ルーランチェにて
イザベルは敬虔なる神殿の信者だった。そのため、両親が不慮の事故で亡くなり、身寄りがなくなった所を教会に引き取られるのは自然の流れであった。
洗濯物を干し終わって、編みかごを抱える。イザベルは同年代と比べて背が低かったので、シーツを何枚も入れて持ち運ぶ大きな籠は、抱えると視界を遮った。
ルーランチェは活気のある街で、イザベルは両親と育ったこの街が、人々が大好きだった。
春になると花々が咲き、海風で木々が歌い、耳慣れない外国語、船の来訪を告げる鐘の音。
異国との橋として機能するこの街は、常に音で溢れていた。騒がしいこの空気が、両親を亡くしたあとの悲しみも埋めてくれるようだった。
「イザベル」
「はぁい」
間延びした返事をしてから、しまった、と思った。今自分を呼んだのは優しいシスターではなく、怖い方のシスターだ。
真っ黒な髪をお団子にまとめている方のシスターは、いつも不機嫌そうな顔をしていて、教会で育てられているイザベルのような子供たちのことをよく思っていない。
イザベルも、家畜の世話を押し付けられたり、買い出しに一人で行かされたりと何度も意地悪をされてきていた。
今まで名前なんて呼ばれたことがなかったのに、と思いながら傍へ行くと、案の定頬を軽く叩かれた。
「神聖なる教会でだらしのない返事をしない!」
「…申し訳ありません、シスター」
ならその神聖なる場所で暴力を振るうのはどうなんだ、と思っていても口には出さない。
「これをハウスの人間に届けてきなさい」
そう言って、意地悪シスターは丸まった紙をイザベルへ投げた。金糸のリボンで結ばれているそれは、なんだか高級そうな匂いがした。
「…どなたでもよろしいのですか?」
「あんな場所の人間は誰だって同じです。誰でもいいからさっさと行きなさい」
意地悪シスターは、異国人を嫌う。だから貿易港としてその管理をしたり、使節団との商談に応じるアンバーミッドハウスの職員を、見下しているふしがある。
(…自分だって髪の毛、まっくろなくせに)
「分かりました!行ってまいります」
イザベルはにこっと笑ってみせた。
まだ十にも満たない子供たちが多い中で、イザベルは十二で二番目に年長だった。そのうえ大人たちの空気もよくよめたので、こうして時折外への雑用を頼まれる。
一番年上のエリアスは嫌がるけれど、イザベルはこの役割がとても好きだった。街を歩くのは大好きだし、ハウスの人々はみんなイザベルに優しいのだ。
「イザベル、いらっしゃい」
ハウスの受付に行くと、ミルクティ色の髪を三つ編みに編んだ女性が振り向いた。柔らかい光を灯した淡い色の瞳がイザベルを写す。
「こんにちは!リヴェーラさん!今日は受付にいるのね」
「ええ、ここの仕事も覚えなくちゃいけないから。でも嬉しいわ、一番にイザベルに挨拶できたんだもの」
リヴェーラがふふ、と笑うとイザベルは嬉しくなって、思わずカウンターに手を着いて飛び跳ねた。
リヴェーラは最近ハウスの職員になって、イザベルが訪ねてくるとよく対応してくれる。
ハウスの中でもとびきり優しくて美人なリヴェーラは、イザベルが来ると必ず手を繋いで、手紙を渡す場所へ連れて行ってくれるのだ。
「今日も郵便のところまでいく?」
「ううん、今日は誰でもいいからハウスの人に渡せって」
手紙を出すと、リヴェーラは微笑んでそれを受け取った。
「あら、残念だわ。今日はイザベルとデートできないのね」
「えーっ!お手紙なくても一緒にお散歩しようよ!」
教会では下の子達の面倒を見るイザベルも、リヴェーラの前では子供っぽく振舞ってしまう。
リヴェーラが甘やかしてくれると知っているからだ。どんなに幼稚なお願いをしても、リヴェーラは誰かの世話を焼くのが好きらしく、微笑んで受け入れてくれる。
身寄りがなくなって以来、こんなふうに誰かに頼ったことの無いイザベルにとって、リヴェーラは年の離れた姉のように思えた。
「そうしてあげたいんだけど、今日はこの後お仕事があるの。また今度、一緒に歩きましょう」
申し訳なさそうに眉尻を下げるリヴェーラを、カウンターにいる男性がちらちらと見ていた。
イザベルが声をかける前から、リヴェーラのことを意識したような素振りをしていた男だ。
きっかけさえあればリヴェーラとの会話の糸口にしてくるだろう。助け舟を出すという体で話しかける口実にされるのは癪だった。
「そっかぁ。それなら仕方ないよね。お仕事頑張ってね!」
