別れと喧騒
「そういえば僕、今日国に帰るから」
「えっ!?」
出勤してすぐのベンガルのその言葉に、私は仰天した。
「もともと滞在期間はだいぶ短い予定だったんだ。これでもいた方だよ。早めに戻らないと王子様がぐずり始めるからね」
「王子様が?」
「レラント王太子様の教育係なんだよね」
驚いて言葉を失っている私の前で、言ってなかったけど、とのんきにペンを回している。
ご要人所ではなく、王族の側近。とんでもない身分ではないか。そういえばすぐ横にかけているジャケットは、レラント王妃からのプレゼントと言っていたなと思い出す。
王太子の教育係だなんて重要な任務を背負っている方がなぜこんなに自由に他国に移動出来ているのか、とまず初めに思ったけれど、直ぐに思い直す。
「まあ、僕はいつも勝手に来て勝手に帰ってるからあんまり気にしないでね」
割と初めから、全面的に自由な人だったと。
「そう……。でも、寂しくなるわ」
「そう言われると嬉しくなるな。リヴェーラ、僕と一緒にレラントに来る?」
「冗談うまいわね」
笑っていると、じっとベンガルに見つめられた。その目が思っていたより真剣で、結構本気、という言葉が真実なのだと気づいた。
書類をまとめていた手を止めて、見つめ返す。
「行かないでおくわ。まだここで学びたいから」
「そう。残念だな」
少し寂しそうな横顔を見て申し訳ない気持ちになる。
「そういえば、リトレルはまだ起きてこないの?」
「あ…部屋にはいなかったから、もう出勤したのだと思ってたわ。案の定荷物は置いてあったけど、本人はどこにも見当たらなくて」
「ふーん。てことは、朝執務室に居たのはやっぱりリトレルだったのか」
え?と聞き返すと、ベンガルは首を傾げた。
「ほら、僕執務室の隣の部屋を借りてるだろう?日が登りきる前、誰かが執務室に居た気配がした」
「そ、うなの…」
でも、だったらベンガルに声をかけるんじゃないかしら。と不穏な予感に顔を曇らせたのがばれて、ベンガルが苦笑した。
「心配性だね、大丈夫だよ。まあ、わざとこれを落として物音を聞かせたのに声をかけられなかったから一瞬疑ったけど、荒っぽい音はしなかったし、ドアの開閉音とかも気にしてる素振りなかったから」
侵入者であれば、隣室に人がいることに気が付いていながら物音に注意を払わないことはないだろう、ということらしい。
寝起きの状態でそこまで考えていたなんて、と感心するしかない。
「二人組だったっぽいから、そのまま仕事へ行ったんだろうな」
「…そんな、今日帰るなら挨拶しておかないといけないのに」
呼んでくるわ、と部屋を出ようとすると、止められた。
「いいよ、わざわざ。リトレルには昨日の夜言ってあるし、それに、帰る日はいつも喧嘩になるからね」
「どうして?」
「…さあ?昔からそうなんだ」
濁されたけれど、懐かしむような、寂しがっているような声で気が付いた。
アルカディル帝国とレラント王国。二人の間の距離は船で丸々一週間分。そう気軽に会える距離では無いし、親友同士にとっては長すぎる距離だ。
二人は顔には出さない代わりに、別れる寂しさを会話で埋めているのだ。喧嘩という名目で、別れる間際までしゃべり続けていたいのだろう。
「あ、ならベンガル、私ではなくリトレルを勧誘したらいいじゃない。そうしたら二人一緒に」
「それが何度も断られているんだよね…」
リトレルも離れ難く思っているはずなのになぜ、と口をとがらせる。ベンガルは軽く笑った後、座っていたローソファから身を乗り出した。
「で、リヴェーラはリトレルのことをどう思っているの?」
「え?」
唐突すぎて、一瞬手が止まってしまった。
「どうって…どういう意味?」
「…本当に気づいてないの?」
ベンガルは揶揄うように目を細めて、髪をかきあげた。リトレルよりも短い髪は癖でうねっていて、それが目にかかって不思議な雰囲気を醸し出していた。ベンガルの異国の顔立ちもあってそう感じるのかもしれない。
彼の観察眼からは逃れられない。そう察して、必死に考えた。
リトレルは私を救い出してくれた人で、私を大切にしてくれるとても優しい人。感謝してもしきれない、私の恩人。
