命を抱いて
「…間違いありません」
お医者様の声が、重く部屋に響いた。私はそれを聞いて、横になった状態のまま、両手で目を塞いだ。受け入れ難い現実を、締め出すかのように。
「…ただの、月経不順では無いんですか?」
隣にいたツェツィーリエが尋ねた。その声は細く震えていた。そんなツェツィーリエから顔を背けるようにしてお医者様が首を振る。
「だって、今まで、なんの兆候もなかったのに」
「…妊娠しておられます、間違いありません」
「本当に?……もしかしたら、万が一が」
「ツェツィリーリエ」
さらに言い重ねようとしたツェツィリーリエを止める。起き上がろうとすると背中を支えてくれた。
隠れたところで泣いていたのかもしれない。目尻が少し赤い気がした。
私が倒れたあと、お医者様が来るまでの間、取り乱すリトレルをツェツィーリエがなだめていた。私には聞こえない場所で。
もっとも、その時の私は茫然自失状態で、ろくに話も出来なかったのだけれど。
泣き腫らした目が痛ましくて、私はありがとうと言いながら白い頬に流れる涙を拭った。
「…ありがとうございました」
お医者様は私の顔を一瞥した後、紙に連絡先を書いて渡した。
「…とても言いにくいことではありますが、もし望まない妊娠であるのであれば堕胎という手もございますので。すぐに決められることではないと思いますが、元々の持病を考えると早めに処置をしないと体がもちません。…なるべく早く、心が決まったらこちらにいらしてください」
「…」
返事はできなかった。そんな私を急かそうとはせずお医者様が部屋を後にする。今の私にとって、詮索されないことは救いだった。私たちの様子から思うこともあるだろうに。
「リトレルを、呼んでくる」
沈黙が続き、その重苦しさに耐えられなくなったのか、ツェツィーリエが立ち上がった。その背中に声をかける。
「兆候なら、あったの」
「…え?」
「もっと早くに、気づくべきだった」
膝を立ててそこに顔を埋める。妊娠していると告げられてから、体の震えは収まっていた。
ただ、心が静かな水面に浮かんでいるような感覚で、ぽつりぽつりと言葉だけが漏れる。
「見ないようにしていたのかしら。旦那様の痕跡を、全て自分から消し去りたかったのかもしれない」
私の体は正常に反応していた。妊娠の事実を私に教えようとしてくれていたのに。
まだ実家にいた時の、精神の乱れ。精神患者の典型的な症状だと言われたけれど、妊娠すると普段よりも敏感になると聞く。
ルーランチェへ来てからも、異常なほどの睡眠時間の増加と頭痛。
気づける機会はいくらでもあったのに、私がそれを見逃していた。ただそれだけ。
「ツェツィーリエ、もう泣かないで」
「だって…」
その時扉が開き、リトレルが部屋に入ってきた。つい先程出ていったお医者様から診断結果を聞いたのだろう。リトレルもツェツィーリエと同じような表情をしている。
「…リヴェーラ」
なんと言ったらいいか分からないと言った様子だ。当たり前だろう。私自身、どう区切りをつけたらいいのか分かっていない。いや、私がこの事実を知ってどう感じているのか、それすらも分からなくなっていた。
「…赤子に罪は無い。私は、隣町の叔母様のお産を見たことがあるから、そう言いたい。けど、でも、納得できない。どうして、いつまで経ってもその旦那に苦しめられなければならないの」
「ツェツィー。お前が泣いてどうするんだ」
「あなただって泣いてたでしょうさっき…!……知ってるんだから」
リトレルがぐっと詰まり、黙ってツェツィーリエの反対側に腰掛けた。
それからしばらく無言が続く。誰もどうしたらいいかなんて分からない。当事者の私だって分からないんだから、巻き込まれただけの二人に分かるはずがない。
「…少し…一人になりたいわ」
リトレルはそう言われることが分かっていたのかすぐに頷いて、ツェツィーリエの腕を掴んで部屋を出ていった。
外は雨が降り始めて、いつもの人々の賑やかな声がかき消されていく。
静かな部屋の中で、私はそっと腹部に触れた。
まだ膨らんでもいない。何も感じない。
本当にここに命が宿っているだなんて信じられない。
しばらくそのまま撫でていると、今になってまた手が震え始めていることに気づいて、唇を噛んだ。
成長出来たと思っていたのに。私はまだ、弱い。
その事実を突きつけられたようで、恐ろしいのだ。私はいつもこうだ。自分がどう感じているかすらも分かっていないくせに、体が先に反応してしまう。それが怖くてたまらない。
心が追いつかないから、判断することも出来ない。判断?今、私は何を判断しようとしているの?
