夫の胸の内
「お帰りなさいませ旦那様」
執務室へと戻って来ると、いつものようにレイが片付けなくてはならない書類を机上に並べて自分を待ちわびていた。
深いため息をつくが、先代の補佐官とちがってレイは融通が利かない。そこに愛が混じってくるとなおさらなのだ。
しかたなく椅子に座ると、何も言わずに羽根ペンを差し出される。受け取ることなくそれを眺め続けていると、レイは目の前にコトンと置いてきた。
早く握れ、という催促だ。
「……お前にも早く生涯の伴侶が出来ればな」
「なんです?」
まだ柔らかな感触が残る手を、羽根ペンの硬さで上書きしたくないということだ。
と言っても伝わりはしないだろう。
やむなくアルカディル伯爵家を表す紋様が持ち手に掘られたペンを握るが、書類に向き合う気になれない。
脳裏にちらつくのは、ほんの数分前まで自分の腕の中にいた妻のことだった。
ぼんやりとベッドに沈む小さな身体を照らす月光。妻の身動ぎでよじれるシルクのシーツがその光を反射し、その肌に波模様を作り出す。
髪も肌も柔らかく、真っ白な肌はすぐに赤く染まり、どこまでも細い体はいつもならありえないくらい無防備に俺に預けられる。
きつく抱きしめるとリヴェーラの香りが脳まで達して、これ以上ないくらいに酔いしれてしまう。リヴェーラの身体を奪ったその日から、もはや酒などいらなくなるほどに。
そして、本人は自覚してないのかもしれないが、時折「旦那様」と呼ぶ声が、理性を揺さぶってくるのだ。
「……あれはいけない。本当にいけない」
「奥様ですか?」
レイは知らなくていい。ぎろっと睨みつけると、レイはわけが分からなかったようで無表情のままだった。
あんなに男の正気というものをぶち壊してくるリヴェーラの姿は、生涯他の男には見せたくない。いや、そんなことは許さない。
「……リヴェーラはなぜあんなに美しいのか………」
それでも妻の美しさは国中に自慢したいほどだった。
柔らかなミルクティー色の髪はどんな髪型でも、どんな髪飾りでも似合ってしまうし、俺を写す新緑の瞳にどれだけ恋焦がれたことか。
小柄で細く、柔らかな雰囲気を常に醸し出す彼女は容姿も心も美しく、結婚して二年が経った今でも妻に出来たのが奇跡のようだった。
とにかく彼女の近くにいるだけで癒される。アルカディル伯爵としての重責を背負わせられ続けている俺を彼女ほどに癒せる者は、世界中どこを探してもいないだろう。
「…私には分かりかねますが…、お姉様も大変お美しいそうなので、九割は遺伝かと」
先程の問の答えらしい。レイらしく今まで考えていたようだ。
「リヴェーラの美しさが九割遺伝?そんなわけないだろう。あれは妻にしかない美しさだ。あれをリヴェーラの姉にまで見た事はない。考えてみろ、ほら。あぁいい。やっぱり考えるな」
よくよく考えてみればリヴェーラのことを他の男には考えさせたくもない。それはレイでも同じだ。
それでもリヴェーラの美しさを自慢したいとは、矛盾しているな、と思うのはいつもの事だ。それでも両方せずには居られない。
「……そんなに愛しておられるのなら、どうして訪ねられる回数がこんなに少ないのです?しかも、奥様の排卵の時期に重ならないようにまでして。もう結婚して二年なのに、お二人の間にはお子様の一人もおられませんよ」
レイが右目に欠けている片眼鏡を指先で押し上げながら言った。直球が過ぎるその言い方に、握っていたペンを投げつける。
見事にレイの眼鏡に当たった音が響いたが、割れてはいなそうだ、大丈夫だろう。
愛している。心の底からリヴェーラのことを。
昼夜問わずに抱きしめたいと思うし、名を呼びあって幸せを噛み締めるような生活を夢見ることなど何度でもある。
それでも自分を叱咤し、夜訪ねる回数を減らしているのも、子が出来ないように妻の月のものを数えているのも、全て彼女のためだった。
意識せずともため息が漏れ出る。せっかく持ったペンを置き、両手の指を組んで額に置いた。
「……お前も知っているだろう。俺とリヴェーラの結婚の経緯を」
「まだ胸の内を打ち明けられていないのですか」
レイ相手に恋愛相談で詰まることはもはや数え切れない。愛というものを理解出来ないくせに、核心を突くのが早すぎるのだ。
俺との結婚は、恐らくリヴェーラにとっては望むものではなかっただろう。
俺の勝手な欲望からだったのだから。
リヴェーラに思いを寄せていた俺は、皇帝からある任務達成の褒美として何を望むかと言われた時、金や領地ではなく、リヴェーラ・フェンデルを妻に娶りたいと、そう言ってしまったのだ。
陛下からそれを承認された時、俺は舞い上がっていた。長年恋をしてきた女性がついに自分のものなると。
俺は自分から思いを伝えることをしなかった。それは彼女にとってしてみれば、皇帝陛下から命令され、望まない相手との結婚になるということに気づかなかったのだ。
彼女が俺を愛してくれているはずがない。彼女は、一方的に自分を慕ってくる男に、売り渡される気分でいたのだ。
俺がそれに気づいたのは、初夜だった。初めて触れる彼女の肌に溺れていた俺は、彼女の頬に伝うそれを見て、はっと我に返った。そしてようやくそこで気づいたのだ。