そう答えようかとも思ったが、誠実ではない気がした。私が気づいていると、ベンガルも気づいている。というより、二人は親友なのだから私よりもリトレルの気持ちには詳しいはずだ。
それを踏まえて、私の気持ちが聞きたいと。
「こ、こんなところで急に話せないわ」
「帰る前に聞きたいなあ、心残りだなあ」
ねだるように首を傾げられ、揶揄われていると察する。
そもそも、まだ自分でも整理できていないことを、どう伝えろと言うのだろう。そう思わなくもないが、結局根負けした。
「…リトレルは、私が伯爵夫人として過ごしている間も何回か訪ねてきてくれて、毎回楽しい話を持ってきてくれるの。とてもよく懐いてくれている弟で…」
義弟なのだ。リトレルは、本来は。
「でも、この期に及んでリトレルのことを弟としか見ることなんてできない。けど、まだ自分の中で整理も出来ていないの。けど、ここに来てからリトレルのことを、弟とは思わなくなったわ」
「それは、どうして?」
「だってとっても頼れる男の人だもの。私の所へ来てくれるリトレルは、私を喜ばせようとしてる可愛い子。そうね、…男性だとも意識していなかったのかも」
リトレルが伯爵家へ帰ってきている時には、夜遅くまで部屋に居させて旅の話を聞き出していたことを思い出して笑う。
「なんていうふうにしか思ってなかったのに、いざここでのリトレルの姿を見たら、そんな考え方はどこかに消えてしまったわ」
ハウスで年に似合わず難しい仕事ばかりこなして、仲間が沢山できるほど素晴らしい人柄。誰もがリトレルを頼って、リトレルを慕って、彼の周りにはいつも沢山の人が集まる。
ハウスでのリトレルは、人一倍輝いていた。
「とっても格好よくて、頼もしくて頼れる男の人、だわ」
頭に浮かんだその言葉を特に何も考えず口にする。ベンガルが驚いたように目を見開いたその時、始業の鐘が鳴った。港から今日一隻目の船が出発する合図だ。
「…そっか。聞けて良かったよ。僕としては、親友の二年が報われて安心できた」
「二年?」
なんでもない、とベンガルは首を振った。おもむろに立ち上がると、昨夜のうちにまとめていたのだろう荷物を肩に担いだ。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「え!?もう行ってしまうの?まだリトレルが…」
「いいよ。またいつでも会いに来られるし。それに、僕がこれ以上ここに居てもお邪魔虫になるだろうしね」
片目を閉じておどけた表情を見せる。きょとんとして、すぐにその意味が分かり頬が熱くなった。
まだそんな関係じゃないのに気が早い!と言いかけて、堪える。そんなことよりも今はリトレルを連れてこなくては。
「港まで送るわ。どこかでリトレルに会えるかも」
「そうだね。あいつのリヴェーラセンサーは精度高いから」
もう!と拳を振り上げて見せると、楽し気に笑っていた。
多くの人で賑わい始めたハウスのカウンター付近を通る時、頬を赤くしたツェツィーリエと出くわした。
ベンガルが挨拶のために近寄り、二言三言話していたが、突然腹を抱えて笑い出す。
手招きで呼ばれたので歩み寄ると、ツェツィーリエがさらに頬を膨らませてしまっていた。
「あらあら。どうしたの?」
「旦那と喧嘩したの。昨日、仕事が残ったから遅くなっちゃったんだけど、帰るなりどこ行ってたんだって。どこ行ってたって何!?仕事よ!それで私、責められてる気分になってついベンガルの名前を出しちゃって」
夫君はツェツィーリエを心配してのことだったのだろうが、なぜベンガルの名前を出すことがいけないのだろう。
察したベンガルが説明してくれた。ツェツィーリエの夫は、昔ベンガルの主の奥方に片思いをしていたことがあったのだそうだ。
「…てことは、お、王妃殿下?」
「彼にとって、レラントの男は憎き仇のようなものだよ」
「私だって、あんなこと言いたくなかったわ」
それがあまりにも可愛らしくて思わず微笑むと、さらにむくれてしまった。ベンガルに慌てて出港することを話して気を紛らわせていた。
「懐かしいなぁ。そういえば、ベンガルとリヴェーラが喧嘩したこともあったよね」
