旦那様と私の夜
カチャカチャと食器の音だけが響く中、私はごくんと喉を整えた後、静かに口を開いた。
「……本日の視察はいかがでしたか?」
途端に旦那様の手がぴたりと止まった。
旦那様は今日アルカディル伯爵家の領地の視察へと行かれていた。
領地の様子は視察に行かずとも書面で分かるものを、旦那様は定期的に見に行かれているのだ。領民を大切に思っている証だと私は思う。
視察の結果など聞かなくても分かる。
アルカディル伯爵家の領地は長年不況にも天災にも見舞われることなく、帝国内でも比較的安定しているのだ。旦那様たちの様子からも分かることだというのに私がわざわざ旦那様に質問をする理由は、旦那様との会話を続かせたいという思いからだった。
旦那様と私は夫婦でありながらも、食事の時しかこうして向かい合える時間はない。
間近にいる旦那様が言葉に表せないくらいに格好よくて、私は少しでもお話がしたいという図々しい欲求を抱いてしまうのだ。
沈黙が走ってからかなり時間が経った。
旦那様はその間私を一度も見ることはなく、そしてようやく口を動いた時は、強い光をともしたグレーの瞳が、私を睨みつけた。
「君がそんなことを気にする必要は無い」
「…申し訳ございません……」
その視線を見つめ続けることが出来なくなり目をそらし、俯いた。
夫婦とは思えないほど冷たい空気が流れるこの雰囲気は、別に珍しいことでは無い。私と旦那様の関係とは、こういうものなのだ。
がたん、と椅子の音が鳴り、はっと我に返って見上げれば、旦那様が椅子を立った後。
「食事はもういい。レイ、後で部屋に運んでおけ。君はもう部屋に戻って休むように」
旦那様は補佐官のレイにそう言いつけたあと、ご自分の執務室へと足を運ぶ。旦那様が扉の奥へ姿を消すまで、私を振り返ることは無かった。
バタン、と扉が閉まる音が響き、あとに残ったのは私を見つめるメイド達と、残ってしまった食事、そして、重たい静寂だけだった。
◇◇
部屋に戻ると案の定、ロロとリリが怒り狂った顔で私を振り返った。
二人とも双子らしく同じ顔、同じ体格、同じ髪型をしており、いまでもいきなり顔を突き出されると見分けがつかない。
今日は二人とも深いラベンダー色をした腰まである長い髪を二つのお下げにゆっており、その尻尾が振り返った勢いで私のドレスぎりぎりをかすった。
「今日も安定的に冷たかったですわ!」
「なんなんですの、あの態度!」
とても可愛らしい顔立ちをしており、私と一緒に外へ出れば何十人もの男性から声をかけられるというのに、今はそのような面影はどこにもない。
「君がそんなことを気にする必要は無い、ですって。聞いてたロロ?」
「えぇ。こんなに美しい奥様が話しかけてくださっているというのに、何故旦那様はあんな口を聞けるのでしょう!?もう、今度お会いしたら一回あの口ひん曲げて……」
さすがにそれ以上はこんな大声で言わせる訳にはいかないので、人差し指をたてて唇の前に持っていった。
ロロは私の仕草にすぐに気づき口を噤む。ただしまだ不服そうな顔をしている。ちなみに双子でもロロの方が姉であり、私の筆頭メイドであり、リリがその補佐役だ。
「旦那様はお優しい方よ。そんなふうに言ってはだめ」
「どこがお優しいのですか?結婚してもう二年も経つのに、未だに奥様のことを名前で呼ばれないんですよ」
それは本当のことだ。旦那様は一度でもリヴェーラと呼んでくださったことはない。いつも君、と呼ぶ。
それでも私はそもそも呼ばないだとか、お前だとかよりはましだと思う。
「私はいまのままで充分よ。それに、……こんな私を妻にしてくださったんですもの。この国に旦那様ほどに慈悲に溢れている方はいるかしら?」
そう。旦那様と私は恋愛結婚ではない。
国のための、政略結婚だった。
旦那様がもし、もし私を好いて求婚してくださったのならと、何度も考えたことがある。そんなはずはないのに。
皇帝陛下からの命でなければ、旦那様が私に求婚して下さることなんて、天地がひっくり返ってもないだろう。それぐらいに私は、妻にするには面倒がすぎるのだ。
「……奥様はこんな、じゃありません!この国に奥様ほどお美しくて優しい方なんて居ないんですからね!」
まだ顔を赤くしているのはリリだ。ロロはもう黙りこくっている。
いや……ロロも拗ねているのかしら……、と思いながらも、リリにちょっと待っててと声をかけて、ベッドの上に置いてある丁寧にラッピングされた箱を持ちあげた。
「さっきレイがくれたものよ。シュゼットのオーターのお土産ですって」
リリにそれを渡すと、前に突き出されていた唇が引っ込み、そしてあっという間に弧を描く。
シュゼットとは、ランドルアディスで最も人気のある洋菓子店だ。庶民から王族まで絶大な人気を誇り、帝国内にいくつもの支店を持っている。名がシュゼット・マルコというため、洋菓子店シュゼットという。
そのシュゼットで一番人気であり、開店当時から残り続けるメニューであるオーターとは、クッキーよりも柔らかく、スポンジよりも硬いような不思議な生地でバニラクリームとフルーツを挟んで、さらにその上から粉砂糖をふりかけた甘い甘いお菓子だ。
あまりにも人気すぎるため、開店時間からわずか半刻で売り切れたという伝説的な記録を残している。そのため、本当に滅多に食べられないのだ。
