ベンガルと私3
驚いて立ち止まると、ベンガルは近くにあったベンチに腰掛けた。いつの間にかハウスの裏側にある、人気のない通りに出てきていた。目の前には海が拡がっていて、それに向かうようにベンチがある。
隣に座るように手で招かれ戸惑いながらもそれに従おうとした時、ここにいるはずのない人物の姿が向こうからやってくるのが見えた。
腰を上げたままの姿勢で固まった私に、リトレルはよ、と軽く片手をあげた。
どうしてここにいるのだろうか。彼は出勤したとマーサから聞いている。
「信頼できる仲間に任せて抜けてきた。リヴェーラとそいつを二人きりにさせる訳にはいかないだろう?」
まさかそんなことのために一度出勤してわざわざ戻ってきたのか。私が呆れるより早く、ベンガルが肩を竦めた。
リトレルは私に座るように言って、自分は日差しから隠すように私の目の前に立つ。
なんてことないような彼のその優しさで、幾分か動揺した心が落ち着くような気がした。
彼の表情もどことなく重苦しい。もしかしたら二人で時間を合わせて私を呼び出したのかもしれない。そう考えると今のも私を和ませるための洒落だったのだろう。
「まあリトレルがいたほうがリヴェーラも安心できるからね」
リトレルが来たことでどこかで安心した私がいて、それをベンガルは見抜いているようだった。
ベンガルを警戒しているわけではないが、やはり昨日の今日で二人きりで話を持ち掛けられると戸惑ってしまう。話の内容が発作のことならなおさらだ。
「ごめんなさい。あなたを信用していないわけじゃ」
「分かってる。気にしないでいいよ。実はリヴェーラと話したいことがあって、ここへ来てもらったんだ。リヴェーラのことが心配でたまらないこいつにも、話を通してね」
私は頷いて、リトレルを見上げる。少し恥ずかしそうに目をそらされた。
「話というのは....私の発作のことで?」
「…うん」
語尾が少し震えてしまい、うつむいた。ベンガルにも私の緊張が伝わっているようだ。
不安な気持ちがあるのっも否めないけれど、むしろ私は今期待している。先ほどのベンガルの言葉、まるで私の発作の原因を知っているかのようだった。
「何か……発作が起こる原因を見つけたの?」
この一言を絞り出すのに体中の神経が集中したように感じた。
「見つけた」
喉で変な音が鳴った。そのすぐ後にパシッと乾いた音がする。
恐らくベンガルの服をしわくちゃになるまで握りしめるはずだった私の手は、それを予想していたリトレルによって止められていた。
行動を予想されていたことに驚いている余裕はなく、私はベンガルに詰め寄った。
「リヴェーラ」
「教えて。お願い…お願い」
けれどベンガルは、すぐに私に伝える気はないようだった。その態度がさらに私を焦らした。
期待するのは恐ろしい。けれど、ベンガルの口から一刻も早くその答えを聞き出したい。
実家にいる頃から何人もの高名な医師に引き合わされ、匙を投げられてきた。そのたびに曇る家族の顔。ふつふつと溜まっていく絶望。
この病のせいで人と同じようには生きられない。治せない。どうにもならない。
幾度となくその現実を突きつけられ、何度も思った。
この病さえなければ。この病に罹るのが、私でなかったなら。
ぐしゃりと情けなく崩れた私の顔を、ベンガルが痛ましげに見つめ返していた。
ベンガルには分からない。いいえ、きっとこの場にいる誰にも、伯爵家にいた頃周りにいた人々にも分かるわけがない。
私がどれほど切実にその答えを望んできたか。突如として闇の世界に放り込まれる恐怖も、常に人の目を気にして生きる苦しさも、愛する人に見捨てられる痛みも。
こんな病気さえ無かったなら私は。
「ベンガル…っ!!」
「リヴェーラ、落ち着け!」
リトレルが私の腕を押さえる。そう強い力ではないのに、弱い私の体ではいとも簡単に動きを封じられてしまう。
濁流に押し流されるかのように感情が溢れる。自分の中にこんな濁ったものがあることに驚く暇もなく、衝動のままリトレルの腕の皮膚に爪を立てていた。
彼は何も言わずに荒々しく上下する私の背中を撫でる。
