ベンガルと私 2
「……うそ」
近くに飾られていた装飾用の鏡を覗き込み、息を呑んだ。瞳の色がほぼ透明になっていた。
ルーランチェに来てから兆候すらなく過ごせていたというのに、なぜ。間の悪いことに、私は今薬を持ってきていない。
あまりにも鳴りを潜めているから、油断して薬は家に置いてきてしまっていた。
これ程酷いのなら、もう自分の足で家まで行くことは不可能。そのうち呼吸困難の症状まで出てくるかもしれない。となれば、そうなる前に誰かに助けを求めなくては。
咄嗟にそう判断した時、自然と頼るべき人が思い浮かぶ。
「……リトレル」
けれど部屋へ戻ろうとして振り向いた瞬間、くらっと頭を殴られたような目眩に襲われる。周りには異国からの使者も大勢いる。職員である私がここで倒れる訳にはいかないのに。
もう視界は無に等しかった。辛うじて色が見える程度だろうか。人の顔はおろか物の輪郭さえも認められない。
肩で息をつきながら何とか手探りで壁にもたれ掛かる。
部屋を出る時、リトレルを拒絶してしまった。優しい彼はきっと私を気遣って追いかけては来ない。私が、自分で突き放してしまった報いを受けるのだ。
弱みを見せることが怖くて、突き放したくせに具合が悪くなったら助けてくださいなんてそれこそ都合がよすぎる。どこへ行っても誰かに迷惑をかける。どこへ行っても誰かの邪魔になる。私は結局、そういう存在。
肺が押しつぶされそうな感覚に襲われる中で、私は何も考えないように思考を塗りつぶした。もう何も考える資格はない。臆病で愚かなリヴェーラは、初めから消えてしまえばよかったんだから。
「リヴェーラ!」
突然名前を呼ばれ、ぱっと顔を上げる。リトレルの声ではなかった。
「大丈夫?こんなところでどうし……その目は」
「ベ、ベンガル、なの?」
近くにベンガルが走りよってきた感覚はあったが何も見えない。
手を伸ばすと、しっかりと握られた。
「目が、見えないの?」
「わ、私……薬、が、家に……」
「何?よく聞こえない」
ベンガルが私に顔を近づけたけれど、もう自分が立っているのかすらもわからない。上下も左右も、曖昧になるほどの目眩の中で、ただ分かるのは、誰かの手を強く握っているということだけ。
意識が朦朧とする中で、旦那様が駆け寄ってくる夢を見た。これは現実では起こりえないことだけれど、私が夢見ていたこと。
私が体調を崩したら、あなたが真っ先に私の元へ来てくれる。もう大丈夫だと、頭を撫でて、手を握って、一晩中付き添っていてくれる。私のことを心から愛してくれていて、……私を、捨てないでいてくれる旦那様。
◇◇
駆け寄ってきたリトレルを、旦那様、と呼んだあと、リヴェーラは意識を失い彼の腕の中に倒れ込んだ。リトレルは一瞬、唇を噛んだあと、直ぐに彼女を抱き抱えて俺に言う。
「家にリヴェーラの薬が置いてあるんだ。そこまでリヴェーラを運ぶ。手伝ってくれ!」
「……分かった」
リトレルに抱き上げられた弾みに、緩くまとめられていたリヴェーラの髪が解け、艶やかなミルクティー色の髪が流れ落ちた。リトレルに手を貸しながら考える。
薬を家に置いてきているということは、あまりに日常的に起こる発作では無いということ。頻繁に起こり、しかもここまで重篤な症状が出るのであれば職場へ持ち込むのは必須のはず。
その頻繁には起こらない発作が、彼女が動揺した時にちょうどに起きた。偶然にしては出来すぎている。
リトレルから原因不明の奇病と聞いているが、果たしてそうだろうか。もし発作に原因があるとしたら、それは…。
(いや、ただの憶測だ)
とにかく彼女に一刻も早く処置を施すのが先決だ。先に行って薬を探している、とリトレルに声をかけて走り出す。
どうもリヴェーラの元夫に悪意を持った推測をしてしまう。これは、親友の恋路を応援してやりたいと思っているが故だろうか。
◇◇
すぐ近くで鳥の鳴き声が聞こえる。それに一度気づいてしまえば、顔に当たる暖かい陽の光にも、階下から聞こえる小刻みな包丁の音にも体が反応していく。
ゆっくり目を開けると、窓の縁に鮮やかな黄色い羽毛を持つ小鳥がとまっていた。そのまま外を見ると、もう太陽は高くまで昇っており、ぎょっとして辺りを見渡した。
もう街では活気づいた声が聞こえてきており、今が昼間だと再確認する。慌ててベッドから降り部屋を出て、階段を降りようとした時、ドアの音で私が起きたことに気づいたのか、一階にいるマーサから声が飛んできた。
「おやリヴェーラ、起きたのかい?まだ寝ててもいいんだよ」
「お、おはようございます…?いえ、あの、そういう訳には…」
下まで降りると、呆然としている私にマーサが笑いかけた。その手にはつやつやと光る黄色味の帯びたスープが入った、小ぶりの鍋を抱えている。
「体調は良くなったみたいだね血色も悪くない。いいからそこにおすわり。スープ飲めるかい?」
「あ、い、いただきます…。あの、今は何時でしょうか」
時間を聞いてまた目眩がする。もはや朝ではない。出勤していたならお昼休憩の時間帯だ。
「さっきまでリトレルもリヴェーラの部屋にいたんだけどね。さすがに職場のやつに引っ張っていかれたよ。ついでにリヴェーラは今日一日休養だよ」
リトレルは重要な仕事をいくつも抱えているというのに、私の傍にいたと聞いて申し訳ない気持ちしかない。リトレルがいなければ回らない所もあるだろうに。
