誤解と本音
「……皇宮、ですか?」
「あぁ。今日の約束はなかったことにしてくれ」
一瞬ぽかんと宙を見つめる。その間にじわじわと自分が何を言われたのかも理解し始め、心が諦める準備をしたのを感じた。
今日は、旦那様と湖へ行く予定だったのに。
止まってしまったナイフの先を見つめる。
初めて旦那様からのお誘いではなく、私からのお願いという形で、承認してくださったお出かけなのに。
ロロとリリにはめられるような形で決まった外出だったが、この日を心待ちにしていたのは嘘ではない。昨日の今日で体がだるかったとしても、病状が悪かったとしても必ず行くと決めていたのに。
「……陛下から直々の命だ」
「あっ」
私が黙り込んでしまってから随分経ってしまったと気づき、慌てて表情を取り繕う。
何を未練がましく。旦那様のお仕事が最優先よ。わがままなリヴェーラ。旦那様を困らせるのもいい加減にしなさい。
そう自分に言い聞かせて、はい分かりましたと言おうとした時、旦那様のため息が聞こえた。
びくっと肩が揺れる。
「……ぁ……」
「アルカディル伯爵としてこの勅命に応じないわけにはいかないだろう」
喉が凍りついて頭が真っ白になった。旦那様は私が湖へ行けなくなったことを残念に思って、駄々を捏ねたのに気づいていらっしゃる。
旦那様は伝統あるアルカディル伯爵家の当主なのだから、皇帝陛下からの勅命に応じるのは当たり前。さもなければ不敬罪だ。
そう分かっているのに私が、それに逆らい夫の仕事の邪魔をするような、アルカディル伯爵夫人として相応しくない態度をとってしまった。
どうしよう、旦那様に失望された。
「……分かるな?」
分かるな?
その一言が一気に私を震わせた。最後のチャンス。ここで従わなければ私は捨てられる。
「も、もちろんですわ……」
必死に口を動かした。不自然に見えないように、余裕を持っているように見せるために微笑みを浮かべる。だけど口元が固まりすぎて、自分でも引きつっているのがわかった。
旦那様がこの言葉を言う時は、逆らってはいけない。伯爵夫人として、理解のある妻にならなければならない。
夫の仕事に理解を示し従う、従順な妻であり続けれなければ、私はすぐに捨てられてしまうのだから。
だだをこねる女は旦那様はお嫌い。そんなことをしてしまえば一瞬で失望され、見捨てられてしまうだろう。
ただでさえご迷惑をおかけしているのに、自分の要求ばかりは言ってられない。
「私のことはお気になさらないでください。気をつけて行ってらっしゃませ」
顔に笑顔を貼り付ける。旦那様はそんな私の顔をちらりと見て、何事も無かったかのように食事を再開された。その美しい手つきをぼうっと眺めながら、唇を噛んだ。
どんなに残念でも、どんなに寂しくても悲しくても、あなたの重荷にはならない。なってはいけない。
ぐっと感情を押し殺し、料理を口に運ぶ。
ずきずきと痛む腰とぼんやりと霞んでいく景色が、私の体調の全てを物語っていた。
◇◇
朝食の席にリヴェーラが腰掛ける。その姿を一目見ただけで、彼女がこの日を心待ちにしていることが手に取るように分かった。
美しい景色に目がない彼女だ。俺と一緒であるということを除けば、最高の一日になっただろうに、結局行けなくなってしまった。
リヴェーラの持つ柔らかさや温かい雰囲気を際立たせるような淡い菜の花色をしたドレスは、俺が彼女に送ったものだった。
とは言っても彼女は知らないだろうが。俺からのものだと言えば受け取ってくれないような気がして、渡しに行った者にそう言わないように言いつけた。
所々に黄色や桃色をした花を縫いつけたのも、首や腕元をシフォンのように薄い生地で隠すようにしたのも、花を好み、日光に当たりすぎることを避ける妻のために俺が直接注文した。
