旦那様の本音
「あぁ……。上手くいかないです……」
目の前でわざとらしくため息をつく聖女、花が咲きほこる見た目は美しい庭園。遠目でこちらを監視する聖女のメイドたち。その全てにうんざりしていた。
「今すぐに出来るようにならなければいけないものではありませんから、焦らなくて大丈夫ですよ」
「ありがとうございます、リアム様は本当に優しいですね。でも、どうしても焦ってしまうんです……」
少し憂いを帯びた悲しげな笑顔。それでいて目の奥に光る決意の色。確かに、誰もが彼女こそが聖女だと思うであろう表情をする。
この女は、それが俺には通用しないとは思っていないのだろう。並外れた魔力を持っている聖女はいかなる魔法でも意のままに操ることが出来るはずだ。だがこの女がいつまで経っても魔法が上達しないのは、ひとえにその気がないからだろう。
中でも治癒の魔法など、これまでの聖女に関する資料によると、無意識でも使えるような基本だと記されていた。にも関わらず降臨してかなりの時間が経っている今でも成功した例はない。
この偽聖女は、その力を使って民を救うことではなく、自分が権力を持った座に就くことしか考えていないのだ。
このような聖女は権利を剥奪されて当然なのだが、面倒なのが聖女派の貴族の奴らだ。幾度となく持ち上がる聖女への不審感にありとあらゆる理由をこじつけ、剥奪を阻止してきている。
聖女派の筆頭は帝国でも重要家門の侯爵家。簡単にはその壁を突破することが出来ず、こうして回りくどい策を講じているという訳だ。
「だって私が早く治癒の魔法を使いこなせるようにならないと、救えるはずの命を取りこぼしてしまうかもしれないんですから……」
よくそんなことが言える、と静かに息を吐く。一向に使いこなせるようにならない治癒の魔法。努力する素振りもない割に口だけは達者に命を救いたいという。救える命が取りこぼされるのは主に戦場や貧困街だ。そこへ行く勇気もないくせに何を聖女ぶるのか。
本当に命を救おうとする人は時間も資産も努力もおしみなく使う。孤児院を建て、頻繁に出向き、子供たちに寄り添い、気づけば病人の手当をしていることもある。
そんな彼女をとても誇りに思うし、同時に自分の個人資産ばかりを削ってしまうことや、倒れてしまわないだろうかと気をもんでいるこっちの気も知らずに、平気で病院へ乗り込んでいってしまうこと、まったく自分を頼る気配のないことにどれだけ歯がゆい思いをしたか。
それに対してこの女は自分のことしか考えず、民のことは二の次。
「聖女様こそお優しいです。人々の為にこんなにも自分に鞭を打つことは、誰にでも出来ることではありません」
いつまでこの茶番を続ければいいのか。優しげに見えているであろう笑顔を顔に張りつけたまま、後ろ手で草を引きちぎった。
「……ふふっ、ありがとうございます。ところでリアム様!あれほど名前で呼んでくださいとお願いしたのに!」
舌打ちしそうになった所をこらえる。聖女の機嫌を損なわせる訳には行かない。
「ジゼル様」
女は満足そうに笑みを深くした。気持ちが悪い、としか思うことは無い。
聖女の相手など、ヴェーラを愛している自分には到底出来ないことだと思っていた。だが時が経つにつれ、まわりも聖女の婚約者候補筆頭だと認めるほどに、それは板に付いていた。
簡単なことだった。聖女をヴェーラと思えばいい。いつも心の中だけでしか呼べなかった名前。いつも微笑みかけたかったのに、彼女を前にすると強ばってしまっていた。
些細なことでも褒めて、甘やかしたかった。伯爵夫人としての仕事を完璧にこなしてしまう君。あっという間に使用人たちに好かれる綺麗な心を持ち、俺さえいなければ花が咲くように笑い、夜会へ出れば会場中の視線を集めてしまう妻のことを。
目の前で聖女の甲高い笑い声が響く。ヴェーラの笑い声は扉越しでしか聞いたことは無い。俺の前ではいつも泣いていた。いつも、泣かせていた。
俺が君と向き合うことを恐れるが故に、君に拒絶されたら立ち直れないと、臆病な故に、君を傷つけ続けていた。
