旦那様のはなし
苛立ちのまま馬車の扉を勢いよく閉めると、馭者が嫌そうに顔をしかめた。
不憫なものだ。主人は乗り込んでくるなり不満を露わに行き先を告げ、道中常に不穏な空気をまき散らしていたのだから。
「時間がかかるかもしれない。休んでいて構わない」
せめてもの詫びにそう言うと、意外そうな顔をしてからへいと頷いた。長年雇われている馭者ということもあり、気心は知れた仲だった。
皇宮に足を踏み入れると、あからさまに視線が集中した。
英雄の末裔アルカディル伯爵。その名は帝国貴族で知らぬ者はいない。
百五十年前に起こった隣国との大戦、通称アルケイドの悲劇において当時のアルカディル伯は帝国の勝利に大いに貢献した。その栄誉を称え、皇族はアルカディル家に永続の独立権と広大な領土、それと名誉貴族としての特別階級を授与した。
そのうちの独立権とは名ばかりのもので、アルカディル伯爵家は皇族に末代までの忠誠を誓っているため、その権利を行使したことは一度もない。
ただし名誉貴族という特例の階級同様、たとえ皇族への忠誠の取り消しを申し出たとしても認可されるという権利は、すなわち帝国においてのアルカディル家の立ち位置は皇族と同列ということを意味している。
皇帝が一介の貴族に分け与える褒章としては度が過ぎているが、当時の皇帝と当主が乳兄弟であり親友であったことが大きい。
三代前のアルカディル伯の名はリスト。当主でありながら自ら軍を率いるだけでなく最前線に立ち、一時捕虜として敵国に捕らえられたものの、隠密活動の末に敵将の首を討ち取った。
入城してしばらくすると、壁画が描かれた広間が現れる。
勝利の女神ニケとともに描かれるのはアルケイドの悲劇の際、献身の末命を落とした第十六代皇帝のアレキウスと、その親友であったとされるリストだ。
自然と足が止まった。
黒髪にチャコールグレーの瞳。髪の長さは今の俺と同じくらいだろうか。端正な顔立ちには生まれ持った英雄の才が表れているようだった。
自分にとっては曾祖父に当たる人になるが、実際に会ったことはない。だが幼いころから誰よりもリストの血を濃く受け継いでいると、両親や親族からは言われ続けてきた。
「先々代のように立派にアルカディルの名を背負ってみせろ」というのが父の言い癖だった。父の瞳はグレーと言うよりも青に近く、俺の髪と瞳の色がリストと同じであることを知って大喜びしたことを後から聞いていた。
後継者教育がそれほど厳しくつらいものだった記憶はないが、間違いなく同年代の令息と比べて自分に向けられている周囲からの期待が大きいことには、物心つく頃には気が付いていた。
初めて先代の皇帝陛下に謁見した際、英雄が戻ってきた、と歓喜された。その後からだっただろうか。父が「お前は新たな英雄になる」と言い始めたのは。
その父も、六年前に事故で他界した。領地の視察に出向いた際に落石に巻き込まれ、偶然同行していた母と共に。
十六では、英雄の家門を継ぐには幼すぎる。前々から虎視眈々とその栄光を奪わんと息を潜めていた親戚の多くはそう声を上げた。
帝国では十六で成人となり、爵位を継ぐには伴侶がいなければならないとする帝国法も、名誉貴族の称号があればどうとでもなる。
何かに急かされているかのように、ちょうど代替わりしたばかりであった現在の皇帝リーンハウゼン陛下の謁見室に転がり込み、自分が爵位を継ぐと宣言した。
爵位を奪われては、俺だけでなく二つ下の弟までどんな目にあわされるか分かったものではない。正当な血筋を受け継ぐのは俺とリトレルのみ。一度栄光を我が物にした親戚どもは、どんな策を打つだろうか。
それからの四年間のことは、よく覚えていない。若き当主に代替わりしたことで荒れる家臣、領民。まるで親代わりのように面倒を見てくださった両陛下がいなければ、六年でまとめ上げることは叶わなかっただろう。
職務に忙殺され、母によく懐いていた弟の世話を怠ったことが唯一の気がかりだったが、杞憂に終わった。二年後には家を飛び出し港町で働くようになり、時折連絡もなしに返ってくる顔を見ると、元気にやっているのだろう。
未だに後継者の血筋を狙った刺客が差し向けられることを考えれば、リトレルが家を出たことは正解だったのかもしれない。
全てが順当に進んでいた。
もう数年したら政略結婚でもしよう。そうすればもはやあの連中には脅かしようがなくなる。
そう思っていた矢先に。
「...リ」
リヴェーラ、と反射的にその名を呼びそうになり、口を閉ざした。
最近はあまり体調が芳しくない妻。口下手なばかりにいつも浮かない表情をさせてしまう最愛の妻。