「…リトレルに来てもらって正解だったね。きっと僕だけでは君は不安と敵意に駆られて我を失っていただろうから」
「ふざけるなよ、ベンガル。俺はリヴェーラにこんな仕打ちをしたくてお前の話に乗ったわけじゃない」
ああ、とベンガルが低く答える。
私のことを聞いたのだ、と分かった。
何かしら察していただろうが、私からベンガルにアルカディル伯爵家にいた頃の話を打ち明けたことはない。
知り合って間もないベンガルに内々の話をするのは気が引けたし、リトレルの親友出るという彼に奇異の目で見られる可能性を気づかないうちに排除しようとしていたように思う。
二人の様子から察するに、病のことだけでなく、私がルーランチェに来ることになった経緯もリトレルから聞いているのだろう。
「ごめん、リヴェーラ。君を怖がらせるつもりはなかった。けど僕の憶測でしかない話を無責任に語ることはできない。分かってもらえるかい」
私が頷くと、ありがとう、と表情を緩めた。私が落ち着いたことでリトレルも元の姿勢に戻った。
その後彼は、リトレルから私の伯爵夫人時代の話を聞いたこと。そこでどんな経験をして、どういった経緯でここへ来ることになったのかも、全てを理解していることを話した。
私の知らないところで聞き及んでしまったことを詫びられたけれど、私は構わないと首を振った。
リトレルが心から信頼している彼を元より疑う気はなかった。
私の事情は他にもマーサや、ツェツィーリエにも話してあるし、大勢の人に広がることがないのなら秘匿しなければならない話というわけでもない。
もう伯爵夫人ではない今は、尚更。
「……ここからは完全に僕の自己満足の領域だから、もし気分が悪くなったなら、僕をひっぱたいて帰ってもらって構わない」
ばちーんとね、と言って頬を指さすので、思わず笑う。ベンガルの話すことなら何かしらの意味があるのだろうし、私は生まれてこの方人をひっぱたいたことなんてないのだから、そのやり方は分からない。
ベンガルは私が笑うのを横目に一つ息を吸った。息を吐いた後の彼はこれまでにないほど真剣な顔をしていて、何かを探るような目で私を見つめた。
「君は何故、旦那様のことを愛していたの?」
胸をつかれたような衝撃を受け、息を呑む。
返事も出来なくなった私を見ても尚、ベンガルは見定めるようなその目を逸らしてはくれない。
「…なぜ、そんなことを聞くの?」
ベンガルは特に表情を変えずに、言い放った。
「彼は君を傷つけた男だからだ。愛する価値もないはずだろう」
躊躇いなく棘を吐くベンガルの薄い唇を見ながら、私は酷く重たいものが胸に沈んでいくのが分かった。
助けを求めるようにリトレルを見上げても、彼は苦しげな顔をしながら顔を背けるだけだった。
今まで誰も責めはしなかった。ベンガルも別に責めようという訳では無いのだろう。
自分がどれだけ優しく甘い世界に浸っていたのかようやく理解した。
直視したくないものから目を背け、考えたくないことを消し去り、自分に言い聞かせる。
大丈夫。だってリトレルもマーサもみんな、何も言わずに抱きしめてくれるもの。
旦那様への私の気持ちなんて考えなくてもいい。ただこの傷を癒していればそれでいい、と。
まるで尋問をされているかのように心臓がどくどくと強く波打つ。自分が、みんなが目を逸らしていた部分を暴かれているかのよう。自分自身では見ないふりをして、みんなが優しさで覆い隠してくれていた部分を。
「…旦那様のことは、悪く言わないで」
「なぜ?リヴェーラがその男を庇う理由が分からないな。君が受けてきたことは全て聞いてるからその男がどれだけ非道だったのか、僕はよく理解しているよ。たった一度、親友から話を聞いただけだけの他人の立場からしてもその男は」
「やめて」
自分の口から飛び出した声の冷たさに自分でも驚く。思わず口を塞いで、ベンガルから目を逸らした。
「なぜそんなに自分を卑下する?全ては自分のせいだと思い込んで、ただあの男は悪くないと頑なに信じている。なぜそう言いきれるの?リヴェーラが信じているその男の優しさは、君が見ているただの夢かもしれないのに」
