リヴェーラの旅立ち
「お嬢様!」
馬車から降りた私にすぐさま駆け寄ってきてくれたメイドに支えられながら家の中に入る。玄関ホールにはたくさんの使用人たちが心配気な顔をして立っていた。
「お嬢様大丈夫ですか!?」
「しっかりなさってくださいませ。直ぐに先生が来ますから!」
そこへ誰かが駆け寄ってきた。もう誰なのかは判別出来ないが、恐らくドレスの色からしてお母様と主治医だろうと予想が着いた。
「ヴェーラ!!」
「お嬢様、動かないでください。発作症状が出ています」
お母様が私の肩に手をかけ、先生が私の顔をのぞき込む。処置道具を広げ、恐らくこのままここで処置をする予定なのだろうけど、私はお母様の腕を握った。
「いいのです。一人にしてください」
俯いたままそう言うと、お母様が信じられないというように首を振って、震える私の手を握りしめた。
「ヴェーラ、でも、早く治療をしないと……こんなに苦しそうじゃない!」
「……私は大丈夫ですわ。これくらいは軽いものです。誰か、私を部屋へ連れていってくれませんか。一人になりたいの」
「ヴェ、」
お母様の手を解き立ち上がる。視界は白く濁り息苦しさを感じる。それでもこれくらいはなんともない。伯爵邸にいた頃はもっと酷い症状だったのだから。
一人のメイドに支えられながら部屋に入り、扉を閉め閉じこもった。
「はぁ、……はぁ……っう」
苦しい。苦しい、苦しい。
心がざわざわと落ち着かない。例えようのない恐怖と孤独感が私を襲う。クッションに顔を埋めてはぁぁ、と深く息を吐いてみるけど治まらない。
頭に浮かぶのはあの光景。木漏れ日が差す中庭で、微笑む旦那様と、それを受けて幸せそうに笑う聖女様。
嗚咽が漏れ、クッションに染みを作っていく。
もう全てが嫌になってしまった。でも、何が嫌なのか分からない。
もう全てを捨ててしまいたくなってしまった。まだ何か捨てるものが残っているのかも分からない。
もういっそ、消えてしまいたい。そう思いながら声を押し殺し、涙を流し続けた。
◇◇
トントントン、と、扉をノックする音が聞こえたけれど、動く気にはなれなかった。体が酷く重くて、頭がぼんやりとする。じくじくと痛み続ける胸を手でおさえていた。
「お嬢様……。………………」
かける言葉がないのか、それきり黙ってしまう。
気を使わせてしまっているんだわ。私がこんな態度をとっているから。あぁ、私はどこまでもみんなに迷惑をかける。どこに行っても、何をしてても。当たり前だわ。私は私。素敵な人達に囲まれていたって、私に優しくしてくれる人が大勢いたって、私は私なんだもの。
「…………お嬢様にお会いしたいという方がいらっしゃっています」
こんな時に私に会いに来る人なんて見当もつかなかったけれど、どの道こんな姿で会うことなんて出来ない。
皺だらけのドレス。ほつれた結髪。泣き腫らした目元は酷い有様だろう。
「……………丁重に、お帰りになってもらって」
「あ、困ります!!今お嬢様は……、ちょっと!!」
突然扉が勢いよく開け放たれ、私は驚いて顔を上げる。暗い室内にあかりが差し込んできた。扉の前に立っていたのは、懐かしい人だった。
「……え…」
「……少し、話しませんか。半年ぶりの再会ですから、きっと笑えるような話も用意していますよ。…………義姉さん」
赤みを帯びた茶髪に、チャコールグレーの瞳。旦那様とあまりにもよく似た顔立ち。
「……リトレル」
旦那様の弟だ。
リトレルは後ろ手で扉を閉め、静かに私に近寄ってきた。暗い室内に無理に灯りをともすことなく、私に何か声をかけるでもなく、リトレルはそのまま私の隣に座り込んだ。
リトレルは私の義理の弟にあたる。こんな私にもとても良くしてくれて、直ぐに打ち解けることが出来た相手だった。外交の仕事をしているリトレルとはあまり会ったことは無いけれど、その度に私を気遣ってくれていた。会うのは今年の春過ぎ以来だろうか。