本当は今日、湖へ出かける予定だったというのに、陛下からの呼び出しのせいで断らざるを得なくなってしまった。食事の席で見た彼女の顔が忘れられない。また傷つけてしまったことは明白だった。
リヴェーラにもっと優しくしてくれと言う双子のメイド。愛していることをそのまま伝えればいいと簡単に言ってのけるレイ。
そのたびに苦悩する。愛とは何か、愛とはどうやって伝えるものなのか。
いくら最愛の妻と言葉だけを並べたところで、誰かを愛するという行為が自分に向いていないことを思い知るばかりだ。
リヴェーラを愛している。この気持ちに偽りはない。
彼女に出会ったあの日から、俺はリヴェーラを愛している。
けれど「君を愛している」と伝えることになんの意味がある。
優しく慈しんで、甘い言葉を吐くことに、なんの意味がある。
俺はもう、リヴェーラを傷つけてしまったというのに。
泣きじゃくるリトレルを抱いて立ち尽くしていた俺のもとに、駆け付けてきた親戚たちの顔には隠し切れない嬉々とした笑みが浮かんでいた。
葬式の段取りを勝手に取りまとめ、終いには邸宅に居座ろうとした。あの時感じた怒りと屈辱を忘れることはないだろう。
以降甘言ですり寄ってくる彼らは侮蔑の対象でしかなかった。「愛している。私たちは家族だ」とほざく奴らの表情を見て、何度憎悪に身を焼いたか分からない。
己の力の無さに打ちのめされる経験はいくらでもある。そして、一度裏切られた相手からの愛など、無意味であることも知ってしまった。
あの思いを、俺はリヴェーラに与えてしまったのかと思うだけで恐ろしい。
「浮かない顔だな」
はっと顔を上げると、陛下が広間の出口に立っていた。
「...帝国の太陽にお目にかかります」
「原因は余の急な誘いのせいか?」
膝を折るより前に問いかけられた。
「滅相もございません」
「お前は昔から他人行儀が変わらんな。ベリウスとマーガレットの代わりに親のように育ててきたというのに」
ベリウスとマーガレットと言うのは、両親の名だ。皇后陛下も合わせ、四人は良き友人だったと聞いている。人の好さそうな目じりの皺を深めたあと、壁画を見上げた。その横顔には懐かしむような笑顔がある。
「そういえばベリウスも堅物な奴だった。妙な部分で熱を上げすぎる男でもあったが」
立ち上がるように手で促される。
相変わらず帝国の主とは思えないほど慈愛に満ちた方だ。リヴェーラと結婚する際も、あのリアムがと手放しで喜んでくださった。
「お前が不必要な期待を背負わされていたことは知っている。あまり無理をするなと言う余の言葉は覚えているな?」
はい、と頷くが信用されていないようだ。呆れたような顔をして、だったらここへ来るたび立ち止まるのはやめろ、と仰る。
「夫人の体調はどうだ?あまり二人で顔を見せないから、皇后が寂しがっておる」
「...おかげさまで、以前よりは。最近は季節の変わり目のせいか寝込む日が続いていますが、皇后陛下にお会いできるとなれば気力も出ることでしょう」
「そうか」
短く返答して、踵を返された後に続く。
謁見室に入ると皇后陛下がすでに着席していた。二人で戻ってきた俺たちを見て、呆れたように嘆息する。
「本当に仲がよろしいことで。伯爵はフェリクスではなくあなたと友人関係にあるようですね」
フェリクスと言うのはお二人の第一子であり、すでに立太子を済ませた皇太子殿下だ。年がさほど変わらず、頻繁に登城することもあり、お目付け役に任命されていた時期もある。
殿下が婚約されてからは会う頻度が減ってしまったが、今でも夜会で顔を合わせれば軽口を叩く仲だ。
「楽にしていい」
陛下が着席するのに合わせて跪こうとすると、止められた。
今までとは打って変わって深刻な雰囲気がある。
「まず、急にすまなかったな。火急の用と無理を言ってしまった」
「滅相もございません」
先ほどと同じ言葉を並べるが、大事が起こっていることは明らかだった。
この場に俺一人しかいないということは、アルカディル伯にのみ伝えられる極秘任務である可能性が高い。
英雄リスト・アルカディルは生き延びて帝国に戻った際、自身の敵国での経験を余すことなく後継者に伝えた。
代々受け継がれたそれは、帝国で唯一の隠密活動を可能とする一族になるまでに精度を高めており、帝国の影と呼ばれる皇族直属の精鋭集団を指揮するのは代々アルカディル伯爵家当主となっている。
「聖女が降臨したことは知っているな」
「聞き及んでおります」
帝国の伝説として語り継がれる聖女。
