リアムの決意
皇太子に与えられた宮は、皇帝皇后陛下の住まう宮とは棟を別にしている。元々フェリクスが剣術に才を示し、幼少期に騎士団寮に近い場所がいいと駄々をこねたことが原因であるが、今では聖女やその他関係者が容易に近づくことが出来ないため重宝している。
フェリシアの調査は早かった。ほんの数日の潜入だったが、少し頬の肉が落ちただろうか。自分の焦燥が無理をさせた部分もあるだろう、そう分かっていてもリアムは昨晩の決意を改める気はなかった。
「すまない」
「謝らないでくださいませ」
フェリシアは抱えていた書類の束を荒々しく置いた。何か言おうとリアムに厳しい目を向けたが、ぐっとこらえるようにして顔を背けた。
「…ひとまず、こちらをご覧ください」
「ただの購入品目…いや、随分と画策しているなあ」
フェリクスが手に取ったのは神殿の裏帳簿だ。
表向きは神殿の維持にかかる仕入れ内容だが、処理しきれていない端数と、何かの金額を誤魔化したいかのような仕入れ値の高騰。
随分と杜撰な管理だが、これが例えば神殿内部に伝手があり、商売知識を有した頭の切れる人間が持ち出そうとしなければ、外に漏れる懸念すらなかったのだろう。神殿はそれだけ排他的だ。
神殿は何代も前の皇帝の治世から、皇室とは立場を異にしている。表立って皇室と対立はしていないが、聖女信仰に度が過ぎている神殿の意向をよく思わない皇帝も多くいたためだ。
それほどに帝国にとって聖女とは影響力が大きい。聖女がひとたび現れれば、神殿は聖女を囲い、祀り上げる。献金は例年の数百倍にも上る。
「羽振りがよくなったと言える域を超えている。実際の支出と記録の差額で何かを手に入れているな」
「…違法研究の道具です」
確信のある言い方だった。フェリクスが面白そうに眉を上げる。
「交流のあった神官を問い詰めたところ、時折夜が更けると、中身の隠された木箱を外へ運ぶように言いつけられると。なので」
「忍び込んだのかい?」
「…保管場所を調べて覗きに行っただけよ」
「…フェリシア」
フェリクスがため息を吐き、何をするかと思えば、フェリシアの両頬をつねった。
「そういう危ないことまでするなって言ったよね?」
「そっそんな派手なことはしていないわ。それに、あの中身を見ないと確信が持てなかった」
フェリクスを引きはがし、まっすぐに俺を見た。
「あれは、魔法研究のための道具です」
疑いが確信に変わる。これで侯爵と神殿のつながりがはっきりした。
神殿は魔法を研究している。皇室の意に逆らい、違法と定められたものを。そしてそれにかかる莫大な資金を侯爵から援助されているのだ。
侯爵は恐らく、金の代わりに信者への介入を許されている。神殿は聖女信仰の貴族をはじめ、国中に信者がいる。
もし侯爵が彼らの兄者として神殿によって売り込まれたとしたら、侯爵はクーデターのために途方もない人数を派閥に組み入れることになる。
この見解は元々フェリクス達との間であった。しかし神殿が見返りとして何を手にしているのか、その証拠を掴む必要があった。
そこでフェリシアに神殿への潜入を依頼した。皇太子妃を送り込むことに躊躇がなかった訳では無いが、杞憂であった。
彼女の権力と皇太子の寵姫という立場、そして度胸があってこそ成功したのだから。
「…それで、その道具はどこへ運ばれたんだ?」
「ルーランチェにある教会よ。皇都から遠くはなれているけれど、だからこそ隠しやすかったのでしょうね」
「ルーランチェか」
リトレルがいる町だった。外交官になりたいと飛び出していってから、身を落着けたのがかの町だった。帝国最大の貿易港がある。
「なるほど、あえてメルト子爵のもつ北端の港を囮にしたのか。実際は物資の密輸はルーランチェで行っていた。隠れてやるより、大勢に紛れてしまった方が見つからないと踏んで」
「そういうことだと思う」
三人に高揚の色が浮かんだ。これで侯爵の本拠地が割れたも同然だった。違法研究と密輸がどちらも行われているのなら、同時に叩きやすい。
