツェツィーリエの方が私よりも歳上なのだけれど、どうしても年上目線になってしまうのは、私がツェツィーリエを可愛らしいと思っているからだろうか。
涙目で私のことを心配するツェツィーリエのことが可愛くて仕方がない。
「…何故かしら」
「どうしたの?リヴェーラ」
「私今、とってもあなたに抱きつきたいわ」
きょとんとしたツェツィーリエを見て、私ははっと我に返る。ルイスも少し驚いたような顔をしていた。
「あ、わ、私今なんて」
「ルイス」
ツェツィーリエがルイスを見上げる。するとルイスが笑いながら腕を解き、ツェツィーリエはそのまま私に抱きついてきた。
「それはね、リヴェーラが私のことを大好きだからよ!」
「大好き…。ええ、大好き」
「そう!大好きでね、大切にしたい!ってなると、人は抱きつきたくなるのよ」
温かいツェツィーリエの腕の中で、私はふと、思い浮かんだ言葉を口にした。
「…ツェツィーリエは、私の、友達」
「え?」
ツェツィーリエがばっと顔を上げた。しまった、と思ってた口元を押さえた時、ツェツィーリエの眉毛がくいっとあがった。
「えぇ今更?」
「あ、ううん、友達、とは分かっていたけれど」
「あぁ、そうね〜。じゃあ、親友になりましょリヴェーラ!」
まだ鼻は赤くなっているけれど、いつもの勢いが戻ってきたツェツィーリエに圧倒されてしまう。
そもそも友達すら今まで一人もいたことがない私に親友ができるだなんて、私にとっては大事件なのだ。
「親友って、なろうって言ってなるもんじゃ」
「ルイス黙ってて」
「親友って…具体的に何をするの?友達とどう違うの?」
「リヴェーラあなたねぇ、そんな世界の定義とはみたいな…」
ツェツィーリエが呆れた時、再度扉が開き中からリトレルが出てきた。そしてまだ泣きっ面のまま抱き合う私たちと、苦笑いをするルイスを見ながら困惑したような表情をしている。
恐らく一人まだ深刻な雰囲気の中にいたであろうリトレルには、明るすぎる光景のはずだ。
「あ、そうだわ〜。呼び方を変えましょうよ。私の名前って長いでしょう?だから、皆みたいにツェツィーって」
「分かったわ」
「リヴェーラの略称は何かないの?」
私の略称は、家族からしか呼ばれたことがない。そもそも誰かに教えたことすらなかった。
リリとロロはとても仲が良かったけれど、教えたって主従関係で彼女たちが呼ぶわけが無いし、私の交友関係はそこで終わる。
「ヴェーラ、と呼んで欲しいわ」
「分かったわ!」
ツェツィーリエが満足そうに微笑んだあと、大きく頷く。ヴェーラ!と明るい声が響く。なぜだか自分の名前が華やかに聞こえて、希望に満ちたもののように思えた。
こんなに幸せでいいのだろうか。
ルーランチェへ来てから何度も考えた。いつかこの幸せが壊れて、壊れていた私へ戻るのではないかと。
だから自分の内にある弱さが恐ろしかった。妊娠を知った時に深い場所へ落ちていく感覚に酷く脅えた。
けれど、今自然と幸せだと感じている。共に涙を流してくれる親友がいて、共に苦しんでくれる大切な人がいて、他にも支えてくれる人が大勢いる。
こんな場所にいて、自分は不幸だと嘆くだなんて、酷い侮辱だ。
今が一番幸せだなんてとんでもない考えだった。幸せは何度でもその限界を超えるものだと、初めて知った。
「…ありがとう」
ここへ来てから、私は何度この言葉を口にしたのだろう。遠慮も、後悔も、悲しさも混じっていない純粋な感謝を伝えられることがどんなに幸せか。
温かいツェツィーの体をもう一度抱きしめた。その温度で、私を蝕んでいた恐怖がゆっくりと溶けていくようだった。