「……旦那様は、」
旦那様は、とても優しい人。私はそう信じている。臣下から尊敬を集め、リリやロロも慕っていた彼が、ただ非道な人であるわけが無い。全てを私が壊してしまった、ただそれだけ。
こんな私を妻に娶ってくださって、一緒に遠出に出かけたことも、一緒に食事をしたことも、全て私にとっては幸せな思い出だから。
「旦那様は、とても素敵な人よ。知っているもの、私…、あの屋敷にいた頃の幸せは全て、旦那様がくれたものだって」
「…それがただの勘違いだったとしたら?はっきり言うけど、リヴェーラ」
その声が持つ力に視線が惹き付けられる。一度ベンガルの目を見てしまえば、そこから目を逸らすことは出来なくなっていた。
「…君は、君に初めて居場所を与えた人物に、ただ依存していただけじゃないの」
その言葉が、自分の中をぐるぐるとものすごい勢いで駆け巡った。何度も何度も頭の中に再生されて、私は段々とその意味を理解した。
愛ではなく依存。私は旦那様を愛している。そう言い聞かせていただけで、私が本当に愛していたのは、失いたくなかったのは、伯爵夫人という初めての居場所。
視界がみるみるうちに白濁していき、呼吸も速く浅くなっていく。
「わ、私」
それ以上先の言葉が出てこない。喉がつかえて、何か言葉を発しようとする度に空気を呑み込んでいる。
なにかに焦っているかのように冷や汗が滲んで、手に力が篭もった。
「リヴェーラ!」
「……リヴェーラ、大きく息を吸って。ごめんね、もう言わないから。落ち着いて」
両手を掴まれて、背中をさすられる。言われた通りに深呼吸を繰り返していると、直ぐに呼吸が楽になった。
自分でいま何が起こったのか分からず、呆然としながら私の手を掴むベンガルの手を見ていると、その輪郭がぼやけていることに気がついた。顔を上げると、周りの景色が発作が起こった時のように、ぐにゃりと曲がっている。
「ベンガル、私の目、今……」
「うん、かなり薄くなってる。発作の症状だよね」
そう言うベンガルの顔は辛うじて判別できる。すぐに落ち着かせてくれたので、そこまで重症化しなかったのだろう。
事態が呑み込めない私に、ベンガルが優しい声で説明した。
「その発作が引き起こされるきっかけは、リヴェーラが元夫に関係することで、ある一定の精神的負荷を受けること。恐らくその男と直接接触することでも、その男との思い出を思い出すことでも、とにかく関係していればなんでもきっかけになりうる」
私は呆気に取られてベンガルを見つめていた。
まだ事例が少なすぎるから何とも言えないけど、元夫に関係していなくても精神的負荷が関係していることは間違いないだろうね、と形のいい唇が動く様子を呆然と見つめながら、何とか声を絞り出した。
「で、でも、この病気は生まれつきのもので…旦那様と知り合う前からずっと繰り返してきたわ」
「うん、だから別の原因も考えていたけど、とりあえず今日その男のことで君の動揺を煽ってみたんだ。結果的に症状は出た。つまり、今はその男が原因になっているけれど、知り合う前はまた別の誰かがその対象になっていたんだろう。間違いないとは言いきれないけど、リヴェーラにとって一番影響力のある人が、その対象になるんじゃないかな」
確かに辻褄はあっている。けれど、そう簡単に受け止められるわけもない。
症例のない奇病だとは聞いていたけど、まるで呪いのような発症条件が存在するのだろうか?
呪い、魔法…そんな秘術の類を扱えるのはこの国では一人だけだ。
押し黙ってしまった私を待つように、ベンガルは口を閉ざした。
ぐるぐると頭の中に大きな渦ができているよう。軽い吐き気を感じた私に気が付いたリトレルが再度背中を摩ってくれる。
幾度となく経験したはずの発作の名残が気持ち悪い。久々だからなのか、それとも私がこの病を得体のしれないものと認識してしまったせいだろうか。今までの自分の全てを信じられなくなってしまったようだった。
あれだけ愛して、守り抜きたかった私の居場所。縋りつく必要はなかったというの?