そんなドレスを纏ってくれているというだけで、まるで彼女が俺のものになったような気分になり、自分でも一気に機嫌が良くなったのが分かった。
ふわふわとなびく癖の着いた髪は、その癖を直すことなく二つに編まれて両肩にかけられていた。
たまに目にかかってしまう前髪の奥から光る、淡い翠の瞳を見た瞬間、カタンと音がなり、そしてテーブルクロスに水染みを作った。
どうやらリヴェーラの可愛さへの反応を押し殺すために、机の上に置いていった右手でクロスを握りしめてしまったらしい。シワになったそれをレイがさっさと直している。
「……」
そんな俺をリヴェーラは不審そうに眺めていたが、彼女の好きなスクランブルエッグのソース添が並べられた瞬間、ぱぁっと花が綻ぶように笑った。
「……」
レイがこれ以上はやめてくださいねという目で見てくるためテーブルクロスではなく自身の手を握りしめる。
「……妖精なのか。妖精なんだきっと」
「なにか仰られましたか?」
反応したのはリヴェーラではなくレイだった。その声でリヴェーラも顔を上げてくる。
「……いや、なんでもない」
グラスにつがれた水を喉に流し込み、平静を装ったがリヴェーラにバレてやしないかと目線を流すと、リヴェーラはもう既に自分の目の前に置いてある料理に釘付けになっていた。
そんなに目を輝かせてくれるのなら毎日これでもいいのに。だがしかし、一度料理長に言った時には、奥様の栄養管理が崩れます、と聞き入れなかった。うちのシェフが口うるさくなければ。
そう思いながらグラスを置く。
俺がナイフを手に取ると、リヴェーラもそれに習う。
リヴェーラは俺が食べ始めない限り自分も手をつけようとしないのだ。それが礼儀作法であることは事実だが、そんなことは気にせずに楽に過ごして欲しいと思うのが本音だ。
しばらく食事をとる音だけが響く。いつもはリヴェーラが何かしら話しかけてきてくれるのだが、今日はスクランブルエッグに夢中で忘れているのか。
卵をのせたフォークを口に運び、まだ誰にも口付けたことの無い唇でそれを迎え入れる。僅かに弧を描いている口元がそれを食む、その一連の動作に目が釘付けになった。
リヴェーラにあれほど愛されるスクランブルエッグを睨みつける。夫でさえまだ触れたことの無い唇にあれほど触れることができ、一度朝食の席に出てくればリヴェーラの関心を全て奪ってしまう。
おかしな嫉妬心に煽られ、やはりもう作らせまいと決意する。
「……旦那様、あの件奥様に言われないのですか?」
不意にレイがそう言ってきた。しかも耳打ちではなく大声で。途端にリヴェーラがあれほど虜になっていた皿から目を離し、ばっと顔を上げた。
目を細め左横にたつレイに視線をやる。と言うより睨む。
その言い方ではリヴェーラに、本来なら言わなければならないことを、夫は自分に隠していると誤解を与えてしまうだろう。
だがそのあからさまな叱責にレイは気づかない。レイは優秀な代わりに人間の心というものを理解できないのだ。
仕方なくナイフを置き、口を開く。
「……今日皇宮へ行く」
「……皇宮、ですか?」
明らかにリヴェーラの声が困惑に満ちていた。
「あぁ。今日の約束はなかったことにしてくれ」
リヴェーラはきっと酷く沈むだろう。あれほど楽しみにしておいて、自分には関係の無い夫の仕事のせいで行くなと言われるのだ。
湖はさして遠くはない。馬車に乗りさえすればすぐに着く距離で、道のりもリヴェーラに危害が加わらないように二日前に整備させた。
だがリヴェーラに優秀なメイドと護衛騎士百をつけたとしても安心は出来ないだろう。
行く途中のある村の男どもが、全員リヴェーラの美しさに惚れて襲いかかってきたらどうする。前々からリヴェーラに懸想していた貴族が、俺のいないこの隙にリヴェーラを誘拐したら。
