ベンガルと私
受験勉強が辛すぎて…一話だけ書いてしまいました。
いい息抜きになりましたので、これから切り替えてもうひと踏ん張りして参ります!
蒸し暑い日が続きますが、皆さんお体に気をつけてくださいね。(私は見事に体調不良です)
「…うん、こんな感じかな」
「そうだな。とりあえずあと数年はこの方向で行こう」
話がまとまり、リトレルが持っていた書類をバサッとローテーブルに放り投げた。滑り落ちそうになった数枚を何とか捕まえる。リトレルはそのまま体重をソファの背もたれに預け、右手で両目を覆った。つまり、完全に脱力しているのだ。客人の、しかもレラントのご要人の前で。
本来ならばまずいどころではない状況だけれど、相手も相手。足をどっかり組んで優雅にお茶を飲んでいる。正装に身を包んでいるにもかかわらず、その組まれた足からは窮屈さは全く感じられない。彼の足の細さゆえか長さゆえか。…どちらもだろう。
二人ともかなり集中して話し合っていたため、どっと疲れが出たのだろう。リトレルは見た通りだけれど、ベンガルの方もぼうっとしながらお茶の水面を見つめている。
「二人とも、お疲れ様」
「リヴェーラもね。隣で正確な情報を提示してきてくれるからやりやすかったよ」
「本当に。一体どれだけの範囲を暗記しているのさ。あ、暗記と言えば」
また仕事の話が始まるのだが、やはり疲労で頭が回らないのか、すぐに口数が減ってゆく。
私は苦笑いしながらテーブルの上に散らばった書類をかき集め、ついでにリトレルの飲み終わったあと隅に放置されていたカップもソーサーにきちんと戻す。
「お菓子をもっと持ってくるわね。なにかご要望はあるかしら?」
疲れているなら糖分を補給した方がいい。もっとも、二人はこの会議の最中ずっと何かしらを口に運んでいたが。
"俺は……マカロンがいいな"
リトレルの口から飛び出したのはレラント語だった。
二人がこの部屋に入って話し合いを初めてもう数刻たつけれど、その間に言語が五回は入れ替わっただろう。ベンガルもこの帝国の言葉を話せるようで、ある時は帝国の言葉、ある時はレラント語と使い分けていた。私はその度に二人に合わせて変えていたけれど、いい勉強になった。
ベンガルの方はというと、少し悩んで、あぁ、と体を起こした。
"シュゼットのオーターって言うやつ"
「………!」
その言葉を聞いた瞬間、自分の意思とは関係なく目が見開かれ、呼吸が止まった。頭の中に、懐かしい人の声が響く。
(「奥様、こちら今回の遠征でのお土産でございます」)
"今在庫あるかな?前回来た時食べたら美味しかったから、また食べたいな。………リヴェーラ?"
(「…何を、食べているんだ?誰から貰った」)
「……っ」
なんでもない単語を聞いただけで、それが引き金になってフラッシュバックする。私が奥様でいた頃、聞いた声が。見た景色が。
まるで今目の前で上映されているかのように、鮮明に脳内に流れてくるのだ。
思い出してはいけない、忘れなくてはならない記憶が、ずっと私を追いかけてくる。それはきっと、私が旦那様を忘れる日まで続く。
「リヴェーラ…!」
「…………」
リトレルが駆け寄ってきて、大きな骨ばった手が私の肩を抱いた。もう片方の手は震えて書類を握りつぶす私の手を包みこんでいる。
ベンガルは相当驚いているのではないだろうか。今まで普通に会話していたというのに、突然発作のような症状を起こして……いや、彼は分かっていたのかもしれない。
ぼんやりとする頭でそんなことを考えて、気を紛らわそうとする自分が情けなくなってくる。
「…わ、私……ちょっと外の風に当たってくるわ」
「…そうだな。俺も行くよ」
肩を抱いたまま一緒に立ち上がろうとした彼の腕に手を置き、それを止める。
「いえ、一人で大丈夫…」
「こんな状態で一人で行かせられるわけ…」
「…大丈夫、だから、お願い」
こんな、自分が弱いせいで起こっているようなものを、リトレルに慰めてもらうだなんて筋違いもいいところ。何か記憶に残る単語を聞く度にこの状態になって、その度にリトレルに慰められるなんて、この上なく面倒な女だと思われてしまう。
力の緩んだリトレルの手を押しのけて、ばっと部屋の外へ出た。扉を後ろ手で閉めて息を吐く。出た先には何人か人がいて、突然部屋から飛び出してきた私を不思議そうな目で眺めてきた。
顔を俯けて、何も無かったように振る舞い歩き出す。そうして気づく。人々が気にしているのは、私が震えていることじゃない。
色のない、私の瞳。
◇◇
"シュゼットのオーターって言うやつ、今在庫あるかな?前回来た時食べたら美味しかったから、また食べたいな。……リヴェーラ?"