この妊娠を喜ぶか、喜ばないか?それとも、産むか、産まないか?
産まないのなら、どうするの?堕…。
そこまで考えて、ひゅっと細い息を呑み込んだ。
「……ぅっ」
やっと溢れてきた涙を、もう片方の手で拭う。体を丸めて膝を立て、そこに顔を押し付けた。そうでもしないと、嗚咽が漏れてしまいそうで。
あぁ、私は悔しいんだわ。
どうして今なのだろう。ここでの生活にも慣れてきて、毎日が忙しくて、楽しくて、ここで頑張ろうと思い始めてきていたのに。
せめて屋敷にいた頃に分かっていたなら、離婚されることがなかったかもしれない。せめて実家にいる時なら、お父様とお母様が守ってくれたかもしれない。なのに今。
旦那様を忘れようとしていた、今。
傷ついて、ぼろぼろになって自分の気持ちも分からずただ従うことしか出来なくて、意思すらも持てなかった私を、私は嫌いになっていた。
ここに来て、自分ですら大切にできなかった私を、大切だと言ってくれる人に沢山出会っていたから。
私の思うままに生きていいと、自信を持っていいと、私が、必要だと言ってくれる人ばかりだから、そうできていなかった過去の自分を捨てようとしていた。その環境ごと、全部。
だけどどれだけ足掻いても、私と旦那様の縁は切ることが出来ないと、言われたようで。所詮私が拒んだって叶わないと、そう言われたようで、悔しいと感じてしまっている。
この子が、また私と旦那様を繋いだ。もう私が何をしようとも、この子という存在が私と旦那様を繋げて切らせない。
「この子が…」
この子が、宿ってしまったせいで。
そこではっと我に返った。
「…ぁ、違……」
私は今、何を考えたの?
今、この子に全ての罪を擦り付けようとした。
この子には何も関係ないのに。私が辛くて、悲しくて、苦しいことが、どうしてこの子の罪になるの。
ただ私と旦那様に呼ばれたから降りてきただけなのに。
体を折り曲げ、腹部に腕を回すようにして話しかける。ごめんなさい、と何度も。耳なんてまだ聞こえているわけがないのに。
ツェツィーリエに妊娠を指摘された時は衝撃で、はっきり思い出すことが出来ないくらい頭が真っ白になっていたし、お医者様に事実だと言われた時も、あまりに動揺するがあまり考えられていなかった。
私の体は、新しい命を宿したのだと。
◇◇◇
「…リヴェーラ、入ってもいいかしら」
「えぇ」
返事をすると、ツェツィーリエが遠慮がちに入ってくる。昨夜は眠れなかったのだろう、目の下に隈が見える。
私のせいで悩ませてしまったのだと思うと、胸が痛む。
「…食べるものを持ってきたの。朝から食べていないでしょう?」
私のつわりを気遣ってくれたのだろう、トレーの上にあるのは果物だった。それまで窓の外を見ていた顔を戻し、ツェツィーリエにほほ笑みかける。
「ありがとう。ごめんなさい、色々と、気を使わせてしまって」
「…いいのよ」
私の吹っ切れたような顔を見て驚いたのか、少しその場で立ちつくしたあと、トレーを持ってベッドに歩み寄ってきた。
手が汚れないようにカットされている果物を口に運ぶ。水分すらもろくにとっていなかった乾いた口内に、弾けた実から溢れ出る果汁が広がっていく。
「リトレルは?」
「…自分の部屋に籠り切りよ。何をしているかは分からないけど…」
「そう」
