リアムとリヴェーラの話 2
私の初恋は、十六の頃に参加した皇宮の夜会でのことだった。
発作を起こしていた私は意識が朦朧としていて、お顔も、聞いたはずの名前すら思い出せず、もう二度と会うことはできないと半ば諦めていた。
けれど息苦しさに涙を零した時に背中を撫でてくださったその温かさ。膝を突いて泥を払い、ずっと傍にいてくださったその優しさは、ずっと脳裏に焼き付いている。
まるで夢を見ているような夜だった。
いや、もしかしたら夢だったのかもしれないとも思っている。
お母様がふらつきながら歩く私を見つけた時、そのベンチには誰も居なかったそう。
幻覚を見たのかもしれない。とお医者様に言われた。元々私の飲んでいる薬には、幻覚を見る錯乱性があるらしい。
けれど背中に触れたあの温かさが、どうしても幻覚だったとは思えず、私がその出来事を忘れることは無かった。
会話の内容は覚えていないのに、その男性が私を受け入れてくれたような気がしていた。
何か、救われる言葉をかけてもらった気がする。
こんなに優しい言葉をかけてもらったのは初めてだと泣いてしまうくらいに、その時、私は人生で一番幸せな瞬間を味わっていた。
いつか、あの方のもとへ嫁げたら、と考える自分がいた。
私の結婚相手は中々見つからず、フェンデル家の子女としてはあまり条件がいいとは言えない縁談ばかりに目を通す日々だった。
フェンデル家と家格が釣り合うような家は、私のような嫁を迎え入れて、跡継ぎに病が遺伝したら困ると口をそろえる。結婚という貴族令嬢に最も重要な責務をこなす市場において、後ろ指をさされる立場だった。
時折思い出されるあの方も、きっと私などに好かれたと知ったら気味悪がられてしまうのだろう。全くの善意で助けたというのに、身の程知らずに恋心を抱かれたと知られてしまったら。
そもそもあれが幻覚ではなかったという証拠もどこにもない。
けれど、このまま家を出ないで、あの日のことを思うのも悪くはないかもしれないと思うほどには、あの温かい記憶に支えられる自分が居るのも事実だった。
ある縁談が舞い込んできたのはちょうど冬が開けるころのことだった。
相手は帝国の英雄の子孫、アルカディル伯爵だった。
すぐに不相応だと断りを入れようとしたが、今回のことは勅命であると知らされた。戦で功績に対する褒美だと知り耳を疑った。
私との結婚が褒美になるはずもないのに。
お父様はこの結婚に迷いがなかった。
そもそも行き遅れている娘にもったいないほどの縁談が舞い込み、断るほうがどうかしている。とんとん拍子で事が進められ、冬の終わりごろに申し込まれた縁談の結婚式が、次の春に挙げられることになった。
思いには区切りをつけよう。そして、伯爵のもとへ嫁いで、お父様の期待に答えなければ。
たった、それだけの義務感で、私は伯爵との結婚に頷いた。
その義務感が形を変えたのは、結婚式当日の事だった。
「フェンデル侯爵令嬢、式前の挨拶は控えるようにと、アルカディル伯爵が仰っています」
部屋に入ってきたメイドはそれだけ報告すると、居心地の悪そうな顔をして部屋を出ていった。
婚約期間もなければ、事前の顔合わせもなく、加えて式前の家族との挨拶は禁止。
愛されていない花嫁。
一人、部屋で式を待つ私の姿を見た人々がそう囁くまでに時間はかからなかった。
その後、内密でご家族を通しましょうかと声をかけてきたフットマンをすぐに断った。
アルカディル伯爵は、陛下からの勅命で私を嫌々娶られたのに違いない。
それでも病持ちである私を娶ってくださるのだから、挨拶がしたいだなんてわがままを言えば、捨てられてしまうかもしれない。
お母様も、私が結婚できるとようやく安心されたのだから、期待を裏切りたくない。
結婚式の数時間前だと言うのに、私の心は落ち込んでいた。
遠くで人の声が聞こえる。でも私の周りには誰もいない。ただ痛いほどの沈黙に包まれる部屋。
鏡に映った自分を見て、酷い顔、と呟いた。
真珠の散りばめられた、純白のドレス。間違いなく、今まで生きてきた人生の中で一番綺麗に着飾っているというのに、今にも死んでしまいそうな顔をしていた。
青白い肌。憂鬱そうな目。今にも泣き出しそうに震える唇。
入場までは、ヴェールで隠れてしまうから大丈夫。けれど。
「……っ」
ぎゅっと自分を抱きしめるように腕を回した。
誓いのキスの時は…?