気づくのが、遅すぎた。
彼女を離縁しようかとも思った。そうすればリヴェーラは束縛から逃れ、自由に暮らせるようになる。
だがもう彼女は俺の妻となり、初夜まで済ませてしまっている。そんな貴族令嬢が今更離縁されたことで、社交界へ復帰出来なくなるのは目に見えていた。
いや、他の男に愛される彼女の姿を見たくなかったからなのかもしれないが。
「……打ち明けられるわけが無い。俺は取り返しのつかないことをした。彼女はきっと、俺を恨んでいる」
リヴェーラは俺に抱かれている時、毎晩毎晩涙を流す。酷く悲しそうなその泣き顔が胸を締め付け、例えようもないほどの罪悪感にかられるのだ。
「…リヴェーラ」
狂おしいほどに愛している。この感情が妻に届くことは一生ないだろう。届けてはならない。
彼女は光り輝く月の精だった。社交界で女性の中心人物として君臨する彼女の姉と共に、表立っては注目されていないが、彼女自身もその容姿の美しさや自ら孤児院まで設立する心の清らかさから、裏では相当な尊敬を集めていた彼女だ。
奇病さえ持ち合わせていなければ、数え切れないほどの男から求婚され、王族から見初められてもおかしくはなかっただろう。
そんな姿を見るのが耐えられなかった。考えたくもない。思い浮かべたくもない。
だから俺は、彼女の羽をむしり取った。
「……許されない、こんなことは」
これが彼女と暮らすようになってからの二年間、俺を苦しめ続けている原因だった。
「……レイ、書類を」
そうして仕事に走る。仕事をすることで罪悪感を晴らそうとしているのが目に見えているが、こうでもしなければ耐えられなくなりそうだった。
全てを彼女に打ち明け懺悔し、許しを請いたくなる。だがそんなことは出来ない。
「……はい」
レイが机の上に積み重なった書類の中から一通の手紙を取り出した。その手紙に印璽られている模様を見て、眉をひそめた。
王冠を咥える鷲の紋様。それを扱えるのはこの国で皇帝陛下だけだ。
本来皇帝陛下からの手紙は使いのものが直接渡すはずだが、このように渡してくるということは、人に知られてはならない内容だということだ。
レイからそれを受け取り封をあける。固められた蝋が砕けて机に落ちる。その粉末が混じった紙を封筒の中から取りだし開く。
そこに綴られている文字に目を通し、額に指を当てた。主人の不機嫌そうな雰囲気を読み取ったのか、レイが葉巻を持ってこようとしているのを止める
「…明日皇宮へ向かう」
「かしこまりました、では奥様との湖への散策は延期に」
手紙には近いうちに訪ねてくるように、とだけが書かれていた。もはや手紙では言えないほどのことだということか。
それでわざわざ皇宮へ来いと。
明日はリヴェーラと湖へ行く予定だったのにもかかわらず。
手紙をぐしゃっと捻り潰すと、レイが不敬罪ですよ、と言ってくる。いっそのことこの手紙は見なかったことにして、リヴェーラと出かけてしまうか、とも考えるが、長年のアルカディル伯爵家への陛下からの信頼を自分の代で消すことなど出来ない。
「…………いや、やはりこれは見なかったことにする。明日は約束通り妻と」
「いけませんよ」
蝋燭たての上でゆらゆらと揺れる炎に手紙をかざす。あっという間に灰になったそれをレイがささっとかき集めて暖炉に捨てた。
リヴェーラとの約束は一週間前から決まっていたことだった。リヴェーラ付きのレイの妹達が彼女に進めたらしい。それがメイドたちとレイを通して俺に伝わった。
リヴェーラと出かけるのはそう珍しいことでは無い。彼女は誘えば断ることは無いし、美しい景色を好むため、何度か連れて行ってやったことがある。
だが、リヴェーラの方から行ってみたいと伝えてくるのは(正確にはメイドから話を聞いた妻が何気なく言ったことが伝わってしまっただけだが)初めてのことだった。
恨めしく思いながら灰になったそれを見つめる。
「……何かあるな」
「左様でございますね。半年前に現れた聖女に関係があるやもしれません」
聖女。女神信仰のこの国に何百年に一度という確率で誕生してくる、癒しの力を持つ者。
聖女が存在する時代の帝国には、更なる発展と豊かさが約束されるのだ。そんな聖女が半年前に帝国の外れの村で発見され、帝国に住む全ての国民たちが聖女に注目していた。
だが、伝説に残ることであろうが、聖女のその動きに気にならないものがないと言えば嘘になる。
報告によれば聖女はすぐにでも皇宮に行きたいと言い始め、皇宮に住み着いた今は癒しの力を得るための祈りをさぼり続け、あろうことか陛下に擦り寄っているとか。
幸いなことに現時点でそれは国民に気づかれていないようだが、本当に聖女なのかと疑う者もいるようだ。
「面倒くさい……」
「本音を呟かないでください。噂によれば聖女様は大変お美しいそうですよ」
リヴェーラよりも美しい者がいるものか。絶対にありえない。そんな女が存在できるわけが無い。
これをレイに言ったところで理解は出来ないのだろう。先代の補佐官を恋しく思う訳でもないが、もう少し愛に狂う男の心情も理解して欲しいものだ。
そう思いながら優に三百は超えるであろう仕事たちを片付けていくのであった。