「礼を言う。フェリシア嬢」
しかし、返答はなかった。
見ると先程と同じ厳しい目を向け、フェリクスの制止の手を振り切っているところだった。
「伯爵に礼を言われる筋合いはありませんわ。先程の謝罪もそうです。なぜあなたがこの計画の先導者のふりをするのですか!」
突然のことに驚いていると、フェリシアが歩み寄ってきた。指を指したその先には、先程外した護身用の剣が立てかけられている。
常に持ち歩いているが、皇太子宮で堂々と帯剣する訳にも行かず、隠し持ってきて壁際に置いておいたのだ。
「この計画で誰よりも犠牲を払っているのはどなたですか?間違いなく伯爵と夫人ですわ」
フェリシアの言わんとしていることがわかった。あの剣の柄には、リヴェーラの瞳と同じ色の宝石がはめ込んである。
「侯爵のクーデターに聖女が関わってから皇室は表立って動けなくなりました。皇室と神殿の諍いは時として帝国の安寧を揺るがすからです。だからこそ伯爵に、アルカディル伯にこの任が与えられました。私たちの代わりに、です」
フェリシアがリヴェーラのことを気にしていることは知っていた。そこに、悔恨の意味があるとも分かっていた。
「我が家門は、代々皇室に忠誠を誓い、その影として任務を果たしています。これは犠牲とは呼びません。当主として然るべき役目を」
「分かっています」
リアムだけでなく、皇太子とその妃にも今回の件に関わることを命じられている理由は、後継者育成の部分も少なからずある。
宰相を初めとした皇帝陛下直属の機関を動かさないことで、皇室は今回の件で不動の意志を示している。
アルカディル伯、帝国の影の扱いを覚えろと、そう言われているはずだ。
フェリクスとフェリシアは、近い未来に己らが帝国の頂点に立ち、人情だけでは何を成すことも出来なくなるとわかっている。
たとえ幼い頃からの友であろうと、彼らはリアムを死地へ送り込まなければならない時がくる。
そこで生きて帰るかは領分ではない。ただ淡々と、自身の影、言うなれば蜥蜴の尾としてリアムを使わなければいけない。
これは義務ではなく使命だ。アルカディル伯爵家と皇室に結ばれた絆とは、そういうものなのだ。
「私とて、そんな事で駄々を捏ねたい訳ではありません。伯爵は時として、私たちのためにこうして身を賭して任に就き、代わりに死ななければなりません」
そう言うフェリシアの言葉に迷いは無い。既に未来の皇帝の隣に立つ者としての覚悟は備わっている。
フェリクスとて、それを分かっていて妃に迎えたのだから。
「それはリヴェーラさんも同じです」
「……」
空気が変わったのをフェリクスは感じ取ったのだろうか。フェリシアを、まるで守るかのように前へ進み出た。
「伯爵は、夫人にその立場を、重荷を、一度でも伝えたのですか?」
それは、長い間リアムを苦しめ続けた問いと同じだった。
「帝国のために生き、孤独のうちに身を散らすこともあると、それでも共に生きて欲しいと伝えたことはあるのですか?」
「……殿下のお心を煩わせることではありません」
「いいえ。同じ女として言わせていただきます」
フェリクスはもう止めようとしなかった。リアムがその続きを、心のどこかで懇願していると気づいていたからだ。
「夫の運命を共に背負うことが出来ないのなら、女は自身の価値を見失います。どれ程の愛を受けていようと、その膨大な質量の奥深くにある苦悩や、痛みを打ち明けて貰えないことは、女にとって何よりも屈辱なのですよ」
息が出来なかった。
この上なく大切にしたいと思っていたのに、どこかで拗れてしまった。
リヴェーラと向き合えていなかった、話が出来ていなかった、この期に及んで些細なことばかり悔やんでいたのだと今になって思い知る。
ただ、リアムが自分の弱さを伝えられなかった。それだけの事だったのだ。
一番脆い部分をひた隠し、愛を囁いていれば大切にすることになるのか?本当の意味で向き合うとは、己の弱さや生来の荷物を打ち明け、共に背負って欲しいと伝えることではなかったのか?