手を振って行こうとすると、リヴェーラがイザベルを呼び止めた。カウンターから出てきて、イザベルの前でしゃがみ込む。
「偉い子にお菓子をあげるわ。みんなには内緒ね」
「…いいの?」
「ええ。その代わり、あまり聞き分けのいい子にならないでね」
ぽかんとしたイザベルの頭を、リヴェーラはぽんぽんと撫でてくれた。なのに、さっき意地悪シスターに叩かれた頬が疼いた。
全部バレているのか、とイザベルは赤くなった。
「…また来るね」
「ええ」
今度こそ手を振ってお別れをすると、イザベルは小走りで協会へ戻った。
なんだか今日は変な一日だな、とは思っていた。教会のシスターの人数が少ないのだ。しかも、意地悪なシスターと、感じの悪い神官しか残っていない。
子供たちはいつも通りはしゃぎながら昼食を食べていたけれど、イザベルは何となくパンを残した。
「食べないのか?」
エリアスが不思議そうな顔をして話しかけてきた。一つ上の十四歳だけど、如何せん食べ方が汚い。卓の上にパンくずをまき散らしている。
「…いる?食欲ないの」
「今食べとかないと後で倒れるぞ。今日はあの日なんだから」
エリアスに言われて、今日が月に一度のあの日だと思い出す。
「…お腹減ったらリヴェーラさんから貰ったお菓子があるからいいの」
「はあ?いーなー!リヴェーラさんからお菓子なんて貰ったのかよ」
慌ててエリアスの口を塞ぐ。他の子達もいるのにそんな大きな声で言ったら、みんな羨ましがってしまうに決まっているじゃないか。
「いいでしょ別に。おつかい、いつも私が行ってるんだから」
そう言いながら、パンをエリアスの服のポケットに突っ込んでやると大人しくなった。全く、男子というのは精神が幼くて困る。
けど、こればっかりはエリアスの言う通りだったと、夜になってからイザベルは後悔した。
重たい木箱を地面において、荒い息を着くと、エリアスが心配そうに駆け寄ってきた。
「おい、大丈夫かよ?」
「いい、大丈夫だから」
早く運ばないと意地悪シスターに叩かれる。でもイザベルの空腹は極限に達していて、エリアスを追い払ってから木箱を持ち直して塀の影に隠れた。
隠し持っていたリヴェーラに貰ったお菓子を取りだして、封を開ける。ナッツが入ったパウンドケーキ。
頬張るとたった一口でそれまでの空腹が嘘のように消えていった。
口をもごもごさせながら塀の向こうを除くと、まだまだ馬車から何十個もの木箱が下ろされているのが見えた。
うんざりしてため息を吐く。その木箱が届くようになったのは、もう一年も前からだ。中は割れ物らしく、持ち上げるとガチャガチャと音が鳴る。
月に一度、これがたくさん乗った馬車が到着すると、イザベルとエリアス、そして何人かの見習いシスターが中へ運び入れるように言いつけられるのだ。
命令するのは決まって意地悪シスターで、優しいシスターは見て見ぬふりをしているのだと思う。
半年前まではエリアスだけが呼ばれていたのだが、イザベルが十二になると、お前もできるだろうと、やらされるようになった。
何往復もしなくちゃならないし、夜は眠れないしで、イザベルはこの日が憂鬱だった。
木箱はとても重くて、男子のエリアスやもう歳の大きいシスターはともかく、イザベルの細腕はいつも悲鳴をあげる。
「あっ」
その時、パウンドケーキに入ったナッツが一粒転がり落ちた。流石に地面に落ちたそれをわざわざ拾う気にはならなくて、ころころ転がっていくそれを眺めていると、視界に人の足が飛び込んできた。
ばっくんと心臓が鳴る。恐る恐る見上げると、変な顔をしたエリアスが立っていた。
「なんだ、あんたか…」
「なんだよその言い方!!」
叫んだはいいが、ポケットに手を入れてもじもじとしている。何がしたいんだ、と思っていると、ぐいっと拳を向けられた。
よく見るとその手には昼間イザベルが渡したパンが握られていた。もっとも、乾燥して皮がぱりぱりになってしまっているけれど。
「やるよ。腹、減ったんだろ?」
「ずっと食べないで持ってたの?」
「スープだけでこんなじゅうろうどー出来るわけないだろ。いいから早く食えよ。見つかったらお仕置されるぞ」
照れくさそうにしていると思ったら、これを言いたかったのか、と思うとイザベルは笑えてきた。
「ありがと。エリアス」
そのパンを受け取ろうと手を伸ばした時、ぬっと大きな影が二人を包んだ。
「おい、お前たち何をしている」
それは見たことのない大柄な男で、腰に鞭のような道具を提げていた。この街の人々とはまるで違う革の服が、月明かりで嫌な光り方をしていた。
