聖女という存在
「聖女の魔法はどうだ」
「変わりはありません」
答えると、フェリクスはそうか、と安堵の息を吐いた。カモフラージュ用に持参していた書類を机に丁寧に積み重ね、茶菓子をつまむ。人払いをしてあるため、気を抜いているようだ。
「このまま発現しなければいいんだが。ここにきて癒しの力なるものが使えるようになれば、いよいよ対処のしようがなくなるからな」
フェリクスの言葉は正しかった。
聖女の傍に侍るようになってから二週間が過ぎようとしていた。経過は上々と言えるだろう。
徹底的にフェリクスとの接触を絶たせたことで、聖女の興味は完全に俺に移っている。それにより養子縁組の話が整いかけていた侯爵との間に確執が生まれているようだ。
侯爵が野望を果たすためには聖女が皇太子に執心である必要がある。そうでなければ聖女にマクベル侯爵の義娘になる理由がなくなり、聖女と言う権威を得られなくなるからだ。
侯爵家と伯爵家の派閥の違いは明らかであり、小さな諍いが絶えないことは周知の事実だった。マクベル侯爵は聖女信仰の神殿派に属し、当家は言わずもがな皇族への絶対的な忠誠を誓っている。
さらに数年前には侯爵領地の住民が野盗と化し、伯爵領地で捕縛される事件が発生したが、侯爵からの賠償はなく冷戦状態にある。
今のところ聖女がマクベル侯爵の援助を受ける利益は何もない。
しかし忌々しいのが、全ては聖女の気まぐれに左右されているという点だ。
フェリクスの言う通り、聖女に癒しの力が発現した場合、その影響力は絶大なものになる。そもそも今は伝説に残る聖女と断定されているわけではないので、猶予を得ている状況になる。
もし力を扱うようになれば、その存在は国益になる。侯爵だけでなく、他の家門からも皇太子の妻にと声が上がることだろう。
そうでなくとも、聖女の興味が俺ではなくフェリクスに戻れば、同じ結末を迎える。
「幼児にするように甘やかしていれば、訓練の気力も失せる。実際、聖女に癒しの力を修練する気は全くないようです」
そう言うと、なぜかフェリクスからは何とも言えない目を向けられた。
「罪な男だ。女の扱いに慣れていないのかと思えば、仕事となるとまるでその道の玄人のようだな」
「...」
自分でもそう思う。
リヴェーラを前にしていた時には喉に何かが閊えたように言葉が出なかったのに、聖女を相手にすると鳥肌が立つような甘い台詞をいくらでも吐ける。
かといって、視界に映っているのは聖女ではなく、リヴェーラなのだ。
リヴェーラは別邸にうまく馴染めただろうか。リリとロロもいない中で、寂しくしていないだろうか。そんなことばかり考えているせいで、夢にまでリヴェーラが出てくるようになった。
「夫人は別邸に送ったんだったか」
「殿下!」
「人払いは万全にしてある。誰かに聞かれる心配はいらないよ」
声を荒げた俺を予想していたようで、特に驚くこともなく何事もなかったかのようにサブレを口に入れた。
リヴェーラの居場所は関係者のみに知らせてあるが、それ以外については厳しい箝口令を敷いてある。リヴェーラを送り届けた馭者さえもそのまま別邸に常駐するように言いつけ、屋敷では女主人の不在を隠すように全員が通常通りの仕事をする。
「...侯爵は間違いなく私に敵意を持っています。今ここで居場所が知られれば、真っ先に狙われます」
「分かっている。君がなによりも優先したことなのだから、私も力を尽くすよ。けど、たとえ夫人の行き先が漏れたとしても侯爵は攻撃はしないだろう」
フェリクスが執務机に寄りかかるようにしていた腰を浮かして、両手をついて身を乗り出した。品の言い金髪が揺れ、普段は穏やかな目に探るような光があった。
「アルカディル伯爵は、夫人のことを愛してはいない。これは君が流した噂だろう」
返答のない俺を見て答えを得たようだった。
「例えば攫って人質にしたとして、君が屈する保証はない。ましてや滅多に姿を現さないと有名な夫人をわざわざ探し出してまで攻撃するメリットは何もない。今のような君に弱みがある状態が好ましくない時のために君が、自ら流した噂だ。違うか?」
