リヴェーラの旅立ち(2)
コトン、と静かにペンを置いた。まだインクの乾ききっていない便箋をそっと持ち上げる。私がまだ旦那様に嫁いで間もない頃、本邸のみんな同様、私に良くしてくれた別宅にいるアルカディル家のじいやに送るものだ。シワができないように慎重に机の隅に置いた。
その隣には、便箋よりも一回り大きい、金の文字が綴られた紙が一枚。そこには、リヴェーラ・リスト・アルカディルと、リヴェーラ・フェンデル。私のふたつの名前が書いてある。
それは、貴族の離婚を表すもの、離婚証明書だった。
先程震える手で書いたそれは、あと旦那様の署名さえ入れば、離婚を証明するものになってしまう。
貴族の間の離婚には儀式を有する。それに必要なものは二つ。ひとつはこの証明書、もうひとつは、夫婦の誓いの証、結婚指輪だ。
これらを神殿に提出し、証明書の上でふたつの指輪を割る。そうすることで離婚が女神ユノに認められ、成立する。
私がルーランチェへ旅立てば、手紙の一通が届くのさえ長い時間がかかるようになってしまう。離婚の儀式でさえ旦那様に迷惑をかける訳にはいかない。
いつ旦那様が私との離婚を望んでもいいように、証明書と指輪、これをアルカディル家別邸に預けていくことにしたのだ。
「…………っ…」
頬を伝う大粒の涙を手で抑える。どうしても涙をこぼさずにはいられない。こんなものすぐにでも破り捨ててしまいたい。
書きたくなかった。私が書かなければ、成立することの無い離婚。切れてしまうことのない私と旦那様の縁。でも、私にはこれをじいやに預ける義務がある。
涙が紙を濡らしてしまわないように、ぼやける視界でそれらを包み、留め紐を括る。私は、それをしばらく胸に抱いて、声を押し殺して泣き続けた。
指輪が外され、解放された薬指を、酷く寂しく感じながら。
◇◇
「じゃあねリヴェーラ、年に一回は帰ってきてちょうだいね。少しでも具合が悪くなったらリトレルに言うのよ。薬は必ず持ち歩くこと。絶対に無理はしないでね、ルーランチェは海に近いから、波風に当たりすぎると体に良くないからね。あと……。…あぁ、言いたいことが多すぎて……」
お母様は旅立つと決めた夜からこんな感じだ。ずっと私を心配してくれている。
頭を押さえるお母様の背中に腕を回し、暖かい体温を感じながら言った。
「大丈夫です。心配なさらないでください。精一杯、務めを果たしてきますわ」
そばに立っていたリトレルが口を開く。
「決してリヴェーラには無理をさせないと誓います。私のわがままでリヴェーラを仕事に引き込むのですから、最高の環境を手配しますし、大切にします」
決してリトレルのわがままでは無い。リトレルは私を救い出すために私を誘ってくれたのだから。にも関わらず自分のわがままなのだと言って私を庇ってくれているその優しさが、じんわりと胸にしみた。
「そうね、……リトレルがいるなら大丈夫ね」
安心したように、でもどこか寂しそうに微笑んだお母様をもう一度抱きしめ、それからお母様の後ろで立ち尽くしているお姉様に近寄る。
「お姉様」
声をかけた途端、お姉様の大きな瞳に水の膜が張った。瞳の新緑の色に涙が反射し、美しい粒がぽろりとこぼれ落ちる。
「本音を言うと、あなたが遠い所へ行ってしまうのがとっても寂しいわ…」
「お姉様…、私もです」
「でも、でもねヴェーラ。あなたのその魅力を最大限活かせる場所はここじゃないって、それだけはちゃんと分かるのよ。無理はして欲しくないけれど、一生懸命頑張ってきてね。そうしたら今までとは違った世界が見えてくるはずだから。あなたはきっと幸せになれるわ。…いいえ、ならなくちゃいけないのよ」
お姉様の愛が、胸が痛くなるほどに伝わってくる。それがわかった途端にお姉様と離れることが辛くなってきてしまった。
ぎゅっとお姉様のドレスの裾を掴むと、私の心がわかったのか、お姉様からそっと手を離された。
「もう行きなさい。時間が迫っているのでしょう」
ルーランチェへの道のりは遠い上に危険がない訳でもない。日が沈み当たりが暗くなってしまえば、それだけ道中の安全は確かなものでは無くなっていく。タイムリミットは迫っていた。
「……はい」
「ほら、リトレルが待っているわよ」
振り向くと、馬車の扉を開け、私に手を差し出しながら待ってくれているリトレルが居た。彼に微笑み返してから、もう一度家族に顔を向ける。
「では、行ってまいります」
「……行ってらっしゃい」
リトレルの手を掴む。その手にエスコートされながら馬車に乗り込んだ。うっすらと滲んできていた涙を拭っていると、目の前に座ったリトレルが馬車の窓を開け、その向こうを指さした。
見るとそこには、見送りには出てきていなかったはずのお父様がたっていた。
「お父様……」
馬が走りたがるように鳴き声をあげる。しばらく黙っていたお父様が、ゆっくりと口を開いた。
「……今生の別れでもあるまい。フェンデル家の娘ならばこのくらいのことで泣くな」
「は、はい」
相変わらずお父様の声に怯えてしまうところはあるけれど、私は薄々と気づいていた。あの日、皇宮へお父様が連れていってくださったのは、旦那様と聖女様の姿を見せるためだったのだと。
きっと私はあの姿を見なかったら今回のルーランチェ行きにはのらなかった。きっとこれは、お父様とリトレルの作戦だったんだと。
そう考えると、お父様がかねてから私の才能を認めてくださっていた、そしてその才能が発揮されないことを人一倍もどかしく思っていた、ということにも確信が持てるような気がしている。
私は自分にそう思っていただけるような才能があるとは思えないけれど、精一杯応えたい。今まで気づけなかった、お父様の愛に。
「……頑張りなさい」
「…はいっ」
「出発しますよ」
リトレルが声をかけ、窓を閉めてくれる。馬車が一度大きく揺れ走り出す。その刹那、目に入ってきた執事が大きく頷いた。手にはあの小包。私がこの場所を出発したら、アルカディル家の別邸に届けられることになっている。
反射的に手を握りしめたけれど、唇を噛んでその衝動に耐える。
迷ってはいけない。期待してもいけない。
この旅は、旦那様を忘れるためのものでもあるのだから。
いつも読んでくださってありがとうございます!この話で1seasonが終わりとなります。だからといって何も無いのですが笑
これからも応援してくださると嬉しいですm(__)m
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