「こんなところじゃなくて、ソファに座って…」
「俺にまで気を使わないでください」
ぴしゃりと言われて驚く。今までリトレルにこんなふうに言われたことは無かった。こんなに真剣な顔をしているのも見たことがない。
「……こんなに、傷つけられたのですか。兄さんに」
強く唇を噛んだと思えばそんなことを呟いた。
「……リトレル?」
「一体どういうことなんですか」
リトレルは私の方を見ていない。ひたすらに顔をうつ向け、怒りをこらえているかのようだった。
温厚なリトレルからは想像のつかない姿で、私は体を起こしてリトレル顔を覗き込んだ。
「どうしたんですか?どういうことって、何が……」
「兄さんが義姉さんをこんな目にあわせていることです!」
大声に思わず肩が跳ねる。それに気づいたのか、リトレルははっとしたような顔をして、すみません、大丈夫ですよ、と言うかのように首を傾げた。
リトレルは怒っているんだ。私にでは無く、旦那様に。
ずきりと胸が一際傷んだ。ロロとリリに始まり、みんな旦那様に怒りを覚えていっている。私のせいだわ。リトレルと旦那様はとても仲が良かった。貴族たちに遠巻きにされる弟のことを、旦那様はいつも庇っていたもの。
「……リトレル、怒らないでください。…私なんかよりも、聖女様と一緒になった方が、旦那様の…」
幸せなんです。
そう、幸せになる。私と一緒にいるよりも、愛する女性と共に生きる方が幸せに決まっているのだから。
「……まだ、旦那様呼びなんですか…」
「え?」
「それでいいんですか。義姉さんは兄さんを愛していて、兄さんも義姉さんを愛しているのに」
暗がりで顔はよく見えないけれど、声がリトレルが苦しんでいることを物語っていた。
旦那様が、私を愛しているはずがない。私なんかを愛することがそもそもありえないし、……愛してくださっていたのなら、聖女様と結婚なさることなんてない。
「……リトレルはいつもそう言ってくれますね。ありがとう」
私がそれを否定したことがこの言葉で分かったのか、リトレルは身を乗り出して声を荒らげた。
「そんなことはありません!兄は本当に……」
「いいんです、もう」
リトレルをわざと遮った。リトレルが気を使ってくれているのは確かだ。これ以上身の狭い思いをさせたくない。
「…今日、皇宮でお二人を見かけました。旦那様は聖女様のことをジゼル様と呼び、聖女様も旦那様のことをリアム様と呼び、旦那様は、」
言葉にしただけでぶわっと抑えていたはずの涙が込み上げてくる。
「聖女様を、とても大切にしておられるようで……っ、
―〜っ、私は、名前すら呼んでいただけなかったのに…っ!」
「……!」
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙を手の甲で塞ぐ。義理の弟の前でこんなに泣きじゃくって、あまつさえ兄を悪く言うだなんて、酷く愚かなことだと分かっている。
だけど、抑えられなかった。これ以上しまい込んでいたら、心がどうにかなってしまいそうだった。
「私は、恩知らずです。病持ちの私を娶ってくださって、無下にも扱わず、仕事を任せてくださったのに、私はまだ望もうと……旦那様に名前を呼んでもらいたい。一度でいいから微笑みかけられたい。………私だって、旦那様に愛されたかった…………」
「……っ」
突然、体を引き寄せられ、次の瞬間抱きしめられていた。リトレルの腕が体に回って、その体温が肌に伝わってくる。
「もう、もういいです。…義姉さんのような人は兄には勿体ない。義姉さんはこんなふうに扱われていい人じゃない。人一倍苦しんでいるのに、誰よりも人々を救っている存在なのに、……………………本当は、一番愛されなくてはいけない人なのに……っ」
