ウィリアムの苦悩
「奥様、お食事ここへ置いておきますね」
微かにそんな声が聞こえたあと、奥様の部屋の中からアルカディル伯爵家別荘のメイド長が出てきた。
掃除の手を止めその様子を見ていると、メイド長の少したるんだ目元がぎっ!とこちらを睨みつけてきたので、慌てて何事も無かったように手を動かす。
「ポール、今メイド長が睨んでたのあなた?」
「…さぁ、人違いじゃないか」
隣で仕事をしていたメイドのサラが声をかけてきた。その後ろをメイド長が通り過ぎていく。
「また奥様の部屋に近づこうとしていたんでしょう。だめよ。絶対に近づくなとラッセル様にきつくいわれているじゃない」
ラッセル様というのは、かつてアルカディル伯爵家本邸で伯爵補佐を勤めていた方で、先代伯爵、現伯爵両者から厚い信頼を寄せられている。現在は孫に補佐の座を譲り、別荘の管理をしていた。
ここはアルカディル伯爵家の別荘で、ひと月ほど前から現アルカディル伯爵夫人が滞在していた。と言っても夫婦2人で仲良く息抜きと言うわけでもなく、何やら訳ありのようだった。
別荘へお越しになったのは奥様ただ1人。ラッセル様の孫である現伯爵補佐官の2人の妹は、奥様を愛してやまず、奥様から片時も離れないメイドであると聞いていたが、その2人のメイドすらもいない。
元々奥様が来られるという話は聞いていたが、このような形だとは誰も想像していなかったためにみんな混乱している。というのも、奥様はこちらに来られてからというもの部屋にこもりきりで、ラッセル様の前にしか姿を表さなかった。ラッセル様以外の使用人は、その姿すら見ていない。
「…お前は心配にならないのか?ずっと部屋にこもりきりで、何かあったに決まっているのに。それに奥様はお前と同じ歳だろ、なんか察せたりとか、ないのかよ」
「うーん…。ポールは奥様がこちらに来られた理由知ってる?」
聞いたことは無かった。いきなり別荘に滞在するとだけ言われ、その理由は説明されていない。
首を振ると、サラが背伸びをして、顔を寄せるように指示してきた。
「なんでもね、ご主人様が聖女様に首ったけらしいのよ」
「はぁ?」
しっ!と人差し指を立てられ口を閉じる。
「首ったけってどういうことだよ」
「言葉通りよ。聖女様の花婿探しが始まっているでしょう?そこに、ご主人様も名乗り出たらしくて、それで」
「…奥様は邪魔ってことか?」
言葉が悪い!と頭を叩かれた。窓拭きをするために壁にギリギリまで近寄っていた俺は、その弾みで鈍い音を立てて壁に頭をぶつける。
頭を擦りながら抗議すると、サラは腕組みをして頬をふくらませていた。
「旦那様はそんなことする方じゃないじゃない?あのラッセル様がご主人様は素晴らしい人だ、っていつも言ってらっしゃるくらいなんだから」
「…そうだな。じゃあ他の理由で奥様はあんな状態になってるってことか?」
「そこまでは私も分からないわよ」
「あなた達」
その声に2人してきゅっと肩を縮こませた。振り返って礼をする。
「はい、メイド長」
「段々奥様の部屋に近づいていってるわよ」
あなた達が掃除しなければならないのはここまで、とメイド長が廊下の角にある花瓶を指さす。
話をしている間に無意識に奥様の部屋の方へ歩いていってしまったみたいだ。
「申し訳ありません、私たち奥様が心配で…」
好奇心、興味本位というのも無い訳では無いが、心配していたのは事実なのでそう言うしかない。
メイド長は一度ため息をついて、困ったように首を傾げた。
「……まぁ、あなた達は長いことここで働いてくれているし、信頼していない訳では無いのだけれど、奥様は誰にも会いたくないと仰っているから、もう近づかないでちょうだい」
もう一度軽く俺たちをたしなめてから、メイド長は背を向けて歩いていった。その姿が見えなくなった途端にサラが息を吐く。
「あ〜怖かった!」
「そうか?ラッセル様よりは断然ましだろ」
「分かってないわね、あれくらいの歳のあれくらいの髪の長さのあんな感じの女性が一番怖いのよ」
「…そんなことを平気で言うお前がいちばん怖いよ」
◇◇
ここはアルカディル伯爵家別荘の執務室。所有主である伯爵が不在の時は、別荘の管理人が仕事部屋として使っていた。
管理人であるウィリアム・ラッセルは、年相応に皺が刻まれた手で書類を持ち上げ、一時間近く睨み合っている。
傍にフェンデル家の印璽が押された封筒が並べられており、そこにはリヴェーラ・フェンデルと記名がある。
「これは、どういうことなのだろうか…」
ウィリアムは小一時間、幾度となく呟いてきた言葉をもう一度口にし、紙をそっと置く。
金字で文字が入っているその紙は、この帝国で使われている、いわゆる離婚証明書だ。そこには自分の主の奥方であったはずの女性の名前が既に書き込まれている。
そして封筒に入っていたものはその紙と、もうひとつ。二年前、現伯爵が悩みに悩んで特注した結婚指輪だ。ウィリアムも主に助言をしながら設計したもの。懐かしさを覚えるのか、目の前に置いたそれを目を細めながら見つめている。