魔法とも呼べる不思議の力を操り、癒しの力を持つのだという。太古の昔に滅んだとされる魔法使いの子孫であるという見解もあるが、歴代の聖女の出生に統一性はなく、突如として力が発言すると言われている。
聞いた話では今世代の聖女は自由奔放で、皇城の召使たちは手を焼いているとか。さらには魔法が使える兆しはない、とも。
「かの者とマクベル侯爵の間に不審な動きがある」
マクベル、と聞いただけで嫌悪感が背筋を這う。
陛下の言わんとしていることはすでに理解した。聖女とマクベル侯爵が手を組んだ、ということだ。
「分かっていると思うが、侯爵に聖女派の勢力が加わるのは厄介だ。現時点で侯爵に追い風があるのは都合が悪い」
事態は思っていたよりも深刻のようだった。
マクベル侯爵。帝国でも有数の筆頭貴族だが、数年前から秘密結社を統率する動きがあった。元々反皇帝派の気が合ったこともあり陛下が注視しておられた。
ここにきて聖女と手を組むということは、その狙いが勢力の拡大であることは間違いない。
「聖女の利点に見当はついているのですか」
「ああ。...そうか、最近は夫人を気遣ってあまり社交界に出ていないから知らなかったのか」
そう言うと、悩ましげな顔をしてため息を吐いた。
「聖女は、皇太子との婚姻を望んでいる」
「は」
「ひどい有様なのよ。夜会へ来てもフェリクスにべったり付きまとって、フェリシアに牙を剝く始末なの。フェリシアがうまく収めてくれているけど、ご令嬢方からの評判は最悪よ」
思わず呆れてしまった俺に皇后陛下が説明を付け加えた。
フェリクスに色目を使っている、と言う解釈で合っているだろうか。あのフェリクスに。婚約者のフェリシアにベタぼれで他の女は女とも思わないようなフェリクスに。
「余の見解では聖女にはまだ有力な後ろ盾がない」
「やたらめったらに暴れているところに、侯爵が目をつけてしまったのよ」
皇后陛下が聖女を嫌っていることがよく分かる、投げやりな口調だった。
それよりも、そんな状態の聖女と手を組むということはつまり、聖女をこのまま皇太子妃に押し上げるつもりなのだろう。十中八九、近々養子に迎えるはずだ。そうすれば未来の国母の生家として実権を握ることができる。
ああなるほど、と腑に落ちた。
「聖女を取り込め、ということでしょうか」
「相変わらず察しがいい」
陛下はそう仰ったものの、表情は明るくない。
リヴェーラという妻がいる俺に、聖女と関係を持てと言っていることになる。
欲深く野心的なマクベル侯爵が、未来の国母の生家、で満足するだろうか。答えは否だ。
聖女と手を組み聖女派の貴族を勢力に取り込む。なるべく多くの貴族を味方につけていた方が、クーデターの成功率は上がる。
あからさまな皇族への不満、秘密結社の動き、皇太子に心酔する聖女との関係。この三つを鑑みれば狙いは自ずと分かる。聞いた限りあまり頭はよくない聖女をだまし、皇太子を毒殺でも出来たら一石二鳥、とでも考えていそうだ。
そして今まで聖女一人の要求ならはねのけられていたものに、マクベル侯爵という重鎮が後ろ盾として加われば、皇太子妃の話も一笑できなくなる。
現在の婚約者であるフェリシア嬢は伯爵家の生まれだ。フェリクスと恋愛関係になったことから婚約者に抜擢されたが、本来なら皇太子の婚約者としては身分が低い。
放置すれば聖女が皇太子妃になるのは時間の問題であり、それまでにマクベル侯爵の勢力を一掃するのは難しい。反乱の種を残さずに殲滅するには時間がかかる。
その時間を稼ぐために聖女を引き付けろ、と言うのが今回の任務だ。
「けれどね、リアム。あなたが嫌ならこの話は断ってもいいと陛下と先に話してあります。あなたには大切な奥方がいて、あなたは彼女を愛している。夫人を裏切るような行為はあなたにはさせたくないと私は思っているの」
皇后陛下が俺をリアムと呼ぶのは久しかった。両親が亡くなり、爵位を継いでから社交関係に躓いたときに助けられて以来だろうか。
「余も同意している。そなたが適任であるがためにこうして伝えているだけであって、これは命令ではない。万が一の場合はフェリクスにも動くように言ってある」
陛下の言葉を受けて、俺は腹を据えた。
この任務を遂行するのはお前だ、と陛下は仰った。
皇后陛下と変わらぬ口調だったが、含みのある言い方と視線がそう言っている。温厚で人が良すぎる皇帝だと言われることが多いが、そんなことはないと側近ならば口をそろえて言うだろう。
本物の王と言うのは、言葉にせずとも命令を下す。ある意味最も俺に期待してきたのは皇帝陛下その人だ。