「...女性の扱いに俺よりも慣れていないくせに。いらないことにだけは察しがいいな」
「褒めてるのかい?」
そんなわけないだろう、と小突くと呆れるほど人が良さそうな笑顔で喉を鳴らした。
「まあ夫人は滅多に社交の場には出てこないわけだし、だとしたらいい作戦ではあるか」
「何か言いたそうだな」
口調も崩してしまったのだから今更だなと、首元を緩める。
フェリクスとは同年代で、爵位を継ぐ前から両親について皇宮に上がることが多かったため昔からの仲だ。公式の場でなければこんな風に話すこともよくあったが、任務を受けてからは初めてだった。
「何も。ただ確認したかっただけだ。フェリシアがあまりに怒るものだから」
「...ああ」
国家単位の重大な責務が軸にあるとはいえ、フェリクスの身代わりのような真似をさせていることにやり場のない怒りを感じているのだろう。フェリシアとはそういう女だった。自分の代わりにリヴェーラが犠牲になっているというこの状況を理解しつつ、やるせなさを感じるような責任感が強すぎる性格なのだ。
フェリシアは前々からリヴェーラと懇意になりたがっていた。慣例通りなら皇帝夫妻と当主夫妻の結びつきは強くなるというのに、いまだにろくに挨拶もできていないことが気になっているのだろう。
そのうえでこんな状況になったので、心配で思わずフェリクスに八つ当たりしたというところだろうか。
「ちなみに夫人に会いに行きたいとも言っていたが」
「駄目だ」
「そう言うと思って宥めておいたよ」
確かにフェリシアならリヴェーラの良き友人となるだろうが、それでは何のためにリヴェーラを隠したのか分からない。
絶対に、リヴェーラを巻き込むわけにはいかない。
「それより進捗は?ボリビエの調査は済んだのか」
「白だ。怪しい動きは何もない。いよいよ本部に探りを入れないと手詰まりだな。幹部でなくとも構成員を捕まえるだけで十分なんだが」
リヴェーラのことを考えると仕事が手につかなくなる。無理やりに仕事の話に軌道修正した俺に合わせるフェリクスだが、成果は得られていないらしい。
ボリビエとはマクベル侯爵家が持つ小さな貿易港だ。侯爵領地の中でも北端にあり、動きが王都に伝わりにくい。使うならそこの可能性が高いとフェリクスが調査していたのだが、結果は白だ。
「ならうちの人間にやらせよう。構成員位ならすぐに連れてこられるだろうな」
「冗談だろう」
フェリクスは顔を引きつらせるが、本気だった。
皇族が抱える調査団も当然精鋭ぞろいだが、諜報員のような役目はアルカディルの影に軍配が上がる。調査団の指揮官は俺が務めているが、それとは別にアルカディル専属の影と呼ばれる集団が存在する。どちらかと言うと文官のような扱いになる前者よりも圧倒的に場慣れしている。
「侯爵がお前の動きを始終監視していることも十分あり得る。無駄に動くと悟られるぞ」
「もとより企みがあることは知られているだろう。それに悟られたところで隠しきれるほどの規模に収まっているとは思えない」
クーデターの実行するのは時間の問題だと思ったほうがいい。そう言外に告げた俺に、フェリクスの顔が青くなる。
「...私たちが気づくくらいなのだから、隠しようがないほど準備が進んでいるとでも?」
「そうは言わないが、あの狸がこうもあからさまな動きをするには理由があるだろうな。...こちらがまだ気づいていない情報を握っていると考えたほうがいい」
例えば、クーデターを悟られるほど計画を早める必要があった、何かが。
苛立ちから指で机の表面を叩く。焦ってはいけないと分かっていても、言い表せない不安が付きまとってくる。爵位を親戚に奪われそうになった時でさえ感じなかった、まとわりつくような不安が。
守らなければならないものが出来た。失えないものが出来たというだけで、こんなにも恐怖を感じるようになるだなんて、知らなかった。
***
「リアム様!見てください!少し元気になったと思いませんか?」
嬉々とした顔で振り返る聖女の前には、故意に萎れさせた花が置いてある。元々は薬で弱らせたマウスを練習台にしていたが、聖女が嫌だと駄々をこねたのだ。