暗くなってきたわね、と言って電気をつけてくれる。本来ならもう帰っている時間なのに、私のために残っていてくれたのだろう。
「ツェツィーリエ、私のために、ありがとう。でももうそろそろ帰らないと旦那さんが心配するんじゃないかしら」
「そのことなら心配しないで。いつも迎えに来てくれているの。少しくらい待たせておいても怒らないから」
ツェツィーリエが私の乱れた髪を手ぐしで整えてくれている間に私は果物を食べ終え、それからベッドを降りた。
「え、リヴェーラ。まだ寝てていいのよ。ハウス内に泊まることもできるから…」
「ううん、帰るわ。マーサさんも心配してるだろうし、リトレルとも話をしなくては」
自分で思っていたよりもしっかりと立てて安心した。私の持つ奇病が旦那様に関する動揺が引き金になると分かっていたから、今回のことで誘発されてしまうかもと思っていたけれど、その心配は必要なかったみたいだ。
「…リヴェーラ、昨日はごめんなさい」
ツェツィーリエと一緒に部屋を出た時、唐突に謝られた。ツェツィーリエに謝られるようなことは何もされていないし、むしろ謝るのは私の方なので、思わずえ?と不意をつかれた声をこぼす。
「…あなたは泣かずにしっかりしていたのに、私、一人だけあんなに騒いでしまって…。余計不安にさせたかもしれないと思ったの」
言いながら、サファイア色の瞳にみるみるうちに透明の水の膜が張られていく。堰を切ったように今まで堪えていたのであろう涙が溢れ出してくる。
それを見て慌ててツェツィーリエの肩に手を置いた。
「謝らないで。大丈夫よ。あの時私は受け止められていたのではなくて、ただ呆然としてただけなのよ。あなたが励ましてくれて、とても嬉しかったわ」
「…でも」
それに、と言いながらツェツィーリエの体に腕を回す。ツェツィーリエに抱きしめられたことは今まで何回もあったけれど、自分からは一度もなかったわね、と思い出しながら、なんの香りもしないツェツィーリエの首筋に顔を埋める。
「ツェツィーリエのせいで不安になるなんて有り得ないわ。私はいつも、ツェツィーリエのおかげで前を向けているんだから」
そう言うと、ツェツィーリエはまだ泣きながらも、私に抱きついてきた。
「わ、私、ただの平民だから、あなたに何もしてあげられないけど…っ。でも、妊婦さんの知識なら、何年か前にお産のお手伝いした時に叩き込まれてるから少しくらいはあるし、絶対、何があってもリヴェーラの味方だから…っ」
「えぇ。ありがとう」
ツェツィーリエの嗚咽を聞いているとなんだか私まで泣きそうになってきたので、そっと身を離した。
まだぐずぐずと泣いてしまっているけれど、私の手を引いて行きましょ、と言いながら歩き始める。
もう帰っていいと言っているのに、最後まで私に付き合ってくれるのだろう。
「ありがとう、ツェツィーリエ」
「もう分かったわよ〜」
「違うの、……っ全然、伝えたりな…」
「も〜リヴェーラまで泣きだしたら収拾つかなくなるでしょぉお…」
もうすっかり暗くなったハウスの廊下に、私とツェツィーリエ、二人分の泣き声が響く。もう誰もいないだろうしいいや、と開き直ったのか、ツェツィーリエが堂々と泣き始めてしまう。
それでも足を止めずに、私をリトレルの元まで送り届けようとしてくれているのが可愛らしくて、嬉しくて、私もさらに泣いてしまうのだった。