「お気遣い痛み入ります。ですが両陛下に忠誠を誓う身として、治世の存亡にかかわる事態に関せずにいられましょうか」
「そうか」
「...陛下!」
批判の声を上げた皇后陛下に礼を述べると、悪いことをするわ、と花顔を曇らせて仰った。
「心して任務に当たらせていただきます」
「頼むぞ」
「ですが一つだけ、お願い申し上げたいことがございます」
そう言うと、陛下は意外そうな顔をした。
跡継ぎ騒動の最中にも滅多に頼ろうとはしなかっただろうに、とでも思われているのかもしれない。
自分でも不思議だった。なぜこうも躊躇なくこの願いを進言しようとしているのか。
けれど説明のつけようがない。この任務についての話を聞いているときから、すでに彼女のことで思考を埋め尽くされていた。忠義を最優先としてきた俺が、何よりもまず彼女を思うだなんて、一体誰が想像できるだろうか。
「申してみよ」
「はい。―――――――」
「俺も求婚することにした」
「俺が聖女に求婚するにあたり、妻である君には様々な憶測が飛び交うだろう」
嘘に塗れた台詞を吐くたびに、胸に鈍い痛みが蓄積していく。世の中にいるという離婚を切り出す夫というのは、一体どんな心境なのだろうと無駄なことを考えた。傷つけてしまうことを恐れるのか、それとも別れを喜ばれるのを恐れるのか。
俺はその両方の恐怖に苛まれ、顔を上げることができない。今リヴェーラはどんな顔をしているのだろう。聖女に求婚すると言いながら、君との別れを切り出すでもない俺を見て、どう思っているのだろう。そんな情けない心境でリヴェーラに話を切りだしていた。
先日屋敷へ戻った際、リヴェーラは発作を起こして倒れた。確実に周期が短くなっており、力なくリリにもたれる様子が痛ましい。それなのに俺の出迎えなどに出てくることが腹立たしかった。
何よりも君の体が重要だと言うのに、なぜこんなことに体力を割こうとするのか。発作を起こすたびに俺がどんな思いをするのかも知らないで、君は必死になって良妻を演じようとする。
そう。まるで、自分が捨てられることのないように。
いつからか、リヴェーラの行動が奉仕的なものに変わっていることには気が付いていた。見て見ぬふりをしていたのは俺だということも分かっていた。
だがそれが決定的になったあの日、どうしようもなく怒りが湧いた。
リヴェーラに娼婦のような真似をさせている事実に愕然とし、己の今までの行動に怒りが湧いて仕方がなかった。
褒美として無理やり妻にし、一人で舞い上がって尊厳を傷つけ、俺好みのドレスを贈って纏わせていた。あの親戚たちを嫌悪しながら、同じように独りよがりな愛で彼女を振り回していたのだ。
気持ちが悪い。自分でも吐き気を催すくらいなのだから、リヴェーラはどれだけの苦しみを味わったことだろう。毎夜寝台で零すあの涙の意味を、どうしてもっと深く考えなかったのだろう。
「……どうすれば、よいのでしょう」
震えるその声が聞こえた時、反射的に顔をあげた。闘病による疲労からかひどく青ざめていたが、表情は穏やかだった。言葉だけ受け取れば離婚話のように聞こえているはずなのに妙に落ち着いているのは、別れを切り出されても構わないからか、それとも任務のことを察しているからなのか。
ざわっと言葉にできないほどの不安に襲われた。
前者であるはずがない。きっとリヴェーラはすべてを理解しているんだ。極秘で任務があることを察しているに違いない。
そう自分に言い聞かせていないと、どうにかなりそうだった。
「……無視しなさい。伯爵家の別荘に行くのもいいかもしれないな。あそこには前補佐官のウィリアムもいる。上手く君を隠してくれるはずだ」
事前に用意していた台詞を口にするが、今自分がどんな顔をしているのか分からない。きちんと喋ることが出来ているのかさえも。
リヴェーラが頷き、その後も何かを伝えたような気がするが覚えていない。
ああ、そうだ。最後に確認しなくては。
リヴェーラはきっとすべてを理解している。妻にさえ打ち明けることのできない任務を抱えていること。こうするしかないことも、きっと、リヴェーラなら。
「分かるな?」
分かってくれているはずなんだ。
なんか時間軸がばらばらで気持ち悪いことになっていますね...。
完全に挿入する部分を間違えているので、反省しています。
今回のお話は、4話で湖にデートに行くはずだったのにドタキャンする場面から、9話で別邸に行ってほしいと切りだす場面まで跨いでいます。
旦那様が死ぬほど口下手でどうしようもない理由は、青少年期に受けたトラウマが原因です。