皇子達でさえも婚約者のいないあの第二皇子と第三皇子はリヴェーラに邪な視線を送っていた。隙あらばと狙っているはずだ。
そんな中をリヴェーラ一人で行かせたくない。
リヴェーラの顔がみるみるうちに悲しみに沈んでいった。ズキリと胸が痛み、やはり陛下の勅命に逆らおうとも考えるが、そうすることも出来ないのが現実だった。
「……陛下から直々の命だ」
言い訳をするようにそう言った。リヴェーラの顔が見れない。けして自分が行きたくなくて君との約束を破る訳ではなく、陛下からの命で仕方なくなのだと言うことをわかって欲しかった。
俺は心から君との約束を楽しみにしていた。なのにあの空気の読めない陛下が俺を呼びつけたせいで行けなくなってしまったのだと。
まるで子供だ。俺は行きたかったとはっきり伝える勇気がなくて、遠回しにこんな言い方をして。
自分の情けなさにため息が出る。
だがこんな俺と違ってリヴェーラは優秀な伯爵夫人だった。夫人としての仕事も完璧にこなすし、使用人からの信頼も厚い。社交界での人脈作りも、俺に代わって淡々とこなしてくれる。
アルカディル伯爵家は先々代の伯爵、リスト・アルカディルの功績により帝国内でも絶対的な権力を保持している。
そんな家門としては、ある一つの派閥と仲を深めすぎるのも権力が傾きその派閥に力を持たせることになる、かと言って伯爵家として社交界活動をしない訳にもいかない。
その難しい仕事をリヴェーラは日常業務をこなしながら適切に行ってくれるのだ。
それは俺に出来ることでは無いし、これまでの伯爵や伯爵夫人にさえ出来なかったことだ。彼女はそれほどまでに優秀で、俺には勿体ないほどの人だった。
そんなリヴェーラなのだからすぐに分かるはずだ。彼女は誰よりも伯爵家の体裁を考えている。陛下からの勅命は仕方の無いことだと。これは俺の意思ではなく伯爵家としての皇家への忠誠の証なのだと。
「アルカディル伯爵としてこの勅命に応じない訳にはいかないだろう」
それでもこうして言葉を重ねてしまうのは、俺の弱さだ。君を失いたくない、永遠に自分の物にしておきたいという醜い独占欲だ。
「……分かるな?」
醜い俺の心の内など分からなくていい。伯爵夫人としての責任も、伯爵夫人だからこそ君に強いられる我慢も束縛も、何一つ分からなくていいのに、俺は分からせようとする。
自由に幸せに暮らしていた君を突然連れ去って伯爵家という檻に閉じ込めた俺を許して欲しい。一生をかけて償うから。仕事なんてしなくていい、気に入った物なら何でも買っていいし、屋敷の中にいてくれるなら何をしたっていい。
だからどうか、消え去ってしまわないでくれ。
「も、もちろんですわ……」
か細いその声に顔を上げると、リヴェーラの顔に微笑みが浮かべられていた。普段と変わらないその美しい笑みと、その内に潜められている残念さが彼女の諦めを物語っていた。
「私のことはお気になさらないで下さい。気をつけて行ってらっしゃいませ」
「…………」
返答が出来なかった。こんな時まで彼女は俺を気遣ってくれているのに。
またリヴェーラに我慢を強いたくせに、もっとわがままを言ってくれていいのになどと矛盾した思いが湧いて出てくる。
だが俺にわがままを言ってきてくれることはこの先一度もないのだろう。
リヴェーラは俺を愛してはいない。最悪の場合は、俺の行動に怒りを向けたり悲しみを抱くような、そんなことさえもする必要のないほどに、ただの政略結婚の相手、自分が仕えるべき夫としか思っていないのかもしれない。
彼女がそばにいてくれるだけで充分だ。愛を貰おうなどと考えてはいない。
君が一生俺を愛することがなくても、一生をこの屋敷で共に過ごせると思えばそれだけで。