ツェツィーリエと別れてすぐ、ベンガルが言った。
「喧嘩というか…」
「リトレルがあまりにも君の行動を制限しようとするから、リヴェーラが怒った」
少し前、私がリトレルの目の届かない所で仕事をしたことがあった。リトレルは心配から取り乱して、それ以降私の行動を制限するようになった。
リトレルは私の恩人で、心配してくれているだけなのだと最初は思っていたけれど、段々と制限されることよりも、リトレルが苦しんでいる姿を見ていられなくなり、言ってしまったのだ。
私は、リトレルとこんな関係は望んでいない、と。
「今何を言われたのか分からないって顔をして、固まってたなぁ。その後、同じことをしてしまったって…」
「…いいえ。私が、同じ状況を作り上げてしまっていたの」
本当は素敵な人であるはずの人が、どんどん間違った方向に進んでいってしまう。その人はただ私を心配してくれていただけなのに、私のことを大切に思うがあまり、縛り付けるような発言をしてしまう。
それを私が止められなかったら、私がちゃんと主張できなかったら、誰も止めてくれなかったら。誰も幸せにならない末路を迎えてしまう。
これは、旦那様も同じだったのではないだろうか。
あの時、不意にそんな考えが思い浮かんだ。
今まで旦那様の行動はよく分からなかった。なぜ怒られるのか、なぜ遠ざけられるのか、なぜ冷たくされるのか。分からないものは全て、私が面倒くさい女だからだと理由をつけていたけれど、そうではなくて。
もし、旦那様も私を大切に思うがあまり、道を間違えてしまっていたのだとしたら。
私が何も訴えないから。私がずっと向き合うことを恐れていたから、旦那様の言葉は少しずつ、少しずつ振り積もって、取り返しのつかないことになってしまっていたのだとしたら。
「誰かの助けを借りなければ私は生きられない。それをずっと恥じて生きてきたけれど、誰かに頼ってもらえる努力を怠っていたのも事実だった。人間は誰しも一人では生きられないのだから、自分を恥じないために、誰かのために、リトレルの力になれるように、彼が頼れる人間にならなければならないのだと、そう気がついたの」
「…成長したね」
ベンガルの手が頭に乗る。いつの間にか港に到着していた。リトレルの姿は見えない。
「…ありがとう。ベンガル、あなたにどれだけ助けられたことか」
「僕は、友達にほんの少しの助言と、肩入れをしただけだよ」
と言って首をすくめた。肩入れ?と笑ったその時、ベンガルがふっと目尻を緩めた。
「なんだ、来たのか」
ベンガルの視線の先を辿ると、リトレルが一人で歩いてくるのが見えた。
リトレル!と呼んで手を振ると、一瞬、強ばった顔をこちらへ向けた。私が気づいたのだから、ベンガルもそうだろう。何かあったのかな、と呟きが聞こえた。
「おはよう。何してるんだ?こんな所で」
「ベンガルが今日帰ってしまうと言うの。お見送りに」
「はあ!?お前……いつも、勝手に来て勝手に帰るのやめろよ…」
「なんだ、寂しいんだ」
リトレルが眉を上げて目を細めた。かちん、ときている時の顔だ。
別れの日には喧嘩をすると言っていたけれど、まさか本当なのか、と両者の顔を見比べる。
「幼さは変わらないみたいだな」
「どっちが。喧嘩でもしてきたのか?殺気立ってるぞ」
「おーおー、お前には話があるんだ顔貸せ」
リトレルがベンガルの肩を抱え込む。険悪な雰囲気にたじろいだけれど、二人の口元には笑顔が浮かんでいる。
いつものことなのか、と胸を撫で下ろす私に、ベンガルが手を振った。
「じゃあね!リヴェーラ。また直ぐに会おう!」
「えぇ!気をつけて!」
親友たちの別れを邪魔することなんてできない。大きく手を振ると、ベンガルが底抜けに明るい笑顔を見せた。
乗船する予定の船の方へ歩いていく二人を見送って、一足先に戻ろうと踵を返した時、とん、と肩がぶつかった。
「あ、申し訳ありませ」
反射的に謝ろうとして振り返ると、小麦色の肌の男性が大きな木箱を運んでいた。帝国語は伝わらないらしい。ぺこり、と軽めに頭を下げただけで気にしていないようだった。