聖女の癒しの力と言うのが未知の物である以上、その花にまったくの回復の兆しがない原因が聖女の不勉強にある者なのか分からない。
俺は近寄って、先ほどから少しも変わり映えのない花を覗き込んだ。
「素晴らしいですね。ジゼル様が一生懸命に訓練に取り組んだ成果です。やはりあなたはこの世界を救う存在だ」
「リアム様ったら、大袈裟ですよ!」
まんざらでもない顔をして、萎れた花をメイドに渡している。綺麗になったからどこかに飾っておいて、と。
「そういえばリアム様!お聞きしたいことがあったんです」
「なんなりと」
微笑みかけると、髪を耳にかけ、こちらを見上げるような仕草をしたあと言った。
「この間奥様がいるって言っていたでしょう?...それで私気になって、お願いして少し調べてもらったんです」
心臓が激しく鳴った。背筋に嫌な汗が伝って、落ちる。
聖女が反応を窺うように顔を覗き込んでくるが、表情は変えていない、と信じたい。動揺すれば聖女はますます興味を持つだろう。
「...ああ、妻ですか」
わざとため息をつくようにして、震える息を吐き切る。
「くだらない話をお耳に入れてしまったことでしょう。彼女は病弱で、部屋に引きこもるばかりですから」
「ってことは、リアム様はリヴェーラさんを愛してないってこと、ですよね...?」
聖女の口からリヴェーラの名前が飛び出したことに今度は怒りを感じる。お前が口にしていい名前じゃないと、言えたらどんなにいいだろうか。
くだらないものか。聖女の何倍も美しく、優しい心を持っている彼女に、俺は。
「愛しているわけがありません。私が虜になっているたった一人の女性が誰なのか、もうご存じでしょう?」
俺は、君に愛していると言ったこともないのに、君のいないところで愛していないと嘘をつくのか。
「えと...ふふ。なんだか恥ずかしい」
「不安にさせてしまいましたね」
「いいえ。信じていましたから。私の...リアム様?」
微笑んで、はいと頷く。ねだるように胸に手が添えられる。目を閉じた聖女の背中に応えるように腕を回したが、顔を背ける。訝しがられる前に話題を変えた。
「そういえば、前にマクベル侯爵から養子の打診を受けたとお聞きしましたが、あれはどうなりましたか?」
「え?ああ...そうでした。私、それもお話しなきゃと思ってたんです」
落胆していることを隠そうともせず、体を離す。髪をいじる様子にどこか違和感を覚え、まさか、と思い至る。
「私、マクベル侯爵の養子になることにしました」
「...どういう、ことですか」
「でも、リアム様なら分かってくれますよね?」
驚愕した俺に焦ったように聖女が詰め寄る。
当然だろう。派閥の違う家の養子になるということは、関係を終わりにすると言っているのと同じことだ。しかし聖女の言いようからしてそのつもりはないらしい。
「侯爵様が、力の練習をするならうちがいいって仰るんです。代々魔法の研究をされているからって。だから私、リアム様のためにも侯爵様のところで魔法を練習してきます!」
「...」
明らかに誤魔化すためにもっともらしい話を作り上げている。魔法なんてものを扱うのは聖女のみであり、その保護及び癒しの力を研究するのはほとんど神殿に任されている。
侯爵家で研究が為されている事実は聞いたこともなければ、そもそも力の練習をしたいのなら神殿で教わるほうが効率的だ。
先手を打たれたことは間違いない。
いや、違う。そうではなく、何かがおかしい。
はっと顔をあげた時、聖女は笑っていた。
目を細め満足そうに笑うその姿は、明らかにいつもと様子が違う。
こちらがまだ気づいていない情報、自分がつい先刻フェリクスに言った言葉を思い出す。
その情報がもし、侯爵のクーデターに関することではなく、聖女という存在そのものについてだったとしたら?
侯爵が本当に魔法の研究を行っているのだとしたら?
聖女に関する記録を独占する神殿と侯爵につながりがあったとしたら?
「誰にも内緒ですよ?リアム様」
そう言って、立ち尽くす俺の耳に顔を近づけ、囁いた。
私が本物になるんです、と。