「しかも新作だそうよ」
「まぁぁぁ!本当ですか!?」
お菓子が大好きなリリの機嫌はあっという間に直ったようで、目をキラキラされながらピンクのリボンに包まれた箱を眺めている。
「私はいいから、あなた達だけで食べて」
途端に二人の顔が曇ってしまう。そんな顔をされても食べる訳には行かないので、苦笑いをしてしまう。
「これは奥様に渡されたものなのですよ」
「そうです!私たちにくださるのは嬉しいですが、奥様を差し置いて全部食べてしまうだなんて出来ません」
リリが返そうとしてくるが押しとどめる。
「いいの。私は旦那様からのお土産だけを受け取ることにしているから」
実は結婚してまもない頃、ある男性から貰ったお土産を食べていた時、咎めを受けた時があったのだ。アルカディル伯爵家に嫁いでおきながらその有様はなんだ、と。
アルカディル伯爵家は伝統ある家門だ。確かに、新婚であるにもかかわらずあの行いは良くなかったと今では分かる。
すぐに謝ったのだけど、旦那様には許して頂けなかった。
他にも、とある貴族の令嬢から送られたネックレスをつけていたら不機嫌なお顔になってしまわれるし、香水の時は問答無用でお風呂に入れられた。
きっと旦那様は、他の方の物が身近にあることが嫌なのだと思う。
「いいのよ、全部あなた達で食べて。いつも真面目で可愛らしい子達にはプレゼントをあげなくてはいけないしね」
少しおどけて言うと少し罪悪感が晴れたようで、お互い顔を見合わせている。あともう一押し!と意気込み、二人に顔を寄せる。
「今回の新作、女性に優しい低カロリー仕様だそうよ」
「「…………」」
「ね、お願いよ、二人で食べて頂戴。じゃないと私が後でお叱りを受けてしまうわ」
むぐぐ、といった顔になった二人だが、しばらくしてロロが息を吐いてこう言った。
「……そこまでおっしゃるのなら…………」
「そうねロロ……」
「メイド達への褒美にしましょう!」
「えええぇぇ!?どうしてよロロ!」
大絶叫のリリである。
「奥様がお食べにならないのに私たちが食べてどうするのよ、レイ様からメイドたちへの褒美ってことにして、みんなで食べましょう」
完全に自分と姉二人で食べられると思っていたリリは愕然として、信じられないと言った顔でロロを眺めている。
それがおかしくてくすくす笑いながらドレッサーの前の椅子に座る。
「さぁどうするのかしら?リリ」
肘置きに肘をついて言うと、リリは今年で一番の悩みの顔を披露してくれた。
眉根は寄せられ、鼻はひくひくと動き、口は固く閉ざされている。その手は顎に置かれ、未練がましく視線はお菓子箱に釘付けだ。
「…分かったわ。そうよね。私たちと奥様は一心同体よ」
「そうよ。よく言ったわ」
お菓子一つでこれ以上ないくらいに真剣な顔をしている二人がどうしようもなく面白く見えて、私は久しぶりに体重を背もたれに預けて笑い転げた。
リリ、あなたなんて顔しているの、と言おうと口を開いた時、突然ドアがノックされた。
あんなに和やかだった空気が一瞬にして冷えきる。もう夕食は終えている。こんな夜更けに私の部屋を尋ねてくる用件は決まって一つ。
「…ドアを開けて」
複雑な表情で私を振り返っていたロロに言う。ロロは何かを言おうとしかけたが止め、そして言う通りに扉を開ける。
そこに立っていたのは、旦那様付きの補佐官、レイ・ラッセル。二十六という若さにして旦那様の補佐官を務める秀才であり、彼女達の実の兄だ。
「今夜旦那様がお部屋をお訪ねになられるそうです」
レイはロロとリリの実の兄だが、いささか感情に欠けている。
いつも元気で活発な二人とはまるで違うのは、先代の旦那様の補佐官であるレイの祖父の指導によるものなのだろうか。
私はその方に会ったことは無いけれど、いつもは可愛い孫を愛するただの老人のようだが、人を指導する時は般若と化すらしい。
ロロはそんな兄を睨みつけでもしたのか、レイはさすがにその妹の表情に眉を顰めている。兄弟喧嘩位はするらしい。
部屋を訪ねる。
それを伝えに来た今が夕食後であり、風呂前であるのはそういうことだ。
「分かったわ、ありがとうレイ」
扉が再び閉じられ、リリがパタパタと駆け寄ってきた。
「奥様……」
「ロロ、リリ、準備をお願い」
旦那様が夜訪ねてこられるのは特に初めてのことでもない。普通の夫婦よりも回数が少なかろうと、さすがに結婚二年目ともなれば数え切れないほどにはなる。
ロロとリリが悲しそうな顔をしているのは、それが愛がゆえではなく、義務がゆえだから、なのだろう。旦那様からしてみれば当たり前のことだ。
愛して結婚した女ではない。敬愛する皇帝陛下からの命で仕方なく、なのだ。
それでも夫としての務めを果たそうとして下さる旦那様を拒む理由はもちろんない。
恋人同士のそれではなくても、それでも、私にとっては慕う方に抱いてもらえるということなのだ。これ以上の幸せはない。
「……幸せよ…」
この呟きはロロとリリにも聞こえてはいないだろう。
絶対に関われるはずのなかった方の妻となり、妻としての役目を果たせる。それだけで、例えようもないほど幸せなはずだ。
はず、なのに、
旦那様に抱かれている時、私はいつも、悲しみの涙を流してしまっていた。