最も異様なのは男から漂うすえたような匂いで、エリアスが咄嗟にイザベルを庇うように前に出た。
「…誰だよ、あんた」
「めんどくせぇなぁ、これだからガキは。おい、とっとと働け。日が昇る前に片付け終わらなければどんな目にあうか分かってるんだろ?」
その男の言っている意味が、エリアスにはよく分からなかったようだ。
日が昇る前に木箱が運び終わらなかったら?今までそんなことは無かったから知らないのだ。
そもそも夜中に、それもイザベル達のような身寄りのない子供や、見習いシスターばかり呼びつけて作業をさせるだなんて、やましいことに違いない。
エリアスはあまり考えたことがないのかもしれないが、教会に運び入れられるこの木箱の中身は何なのだろう。いつも、正門から届けられる食べ物や衣服と一緒に運んではいけない理由はなんなのだろう。
逆らうことの出来ないイザベルたちを使う理由はなんなのだろう。
「どんな目って、なんだよ。日が昇ってた方が見やすくていいだろ。隠さなきゃなんねぇ物だってことなのか!?」
「ちょ、エリアス」
イザベルが止めようとしたその時、エリアスの体が飛んでいった。いや、思い切り殴られたせいで勢いよく倒れ込んだのだ。
息を呑んだイザベルの前に、拳を振り下ろした男はそれを見せつけるように振るった。
「…おい、嬢ちゃんはいいよな?殴らなくてもわかるよな?賢そうな目だ。こいつと同じ目にあわなくても分かるよな?」
ぽろりと、手に持っていたパウンドケーキを落とす。目線の先ではエリアスがぐったりとして動かない。
男に踏み潰されたナッツが粉々に砕け散っているなんて、どうでもいいことばかり考えて、何が最適解か分からなくなっていた。
「……いい度胸だ」
自分を睨みつけるイザベルを前にして、男は再度拳を振り上げる。
どす黒い空に浮かぶ丸い月と、その拳とが重なった瞬間、男の首に太い腕が回った。
首を絞められた男は、イザベルを殴ることなど忘れてもがく。長いようにも、短いようにも感じた時間、男の呻き声だけが響いていた。
やがて意識を失った男が倒れ込むと、首を絞めていた人物はイザベルを見下ろした。
「大丈夫か?怪我は無いかい?」
「…おじさん、誰?」
柔和な顔つきをしたその人は、こちらもまた見たことの無い格好をしていた。さっきの男のような下品な革ではなく、つや消しが施された鎧のような革のベストを着ている。
腰には大ぶりな剣が提げられていたが、それも装飾が施されていて、恐ろしいよりも先に綺麗だと思った。
「おじさんは騎士だよ。この教会で悪いことをしている人がいるって聞いたから、やっつけに来たんだ」
「…分かりました。この人が悪い人で、あなたが正義を誓う人なら、エリアスを助けてください」
イザベルはこんな時でも、自分の口から流暢な言葉が出てくるのが信じられなかった。
自分でも頭が混乱しているのだとわかっている。でも、そんな事よりも早くエリアスを助けて欲しかった。
イザベルがエリアスの頭を抱き込むと、騎士は血相を変えてエリアスの首に手を当てた。
「こりゃ酷いな。でも、意識を失っているだけだ。軽い脳震盪だろう」
のうしんとう。イザベルは聞いたことがない言葉だった。ぐっと奥歯を噛み締める。
自分はなんでも知っている気でいた。大人の前でちゃんと話せるし、機嫌がいいのか悪いのか、イザベルがどう振る舞えば喜ぶのか、分かるから。
でも、知っているだけじゃだめなんだと初めて気がついた。イザベルがもっと早く疑問を口にして、こんな怪しいことはやめさせてと誰かに訴えていたら、エリアスが怪我をすることは無かった。
誰かに助けを求めていれば。
「どうした」
凛と、低い声が響いた。
見上げると、黒髪の、恐ろしいほど美しい顔をした男性が立っていた。
騎士と同じく剣を腰に提げていたが、騎士が頭を垂れて「ロード」と呼んだ。
「被害にあった子供を保護しました。物資の運び入れを命じられていたようです」
「…そうか。子供が」
座り込んでエリアスを抱くイザベルに、男性は目線を合わせるようにしゃがんだ。何も言わずにイザベルの頭に手を置く。
ふと、イザベルが落としたパウンドケーキに気がついたらしく、目を止めていた。数秒、そのまま静止する。
「…これは、誰の」
「伯爵様!」
男性が振り向き、立ち上がる。そのまま去っていく後ろ姿を眺めながら、イザベルはすうっと意識が遠のいていくのを感じた。
騎士の慌てた声が耳に届いていたが、頭に残った温もりが、妙に心地よいとしか考えられなかった。