大人しく椅子に座って昨日のことを思い出す。自分が発作を起こして倒れたところまでは覚えている。ここにいるということは、あの後ベンガルが運んでくれたのだろうか。
コトン、と目の前にスープが置かれ、スプーンでそれをすくって口に運ぶ。南瓜の柔らかな甘みが口に広がり、嚥下すると、内側から温めてくれるようだった。
「…とっても美味しいです」
「そうかい」
「皆さんに申し訳ないです。気を使わせてしまって」
「いいんだよ。慣れない土地に移ってきて疲れが溜まってたんだろうね」
(…そうなのかしら)
自分ではそこまで疲れが溜まっていたようには感じられない。発作は確かにいつ起こるか予想できるものでは無いけれど、ここへ来てからはただ楽しくて、とても素敵な環境の中で色んなことに夢中になっていただけなのに。
それに加えて。
「…私、いつも十分すぎるほど眠っているはずなのに」
「…あんまり気にしなくていいよ」
マーサの少しささくれのある温かい手が私の頭を撫でる。
私はここ最近、睡眠の時間が増えてきていた。ルーランチェへ来る時も馬車の中で眠りこけていたし、仕事を始めて最初の三日ほどはなんと朝寝坊を繰り返してしまった。
寝坊をするだなんてそんなことは今まで一度もなかったのに、自分の意思で起きることが出来なくなっているように感じる。
そんな状態では仕事どころでは無いので、マーサに頼んで毎朝起こしてもらっているのだ。
それにもかかわらず書類仕事をしていると、不意に眠気が襲ってくることが多々ある。
「ここへ来て安心できているんじゃないかい。いいことさ、私は嬉しいよ」
マーサは何があっても私を否定しない。全てを大したことじゃないとおおらかに笑って受け流してくれる。それはマーサ以外の他の人たちも同じで、この温かい環境にいると、自分の弱い所を見せてもいいような気分になってしまう。
「……スープ、ご馳走様でした。私午後からでも出勤したいと思います」
「休めばいいのに〜」
「いえ、レラントからのお客様も来ていますし」
するとマーサはあぁ、と頷いて窓の外を指さした。
「レラントのお客様ってベンガルのことかい?あの子ならほら、外で子供たちと遊んでいるよ」
驚いて振りむくと、確かにあの茶髪が見え隠れしている。
「この国へ来る時はいつもここで寝泊まりするんだよ。昨日も泊まっていったのさ。それで、リトレルは外せない仕事があるけど自分は違うって言って、ずっとリヴェーラが起きるのをああして待ってたんだよ」
困惑してどうしたらいいのか分からない。
リトレルは昔から私を気遣ってくれる人だったから、ずっと付き添っていてくれるのも分かるけれど、ベンガルにとって私は、昨日あったばかりの親友の補佐官候補なんていう曖昧な存在でしかないはず。
なのにどうして、私を追いかけてきてくれたり、今度はこうして待っていてくれたりするのか分からない。
「私、ベンガルと話してきます」
「ああ、そうしな」
席を立って外に出ると、すぐのその音で気づいたベンガルが振り返った。私の姿を見たあと、子供たちに向こうで遊んで、と声をかけて見送り、私の元に近づいてきた。
「おはようリヴェーラ、具合はどう?」
「お陰様でもう大丈夫。あなたのおかげだわ、ありがとう」
少し歩かない?と言われ差し出された腕に自然と手を乗せる。その様子を見ていたベンガルはふっと笑い、私の顔を覗き込んだ。
「やっぱりリヴェーラって、結構なお嬢様だよね?貴族なのは間違いない」
そこでベンガルに出身のことを言っていなかったと思い出す。
「ええ。私、実は侯爵家の出身なの。黙っていてごめんなさい、隠すつもりはなかったのだけど」
ベンガルは頷いて、道理でエスコートに慣れてる、と言った。
エスコートに慣れているのは彼も同じだろう。ごく自然と腕を差し出され、思わず手を出してしまうほどに、彼自身誰かをエスコートすることに慣れている。レラントのご要人というのだから慣れていて当然だろうけれど。
「病気のことをリトレルから聞いたよ。いつから症状が?」
「……生まれた時からよ。体調が良い時でも悪い時でも、何も前兆なくいきなり発作が起こってしまって…。困惑させてしまったわ」
ベンガルは首を振った。
「いや、気にしなくていいよ。ところで薬はどれだけ持ってきているの?」
なぜそんなことを聞くのだろう、と思いながらも、実家から持ってきた袋の中身を思い出す。
「一応発作十回分程度を。足りなくなりそうならいつでも送れるように実家でも準備があるから問題は無いわ。なぜ?」
ベンガルが私を見下ろしながら口元にどこか申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「…今から君が、発作を起こすかもしれないから」
「……え?」
長らくお待たせしてしまい大変申し訳ありませんでした!!本日より投稿を再開したいと思います。
私事ですが、第1志望の大学に合格を頂くことが出来ました。それから引越しやら履修登録(大変でした笑)やらを一通り終わらせていたらこんなに休載期間が伸びてしまい、本当に申し訳なく思っております。
私の受験に関して投稿が止まってしまうにも関わらず、コメントで応援してくださる方々がたくさんいて、本当に力になりました!ありがとうございました。
大学生になっても日々精進して参りたいと思いますので、今後ともよろしくお願い致します!
この作品も最後まで愛していただけたら嬉しいです。