考えるだけで恐ろしい。
病持ちに口付けなんてできるわけがないと、突き飛ばされてしまったら?そもそも入場の時手を握ることすら嫌がられてしまうかもしれない。
そうなったらどうしたらいのだろうか。
間違っても途中手間立ち止まったりはしてはいけない。
どんな目にあおうとも、式を台無しにするようなことは絶対に。
「…フェンデル侯爵令嬢」
扉の向こうから声が響いた。
はっとして顔を上げる。返事がないのを疑問に思ったのか、再度扉がノックされる。
どくどくと心臓が鳴る。
身構えてしまった体は言うことを聞かず、声を出すこともできないまま縮こまった。
「リアム・リスト・アルカディルです」
「……っ」
低い声に足の先から震え上がった。
不機嫌そうな重く暗い声を聞いて弾かれたように立ち上がって、震える手で急いでヴェールを被り、息苦しさを堪えて取っ手に手をかける。
泣きそうになってしまうのを必死に堪える。
これから夫婦になるというのに、今から泣いてしまってどうするのか。
これからは同じ家に暮らして、毎日顔を合わせるというのに。
「……フェンデル侯爵令嬢?まさか、具合が悪いのですか?」
急に、切羽詰まったような声に変わる。取っ手の感触から、向こう側の取っ手に手がかかったのが分かった。
「……っえ」
「大丈夫ですか!開けても構いませんか!?」
「いっいえ!」
抵抗むなしく勢いよく扉が開き、一人の男性が姿を現す。後ずさりながらヴェール越しに見上げ、息を飲んだ。
青ざめ、酷く心配するような表情が、私を見て安心したように緩む。その様子を見て拍子抜けした私はその場に立ち尽くした。
伯爵の顔立ちが想像よりもずっと端正だったせいか、自分の中で作り上げていた恐ろしい婚約者の姿が崩れ去っていく。
「…無事、でしたか」
眉が吊り上がり瞳が震え、焦りに満ちていた表情が一変し、優しげな目をして私を見つめる人がそこにいた。
その手がヴェール越しに私の頬に触れる。自然とその手を受け入れた自分に驚く暇もなく、その温かさに既視感を抱く。
「…心配させないでください」
「は、はい…。申し訳ありません」
反射的に謝った私を見て、チャコールグレーの瞳に鋭い光が宿る。
息を呑んだ私だったけれど、次の言葉でその必要はなかったのだと思い知る。
「謝らなくて結構です」
「………」
その言葉が、その響きが、そこにこめられた優しさが、私の記憶を揺さぶった。
どこかで一度聞いたことがある、触れたことのある優しさに、私は目を見開いた。
「……」
「どうかしましたか?」
その問いには答えられなかった。
心が震えて、気を抜いたら涙が零れてしまいそうだった。
私を心配そうに覗き込む灰色の瞳。背中に添えられる大きな手。労りに満ちた低く安心感のある声。
全てがあの日の記憶に繋がった。
「…伯爵、様」
ああ、そうだ。
私はあの日も、彼を伯爵様と呼んだ。
私は一人なのだと打ちのめされて泣いていた私に、手を差し伸べてくれた方。
自分のもとへ来ていいと、また会おうと言ってくれた優しい人。
あぁ、あの日のことは、幻覚ではなかった。
あなただったのですね。私の初恋の人。