守り抜きたい?私はベンガルの言う通り依存していただけ?そんなはずはない。私は確かに旦那様を愛していて、伯爵家のみんなを愛していた。
だけど、私がしてきたことはすべて無駄だったんじゃないかと、そう思わずにはいられない。
どんな努力をしたところで、どれだけの痛みに耐えたところで、病という種が私の中にある限りあの場所での幸福は私にはなかった。
初めから檻の中にいることにさえ気が付かないで、私はなんて滑稽な二年間を…。
「リヴェーラ、俺を見て」
リトレルがそう言って、縮こまった私の手を掬い上げた。その温かくて少し荒れた大きな手に包まれた瞬間、暗闇に沈みかけていた私の心まで息を吹き返した。
「一人になろうとしないでくれ」
それは彼の心からの言葉だった。
「ひどく混乱しただろう。無理もない。…けどそれを一人で抱え込まないでほしい。リヴェーラの痛みを少しでも共に背負いたくて、俺は君をここへ連れてきたんだ」
「リトレル...」
思いやりに満ちたリトレルの言葉が胸に染みる。
強い太陽の日差しから私を守るように立つリトレルは、温かい光を灯した瞳をまっすぐに私に向けていた。
そよそよと湿っぽい海風が私たちを扇ぐ。空は水に溶けた橙色が零れて広がっていくようにまだらに染まっていて、白い翼と黒い翼が交互に飛行していた。
太陽のような人だ。唐突にそう思った。
光を受けて立つ彼の姿があまりに美しかったから、そう感じたのかもしれない。けれど私をあの暗い部屋から連れ出してくれた時も、潮風に髪を靡かせながらまっすぐにこの街を愛していると言った時も、そして今も、いつだって彼はまぶしく光り輝いて見える。
目尻がきゅうと痛くなる。ルーランチェへ来てから何度もかけられた優しい言葉が、リトレルの言葉で浮かび上がってきた。
今までは私なんかには勿体ないと、受け取るふりをして見逃してきた言葉が、また私の元へ返ってくる。
いつでも頼って、と言ってくれたツェツィーリエ。気にしなくていい、と笑い飛ばしてくれるマーサ。こうして私が背負ってきたものと一緒に向き合ってくれるベンガル。
リトレルが私に歩み寄り足元に跪いた。透き通るようなチャコールグレーの瞳が真っ直ぐに私を見つめる。初めて出会った日と同じだった。
一人きりの控え室の中、ドアをノックして遠慮がちに挨拶に来た。兄さんには内緒で、と言いながら緊張気味だった私にたくさんの話を聞かせてくれた。
…あぁ、そうだった。リトレルは、昔も今もずっと変わらない目で私を見ていてくれた。
「リヴェーラ。辛いことや苦しいことを隠さないでくれ。俺が一緒に背負うから、ずっと君の味方でいることを約束するから…一人にならないでほしい。」
ぼろっと涙が零れ落ちた。
頬に手を当てた私を見て、リトレルは驚いたように目を見開く。
何か言わなければと思うのに声が出ない。はらはらと雫が頬を伝うだけで、言葉にならない。
彼にここまで言わせてもなお素直に甘えることが出来ずに、顔を覆っていよいよ声を上げて泣き出してしまった。
おい、早く慰めろよ。いや、どうしたらいいんだ。なんて動揺しきった二人の会話を聞きながら、私は涙を流し続けた。
旦那様を思い流した涙でも、自分の境遇を嘆いて流した涙とも違う。
手のひらから溢れ、腕を伝っていく熱と一緒に、重く苦しい何かが流れ出ていく。
私は一人じゃないと言ってくれた人は何人もいた。
優しい言葉はいくらでも享受してきた。
けれど、一人になるなと引き留めてくれた人は、彼だけだった。
私は臆病で、意気地がなくて、誰かからの優しさを受け取ることを躊躇してしまう。心のどこかで、自分の痛みを分かってくれる人なんていないと決めつけ、引きこもるほうが楽だと諦めてしまう。
そんな私を受け止めて、ともに背負うと言ってくれる人が彼以外にいるのだろうか。
差し伸べられた手を握り返せることが、こんなにも幸せなことだと、私は知らなかった。
「っ…ひ、う…」
「おいでリヴェーラ」
やがてため息をついたベンガルが私の頭に手を乗せて、自分の胸に引き寄せる。そこに額を当てながら、私は嗚咽を繰り返した。
自分で自分を価値がない人間だと叱責するのは苦しい。助けを求めたくても求めてはいけないと自分を叱咤するのも、苦しい。
けれど私はきっと、息を詰めて生きていくことをやめられない。病をもって生まれたことをいくら悔やんだところで何も変わらないのだから。
けれどリトレルは、そんな私を理解して傍にいてくれるのだろう。慰めるのではなくただ傍にいてくれるのだろう。
けれど時々、私が死んでしまいたいと感じたとき、引き留めてくれるのも彼なのだ。
(ああ、私…リトレルに愛されているのね)
そう思えたことにはもう驚かなかった。
「リヴェーラ」
躊躇なく私の名前を呼ぶあなたが私の手を握るたびに。まっすぐに愛を伝えてくれるたびに。
重なっていたはずの面影が消え失せていく。
チャコールグレーの瞳には、私だけが映っていた。
太陽の光に焼かれた空が、色を継ぎ足されたような鮮やかさをもって、脳裏に焼き付いていく。
連載再開します!と豪語しておいてまたも長期休載してしまって誠に申し訳ありませんでした。
一年間も受験のために小説から離れていたせいか、満足のいくように書けなくなり、このままではだめだ!と数か月間修行をしておりました。
(ありとあらゆる本を読み漁ったのはいい思い出です。たはは)
また徐々に元の連載スピードに戻っていくことかと思いますので、ぜひぜひ最後までお付き合いくださいませ!
それと、お気づきの方いらっしゃるかと思われますが、この度改名いたしました!
旧:蓮見なの
新:菜の宮ともり
改名の理由は......特になし。気分。