荷物を運びたいようだが、全て船から一度降ろすつもりらしく、通路に遠慮なく木箱を積み重ねている。
「お客様!」
男性がくるりと振り返る。何語を話すのか分からないので、帝国語で話しかけてしまったが、ここに荷物を置かないで欲しい、と帝国語で話しても伝わるわけが無い。
何か話してくれれば、と思っていると、同じ船から帝国人らしき男性がもう一人降りてきた。
「お客様。こちらのお荷物はお客様の物でお間違いありませんか」
「……でしたら何か?」
明らかに嫌そうな顔をして睨みつけられる。商品に対して神経質になるのは、貴金属を運ぶ業者など、高価な荷物を運ぶ人達によくある事だ。
特に気にせず、ここに荷物は置けない旨を伝えると、男性の様子が豹変した。
「ああ!?」
「申し訳ございません。規則ですので」
「おい!!この荷物はこの国のお偉いさんから依頼されて運んでんだ、慎重に降ろして何が悪い!?」
大声で詰め寄られ、周囲の人々が何事かと視線を集めた。
「職員をお呼びします。お運びしましょうか」
「勝手なことをするんじゃねぇ!」
不思議なことに、思考は冷静だった。今までの私がこれに耐えられるとは到底思えないけれど、何故か大丈夫なのだ。
―自分をしっかり持っているというのは、自分を大切にできるということだよ。
前にベンガルに言われたことを思い出す。自分を大切にできているから、この男性の言葉が何も響かないのだろうか。
恐ろしいとか、どうしようとか、そんなことよりも、これ程神経質になる荷物の中身は何なのだろうと気にしている。
近くに置かれた木箱は厳重に蓋をされているが、隙間から植物の葉のようなものがはみ出していた。その葉には白い粘液のようなものが付着しており、目をこらしていると、私の前に誰かが立ち塞がった。
「ここで騒ぎを起こされて、困るのはお客様ですよ」
「ふざけたことを……!!」
「申し遅れましたが、私はハウス外交官職員です。問題があれば、荷物を輸入する権利を剥奪させて頂きますが」
男性の顔色が変わる。リトレルが後ろ手を動かした。どうやら自分が気を引いている間に、この中身を検閲してくれと、そういうことらしい。
「きゃっ…!」
近くを通り掛かった、大きな荷物を抱えたその船の船員にわざとぶつかり尻もちを搗く。もちろん、転んだ先にあるのは例の箱。手元を自らの体で隠しながら、はみ出している葉を引き抜き、ポケットに突っ込む。
「何をしている!」
当然、烈火のごとく男性が怒り始めるけれど、それをどうにかするのはリトレルだ。
私と船長の間に体を入れ込むようにしながら、両手を上げてなだめている。
「…ごめんなさい、辺りがよく見えていなくって…」
ぶつかった船員にも謝り、立ち上がろうとした時、隣にどんっと大きな木箱がもう一つ置かれた。そちらの中身は隠したいもののカモフラージュ用なのか、わざと私たちに見せつけるかのように蓋をその場で開けてみせる。
中身は南国の色とりどりの花々で、すぐさま辺りにきつい香りが立ち込めた。
リトレルでさえも軽く顔をしかめた時、私の体に異変が起こった。
「……!!うっ……」
突如、胃がひっくり返されるような猛烈な吐き気に襲われ、私はばっと口元を押さえる。油断すればすぐに胃の内容物が出てきそうな勢いだ。
鼻も口も押さえているというのに、鼻腔から花の匂いが消えない。その僅かな香りにさえ吐き気を催し、私はたまらず立ち上がろうとした姿勢からもう一度地面に倒れ込む。
「……っリヴェーラ!?」
すぐにリトレルが駆け寄り、私の傍らに跪いた。大丈夫か、と背中をさすられても吐き気は引かない。今口を開けたら、確実に吐いてしまう。そう確信した私は、涙目でリトレルを見上げ、服を引っ張った。
リトレルは目を丸くしたがすぐに気づいたようで、私の脇の下に腕を回した。
「つかまってて」
腕に力がこもり、抱き上げられる。自分の体に何が起こっているのか分からない恐怖で、リトレルの体温に触れようと首筋に顔を埋める。震える手で服を握りしめると、後頭部から首筋にかけた辺りを撫でてくれた。
「大丈夫だから、リヴェーラ」
浅い呼吸を繰り返しながら、リトレルにしがみつくことしか出来なかった。




