不穏な足音
「どうしたの!?」
「ツェツィー、リヴェーラが……!」
ハウス内に入ってすぐ、騒ぎを聞き付けたツェツィーリエの声が聞こえた。酷く慌てていることしか分からず、酷い吐き気で顔もあげられない。
頭痛もする気がするし、発作とは何か違う気がする。額にツェツィーリエのひんやりとした手が乗った。
「…気持ち悪いのね?リトレル、リヴェーラをこっちに」
「分かった」
一室に連れていかれ、ツェツィーリエがリトレルを追い出した所までは覚えている。その後はツェツィーリエに解放されながら、胃の中身を全て出したのではないかと思うほどひとしきり吐いた。
落ち着いた頃に水を受け取り、それで口内をゆすいだ。
まだ多少の気持ち悪さは残っているが、ツェツィーリエが手首にふってくれた柑橘系の香りがする香水のおかげで、だいぶすっきりとしている。
「……ありがとう、ツェツィーリエ」
「いいえ〜、リトレルの腕の中で吐いてしまう前に見つけられてよかったわ」
本当にその通りだ。あれほどの吐き気がしている最中に抱き抱えられて、あれだけ揺さぶられれば、出てくるものも出てきてしまう。
そうは言っても、私の異変にすぐに気づいてあの場から離してくれたリトレルには感謝しかない。
コンコンコン、と遠慮がちにノックされ、扉の向こうでリトレルの声が聞こえた。
「ツェツィー、リヴェーラの具合はどう?」
「ありがとう、もう大丈夫よ」
ツェツィーの代わりに返事をすると、入ってもいいかと聞かれたため許可する。
何故か恐る恐る顔をのぞかせたリトレルに笑いかけると、今度はほっとしたようにその場にしゃがみ込んだ。
「あ〜〜良かった、何があったのかと…。本当に悪い。体調悪いの気づいていなかった、俺のせいだ」
「違うわ、朝まではいつもと変わらなくて…本当よ」
「とりあえずリトレルも座ったら?リヴェーラのためにまだお茶は出せないけれど」
ツェツィーリエに従ってリトレルが私の向かいのソファに座る。
「さてと……まずはお医者様を呼ばなくてはね…」
私が自由にふりかけられるように、あの柑橘系の香水を私の目の前ローテーブルに置いたあと、ツェツィーリエが神妙な面持ちで言った。
それにリトレルが何度も頷きながら賛同する。
「そうだな。やっぱり一度見てもらおう、リヴェーラ。このところ様子がおかしい」
リトレルの言う通り、頭痛がしたり、酷く眠かったり、食欲がなかったりと、不調が続いていた。
慣れない環境に来た疲れが出たのではないかとマーサさんは言っていたので、気にとめていなかったが。
そもそも長年味わったあの発作に比べれば、まったくましなもので。
「私なら大丈夫よ。今はなぜだか匂いにかなり敏感になってるみたいで。あんなに強く臭うものなんてそうないし…」
「それでも心配だ。診てもらって、何事もなければそれでいいんだから」
「でも…」
私とリトレルが言い争っている間、ツェツィーリエは一言も発さずに俯いていた。その顔からはどんな感情も読み取れず、私は心配してくれているのかと思いツェツィーリエに向き直る。
「迷惑をかけてごめんなさいツェツィーリエ、私ならだいじょう」
「リヴェーラ」
突然名前を呼ばれ、その声の含む深刻さに息を飲む。普段基本的にほわほわしている彼女からは想像できないほど真剣な顔をしていた。その目は私ではなくある一点をまるで睨みつけているようで、それでいてどこか悲しげだった。
一ヶ月共に過ごしていて、ツェツィーリエのこんな表情は見た事がない。それはリトレルも同じなようで、目を丸くして彼女を見つめていた。
部屋に張り詰めた雰囲気が流れ、知らずのうちに息を止める。
ツェツィーリエは中々その先を言い出さず、口元は何度も開けては閉じを繰り返していた。
「リヴェーラ、あなた…」
ようやくツェツィーリエが口を開いた時、その声は微かに震えていた。
「…最後に、月のものが来たのはいつ……?」
「………え」
反応したのは私ではなくリトレルだった。私は一言も発することが出来ずに、ただ唖然とする。
ぶわっと全身の血流が逆流したかのような衝撃が走った。冷や汗がたらりと背中を伝う。
「な、何を言っているの…?さ、最後は」
最後は?最後はいつだった?