彼女の目は前髪で隠れて見えないが、紙を握りしめたその手の震えで、自分の放った言葉で彼女に何かが起こっていることが分かった。
…あぁ、これが引き金だったか。そんなことを思いながらカップをソーサーに戻す。
どの程度かは分からないが、リヴェーラが傷を抱えていることは勘づいていた。リトレルは確かに世話焼きだけど、あそこまで過保護に甘やかすようなことはしない。
彼女に惚れているという点を加味しても、異常な程に彼女が傷つくことを恐れているように見えた。何年も前からの親友であるからこそ分かるという程度の違和感だったが。
リトレルが顔を青くしてリヴェーラに駆け寄る。肩を抱いて手を握っているが、震えは治まらないようだった。相当、深い傷なのだろう。けれど、暴力やその類いでは無さそうだ。
受けたことへの恐怖ではなく、思い出すことへの恐怖。
ここまでは彼女から実際に読み取れたこと。ここからは、ただの推測の領域になる。
思い出すことへの恐怖を抱く人間に共通することは、その記憶にあるものが、恐ろしさだけでは無いということ。つまり、愛しさであったり、喜び。かつて自分に幸せを与えていた感情までも引きずり出されることへの恐怖。
それが彼女が今受けているものだとしたら、リヴェーラの場合、恐怖の対象は愛。
その理由は、リヴェーラの左の薬指にある。わずかだがその指だけ他の指より細い。つまり結婚指輪をはめていた時期がある。
バタン、と扉が閉められ、その余韻の中でリトレルが悔しげに拳を握りしめた。
慰めたいのに、慰めさせて貰えない。守りたいのに、守らせて貰えない。
そんなリトレルの悔しさと愛しさが混じったような感情が手に取るように分かる。
リトレルは寄り添おうとしている。その方法も悪くない。けれど、それが上手くいかない理由はひとえにリヴェーラの強さなのだろう。誰にも頼らないことが当たり前になっている。
「……リヴェーラは不思議な子だと言っただろう?」
リトレルが自身の髪に両手を突っ込んだところで声をかける。
「見た目やその立ち姿は物静かな深窓令嬢そのものだ。けれど、少し彼女のことを知ると、違うように見えてくる。ある瞬間に垣間見える彼女の本来の姿が、普段の印象とは違いすぎる。彼女が受けてきた傷が本来のリヴェーラを抑え込んでいるんだろうね」
リトレルが顔を上げた。皮肉そうに笑うその顔からは、リヴェーラへの愛しさが溢れていた。
痛々しくて、思わず眉をひそめた。
リトレルが叶わない恋をしているのは二年前から知っていた。会う度その気持ちに触れてはいたが、その相手が背負うものを自分も背負おうとするほど深く愛しているとは気づかなかった。
「あぁ……。でも、何度も傷つけられているはずなのに、いつも不安にまみれて過ごしていたはずなのに、それでも他人を思いやって、笑う。それが、いつか耐えきれなくなって、いなくなってしまうんじゃって…」
こんな姿の親友を見るのは初めてだった。いつも笑顔で人当たりが良く、誰にでも分け隔てなく接するため友人が多い。基本楽観的で、それが周りを和ませるけど、頭の中は自分を凌ぐほど冷静でよく回っている。
そんなこいつが、ここまで感情を露わにして、何もかも上手くいかないとうなだれる姿を見せている。
「……彼女なんだろう?初めて出会った時、話していた義姉」
「……ああ」
リトレルが立ち上がって窓辺に立った。必死に下を見下ろしているあたり、彼女がどうしているかどうか不安なのだろう。
「……お前は間違っていないさ」
「…………」
「お前のことだから、兄さんなんてやめて俺にしろよ、なんて言ってないんだろう?それが、彼女をさらに苦しめることにしかならないと分かっているから」
よくお分かりですこと。と言いたげな目が向けられる。自分には分かってしまうのだから仕方ない。こんな能力を気味悪がる者は少なくない。子供の頃はもっとそれが酷かった。
まだ何も知らない俺は、この能力を嬉々として使っていた。それが母や母の主に役立つ方法だと信じていた。けれどそれは歪みを生み、自分や母や、母の主とその他の人間。その境目に大きな溝を作り始めた。
皮肉なことにその違和感にさえ気づくのが早かった俺は、直ぐにただの子供のふりをし始めた。ただ本に感化され無鉄砲にそれを振り回していただけの子供だと、周りに刷り込んだ。
まぁ結果的に、それは陰で彼らに気づかれないように動くことができるようになった点で功を奏したのだが、それでも、自分のせいで大切な人達に迷惑をかけた、と幼いながらに罪悪感と後悔にうなされた夜は忘れられない。
自分の持つ能力が使い方を誤れば、または使わせる者を誤れば、自らを滅ぼすと身に染みて学習したのだ。
けど、この親友というやつは、俺がこんなにも苦悩にうなされながら使う力のことについて、なんとも思わないことを知っている。だからこそ全てを伝えてやろうと思ってしまう。
「それを言わずに、自分の思いは抑え込んで彼女に最適な環境だけを提供する。決して踏み込みすぎないように、彼女が自ら治癒できる環境だけを。かっこいいじゃんか」
「……もういいよ、それ以上言わなくて」
「お前が親友で僕は誇らしいよ」
「やめろって…」
「泣く?」
「泣かん」
ふっと笑い飛ばしてから、足に力を込めて立ち上がった。
「僕が迎えに行って来るよ。きっとリヴェーラは、お前には弱い所を見せられないんだろうな。元義弟というのもあって。その点僕は今日知り合ったばかりの元義弟の親友。ほぼ他人に近いと、割となんでも打ち明けてしまうことはよくある」
「俺もお前が親友で良かったよ……。敵に回したら怖すぎる」