リアムはただ、リヴェーラと同じように、また自分も孤独であることを伝えることが出来なかった。
「…直接お会いして話す機会が一度だけありました。社交界で囁かれるような儚い女性ではありません。守られるだけでは嫌だと全身で叫ぶような、強かな女性ではありませんか。愛されないと涙を流すようでは心から夫を愛しているとは言えません。役に立ちたいと、あの方が流す涙こそが伯爵への愛そのものなのですよ」
気づけば手にしていた書類に皺がよっていた。リヴェーラを失ってから、随分と涙もろくなったものだ、と滲む視界を眺めながら思った。
(失う、か)
今、自分が自然とリヴェーラを失ったと認めたことに気がついた。
リヴェーラにとって愛とは、慈しまれるような温かいものだけではなかったのだ。共に辛酸を舐め、時にリアムにかかる重圧を共に背負いたいという、泥臭くもある思いだったのだ。
それをお互い気づくことが出来ずに、リアムはただ右往左往し、リヴェーラは何も出来ない自分を責めた。
ついに、夫の口から新しい女を告げられた時に、絶望とともに邸宅を去ったのだ。自分は何も求められていないと。愛する夫が頼り、愛したのは自分ではなかったのだと。
「…リアム、お前は俺の部下であり、唯一無二の友だ。俺たちの代わりに与えられた汚れ仕事をこなし、夫人のために骨を折りながら、俺たちに礼を言うような馬鹿な真似はするな」
フェリクスがフェリシアの肩を抱きながら言った。いつの間にかその細い肩が揺れていた。
幾度となくリヴェーラに会いたいと申し出てきていたのを、頑なに拒んだのもまたリアムだ。
自分の運命に彼女まで巻き込みたくなかった。皇室の影として日陰を生きる自分と、同じ道を歩ませる訳には行かないと、勝手に遠ざけていたのだ。
「いつになったら分かるんだ。お前は一人じゃない。お前の隣で生きる人間が、少しくらいいたっていいはずだろう」
「俺が引きずり込んだんだ」
こんなことを言うつもりではなかったのに、と、もはや笑いが込み上げてくる。昨晩といい、自分の周りにいる人間は、リアムの本音を聞き出したしたがる。
「清純な世界から、何も知らされることなく俺の元へ引きずり込まれたんだ。俺の勝手な欲で…そんなことをしておいて、今更共に生きて欲しいとは言えなかった」
「……っだから」
「分かっている、フェリシア嬢。もうリヴェーラに手酷く打ちのめされたあとだ。…二度と向き合わずに逃げることはしない」
リアムが顔を上げると、呆気にとられたような二人の顔が見えた。
「……なんだ、もう立ち直っていたのか」
「いや、我に返っていたという方が正しいのかしら?
」
「もっと厳しい言葉で糾弾してくれて構わない」
既に皺だらけになった書類を丸めた。無情に放り出されたそれを、フェリクスが視線で追う。
「…ルーランチェへは俺が行く」
「お前が?無茶だろう。現実的じゃないにも程がある」
「今回の遠征で終わりにしたい。神殿と侯爵の繋がりは確かだ、ルーランチェの教会にその施設とやらがあるのなら、十中八九、港も使っているはずだ」
「そういえば、弟がいるんだったか」
神殿側に探りを入れられるとは思わなかったのだろう。そしてまさか、ルーランチェまで皇族と同等の立場を有する貴族が来るとも思っていない。
「今が好機だ、終わらせるには俺が行く方がいい」
「…夫人を早く迎えに行くためか?」
その言葉に思わず笑った。迎えに行くとは、身の程知らずにも程がある。自分はもう、その資格を失った。
「いいや、ただ…せめて、影として生きることを偽りにしたくないだけだ」
二人には理解し難いだろう。これはリアムが己にたてた誓いだ。
泣く場所がないのなら俺の傍で、隠れる場所がないのなら俺の影に隠れればいい。
いつでも頼り、そして外で愛されたらいい。
君にとって、誰にも見つからない、最も暗い場所が俺であればいいと、そう願ったあの日の。