管理人の使う机の引き出しには、もう一通、リヴェーラ・フェンデルが差出人である手紙が入っている。それは、今回の手紙が届くことになる二週間ほど前に送られてきたものであり、ウィリアムが管理しているアルカディル家別邸へは来ないという旨が書かれている。
約二週間前、この手紙を受け取ったウィリアムは、夫人がここを訪れないことになった理由について、伯爵がそう指示したのだと思っていた。
つまり、伯爵が別邸に潜む危険に気づき妻の行き先を変更させた、ということだ。
どちらにせよウィリアムは、アルカディル伯爵夫妻はアルカディル家別邸に危険因子が潜んでいることに気づいているのだと思い込んでいたのだ。
そうでなくては、アルカディル伯爵家の武力と財力を保持しながらも、王都から外れているがために敵の注意が届かない、この絶好の隠れ家へ潜まない理由がない。
そのため、別邸に夫人が滞在しないことになったことを隠し、あたかも部屋に閉じこもっているように見せかけた。別邸に潜む刺客の注意を、少しでも長くこの邸に向けるために。
それなのにどういうわけか、夫人自ら手紙が送られてきた。それによって別邸にいるはずの夫人から手紙が届くというおかしな状況から、自分が仕留めるべき対象者はここには居ないと密偵にバレてしまった。
その意図がウィリアムには図りかねるのだ。
「奥様は、今こちらに送り込まれた密偵にこの別邸に居ないことが知られてしまっても、問題がない場所に隠れることが出来たということか。そうしてわざと敵側に自分はそこにはいないと伝えることで、別邸側の動きを軽くした、と」
顎の髭を撫でながら案を口に出してみるが、それならこの離婚証明書と指輪はなんだという話になる。わざわざこのセット付きで手紙が来た理由、それがウィリアムにはよむことが出来ていなかった。
どの方面から考えても、いや、もはやそういう問題では無い。この二つが送られて来るということは紛れもなく主人への離婚の突きつけ。そしてそれをウィリアムに預けるということは、然るべき時が来たら、これを夫へ渡してくれ、とそういうことだろう。
つまり奥様は、初めから何も知らなかった。いや、何も知らされていなかった。
「あ、ああの腰抜けが!!」
長年使えてきた主に暴言が飛び出したところで、ウィリアムは頭を抱えた。
「なんということだ…」
伯爵は、初めから妻には何も伝えていなかった。そして奥様は旦那の行動を、自分以外の女に懸想したと思い込んでいる。つまり自分は捨てられた、と。
詳細を聞かずにただ夫が聖女の元へ通いつめ、求婚し、自分には邸宅を出て田舎で療養しろと言われればそれはそうなる。
そしてこんな状況が出来てしまった原因、すべては彼女の夫であるウィリアムの主人だ。何を思って伝えなかったのかは知らないが、昔から妙な距離感がある夫婦だった。ウィリアムはまだ結婚して時が経っていない時期にしか二人に仕えていなかった。そのため新婚ならではの初々しさか、と思ってしまっていたのだ。
それがまさか結婚から二年経った現在でも継続し、しかもここまで盛大なすれ違いをかますとは、さすがにウィリアムにも予想出来ていなかった。
それもこれも恐らく自分の主人のせいなのだろう。一言大切に思っていることを伝えれば良かったのに、それを恐れた結果がこれだ。なんて臆病で腰抜けだ。先程のウィリアムの叫びを説明すればこうである。
「直ぐに旦那様に知らせなければ……」
便箋と羽根ペンを並べたところで、ぴたりとウィリアムの動きが止まる。
「…………」
その顔には苦渋の色が広がる。
もし今、奥様が離婚を決意したことを知らせたとしたら、伯爵はどのような行動をとるだろうか。間違いなく、任務の遂行に支障をきたすだろう。そうなってしまっては元も子もない。
アルカディル伯爵家に仕える者として、最優先すべきは主の任務遂行。それに従うのであれば今、ウィリアムが伯爵へこの事実を伝えるというのはそれに反する。
しかし、妻が伯爵にとって、何にも代え難い最も大切な方であることは事実。
「………」
主の任務と、その妻の存在、どちらも守り抜こうとするならば、ウィリアムがとれる行動はただ一つだけだ。
「パトリシア、いるか」
「はいウィリアム様、ここに」
「これを奥様のご実家へ届けてくれ」
「かしこまりました」
手紙を持った部下が部屋を出ていく。その様子を見ながら、ウィリアムは眉間に皺を寄せ、深く息を吐いた。
今回の件は、周りの者が気づくことが出来ていれば、起こることのなかった事態だ。本邸に仕える自分の孫は何をしているのか、と思いながらも、自分自身もっと早く気づけていればと、ウィリアムはそう自分を責めていた。
これ以上夫婦の溝を深める訳にはいかない。そうなればもう、取り返しがつかなくなってしまう。
伯爵は永遠に、最愛の妻を失うだろう。