途端に体が硬直する。最後の月のもの、そう聞かれた時に咄嗟に思考が駆け巡った先は、三ヶ月前。レラントに来て今がちょうど一ヶ月。その前、実家にいた期間はおおよそ三週間。その四日前、…旦那様と最後の夜を過ごして、その前の月のものが、最後。
「………」
絶句した私が、答えだったようだ。ツェツィーリエが私の肩を掴んだ。
「まだ分からないわっ…!もしかしたら慣れない環境で月経不順になっていたかもしれないし、本当に、ただ、症状が酷似しているだけかもしれないし。………っ」
ツェツィーリエの瞳が震えていた。映る自分の顔が、酷く強ばっていて、私はさっと目を逸らす。
そんなわけない。ツェツィーの言う通り、これは月経不順。邸宅にいた時だってよくあったこと。そう、その最後の月のものだって、予定よりもずっと早く来ていたから。
きっと今回だってそうだろうと、自分ではあまり気にしていなかった。でも、こんな症状が自分の身に起きたのは今回が初めてで、今思い返してみれば、異様な程に眠気が襲ってくるのも、続く頭痛も、全て、妊娠の初期症状と同じだった。
「……っ、…」
きっと今、自分の顔は蒼白になっていることだろう。旦那様が私の月経を把握して、排卵日を避けていたのは知っていた。だから、まさか、妊娠するだなんて、想像もしたことがなかったのだ。あの月経が早まったことで、旦那様の把握している排卵日の日にちが狂い、ちょうど、当たってしまっていたとしたら。
「…………う、そ」
かたかたと手が震える。あまりの衝撃に涙すら出てこない。ただ、この事実を受け止めきれずに、それが震えとなって私を襲う。
「……まさか、そんなわけないよな。そんなわけない、大丈夫だリヴェーラ」
それまで硬直していたリトレルがそう言った。その目は視点が定まっておらず、声も震えている。動揺が手に取るように分かった。そんなわけない、自分で自分に言い聞かせているように見える。
「ツェツィーリエ、私、どうしたら………」
ツェツィーリエが私を抱きしめた。
恐らくツェツィーリエが元々使っていたのであろう花の香りが鼻につき、それが再び軽い吐き気を促す。きっと私に気遣って香水を落としてくれたのだろう、そこまで気分が悪くなる濃さではなかったけれど、その体に襲いかかる不快さが、余計に妊娠の事実を突きつけてくるようだった。
「大丈夫よ、リヴェーラ。私が余計なことを言ってしまったわ。まずはお医者様に診て頂きましょう」
「……っくそ、なんでこんな…」
リトレルが自分の髪に両手を入れ込み、ぐしゃりと髪を握りつぶす。ツェツィーリエが私を抱きしめながらリトレルを見やった。
「やめてよリトレル。……まだ、決まったことじゃないし、そんな反応は、間違ってる」
「なんで、今なんだ。なんで…」
リトレルは酷く動揺していた。信じられないというように首を振って、叫び出したいのをこらえるように口を押えている。
「だからやめて!もしそうだったとしてもこれは、悲しんでいいことじゃない!」
「意味がわからない」
「宿った赤子に罪は無いのよ!!」
「やめて…二人とも……」
私の声で、言い争ううちに立ち上がっていたリトレルは再度ソファに座り、ツェツィーリエは私から身体を離した。ツェツィーリエの腕の中から顔を出した私の瞳には、涙が浮かんでいた。
それを見たツェツィーリエが痛々しげに眉をひそめる。
「……とりあえず、確信ではないわ。こんな話をしていたって、私たちの勘違いだった可能性なんて容易に想像できる。それに、私とリトレルが言い争ったってなんの意味もないわ」
ごめんなさいねリヴェーラ、大きな声を出して。と、そう言ってツェツィーリエの細い指が私の目尻を辿り、涙を拭う。その温かさに更に涙が溢れ、ワンピースにいくつも染みを作っていった。
そっとお腹に手を添わせる。まだ何も感じない。ここに命が宿っているだなんて想像もつかない。でももし、本当に、いるのだとしたら。
私と旦那様の、子供が。