腕の力が強くなって、私は息苦しさから目を閉じた。
「リト、レル………?」
「俺と一緒に来ませんか」
一瞬言われたことの意味が分からず押し黙る。ゆっくり拘束を解かれ、私は気の抜けた顔でリトレルを見た。その顔は決意に満ちていて、目尻に光るものがあった。目をそらすことが出来ずに、吐息のような声を漏らした。
「……ぇ………?」
「いつまでも兄に縛られている必要なんかない。俺と一緒に来ませんか。少なくとも今よりは、あなたを幸せに出来る自信がある」
「行くって……どこに」
「……ルーランチェという街をご存知ですか。レラントとの貿易において主要とされている港町」
レラントというのは、長い間この国と友好関係にある隣国で、十年程前にもこの国の貴族令嬢が王太子妃として嫁いだ国だ。
私の腕から完全にリトレルの手が離れ、私は無意識にまだ熱を持っているそこへ手をやった。
「こんなふうになっている義姉さんを放っておけない。だから、俺に付いてきてくれませんか。ルーランチェで、あなたはきっとここにいるよりもずっと、輝けるはずです」
「…………ルー、ランチェ…」
ルーランチェは、ここ、帝国の中心からかなり遠い。馬で行ったとしても夜通しで二、三日。馬車で行ったとしたらその三倍以上の日数が必要になる。そこへリトレルと共に行ったとしたら、簡単にお母様たちとは会えなくなるし、もちろん、旦那様とも。
「義姉さんは確か、複数の言語を学んでいましたね。兄さんの力になるためにと、たくさんの本を読んでいたのを覚えています。だけど、兄さんは義姉さんをおりに閉じ込めて、義姉さんはその才能を使えていない」
「才能……、だなんて、私にはそんなもの」
「いいえ。俺が保証します。俺と共にルーランチェへ行ったら、義姉さんはきっと誰よりも美しく輝く、帝国の宝となります」
はっきりと言いきられ、困惑した。どうしてリトレルはこんなことを言っているの?私が帝国の宝?宝物とガラクタを比べてはいけないわ。
「……私は、輝くことを望んでいる訳ではありませんよ」
「分かっています。だけど、いつも思っていました。俺の仕事仲間の中に義姉さんがいてくれたらと。……いえ、こんな俺の願望はどうでもいい」
苦笑してから、私の手を取ったリトレルは、大きな手のひらで私の手を包み込み、穏やかな笑顔を向けた。
「きっと、義姉さんの生きる意味を、見つけられるはずです」
困惑から、手を引き抜いてしまう。
私は、生きている意味なんかない病持ち。たくさんの人に、愛する人にまで迷惑をかける邪魔な女。
いっそ消えてしまいたいと思うほどに、私の人生は意味なんて持ち合わせていなかった。
「損得で考えてしまえばいいのですよ。このままここで暮らしていくのは、兄さんの姿を見る度傷ついていくだけ。ルーランチェへ行ったら、今よりもずっと幸せになれるかもしれない。…だったら、少しでも可能性のある方へ行ってみるのはどうですか?」
再度手を掴まれ、ポンッと膝の上に縫い付けられる。今度は離さないとばかりに握っているのだが、その手は小刻みに震えていた。それに気づいて驚いて顔を見上げると、顔は満面の笑みだった。
私を、安心させようとしてくれているんだわ。
リトレルは私を救おうとしてくれている。こんなにも真摯に向き合って。
それが分かった瞬間、私の心は決まった。
リトレルの言う通り私の生きる意味が見つかるかなんて分からないけれど、ルーランチェへ行ったら、家族の迷惑にはならなくなる。それに、旦那様と聖女様のことについての記事で、涙をこぼす毎日とも別れられる。
もしかしたら、全てを忘れて、生きていくことが出来るかもしれない。
「……」
今度こそ手を握り返し、息を吐いてからリトレルの目を見つめる。
「行きます。ルーランチェ」