今回任務の件も、レイの言う通り全て打ち明ければ良かった。君の賢さにこじつけて、分かってくれているだろうなんて言い訳をして、君を遠ざける理由を伝えられなかった。
リヴェーラの居ない生活がこんなにも色を無くすだなんて想像もしていなかった。正直、もう既にまいってしまっている。リヴェーラの安全のための距離であるのに、なぜだか、もう二度と縮まらない距離のように感じてしまう。
それが自身に得体の知れない焦燥感を与えてくる。リヴェーラの居ないこの先の人生を、容易に想像させてくる。
このじりつく感情には、長く耐えられそうになかった。
一刻も早くこの任務を終わらせて、すぐにでも迎えに行きたい。そして今度こそ、リヴェーラに謝罪をしよう。全ては俺のせいだったと。君を失いたくないがために、汚い独占欲のために縛り付けていたと。
リヴェーラに贈られる土産にさえ嫉妬していたこと。リヴェーラが体調を崩した時も、どう思われるのか恐れて、君が眠りについてからしかそばにいなかったこと。リヴェーラが二人での外出はよそうと言った時、きっと君の予想している何倍も俺は打ちのめされ、あんなに酷い言葉を投げつけたこと。その次の日に、それまで俺が直接用意していた独占欲の塊であるドレスたちを着せているのが申し訳なくて、全てを仕立て屋に丸投げしたドレスを贈ったこと。それで君が傷ついたことも知っていたのに、謝りに行かなかったこと。
…いや、一番の罪は、君を妻にと、望んだことだ。
「旦那様」
突然レイが駆け寄ってきて、はっと我に返る。目の前の聖女は邪魔をされたとでも思っているのか、レイを睨みつけていた。失礼、と言ってから立ち上がり、レイに耳を寄せる。
「なんだ?」
「……その、」
レイにしては歯切れが悪く、聖女を気にしている様子から、少し離れて再度聞く。
「……先程、フェンデル侯爵が皇帝陛下へ拝謁したそうです」
「……なに?」
フェンデル侯爵が皇帝に拝謁した。それもこのタイミングで。
「動き始めてしまったか」
「……えぇ」
この作戦を遂行するに当たって一番の難所がヴェーラの父、フェンデル侯爵だった。何を話したかは想像がつく。
二番目の娘はあまり可愛がっていないというのが貴族の中での噂だが、はたしてそうだろうか。
「問題ない。皇帝が時間を稼ぐはずだ」
「……その」
「まだ何かあるのか?」
そろそろ聖女が痺れを切らして近づいてきている。貴族の、しかも男性貴族の会話中に話しかけることはご法度中のご法度だ。礼儀知らずにも程がある。
「…奥様も、いらしていたようです」
「……なに?」
「奥様を見かけたという者から話を聞きました。皇帝陛下の元へまでは行かなかったようですが、侯爵と共に皇宮へはいり、……青ざめた顔をしてお一人で先に帰ってしまったのだと」
「どういうことだ。まさか体調を崩した訳では無いだろうな。一人で帰るなどあまりにも危険だ。途中で発作を起こしたら……!」
「あの……リアム様?そちらの方は……」
聖女の声がすぐ近くで聞こえてはっと我に返る。
「……いえ、なんでもありません。申し訳ありません一人にしてしまって」
「いいえ、そんなことは……。体調を崩した方がいらっしゃるのですか?リアム様がそこまで気にかけるなんてリアム様の大切な方なんですか?一体誰ですか?」
礼儀知らずな行動に加えて、まだ会話中なのが見て取れる状況での質問攻めに、さすがに不快感を隠せない。隠したくもない。何故こんな女をここまで丁寧に懐柔する必要がある。さっさと殺してしまえばいいものを。
混み上がる殺意とヴェーラのことを心配するがあまり、つい口に出た。
「妻です」
先に離れていたレイが遠くで焦ったように片眼鏡をかけ直しているが、言ってしまったものは仕方がない。
「つ……ま?」
「……ええそうです」
「妻って……。だって、リアム様は私に求婚しているじゃないですか!私のこと、愛しているんでしょ!?」
「もちろんです、聖女様にならどんな男でも求婚するでしょう。もう帰りましょうか。あまり遅くなってはメイドたちに心配されますよ」
今日はもう無理だな。これ以上耐えられる気がしない。レイに目線をやると意を汲み取ったようで、頷いてからはっとしたように胸ポケットから懐中時計を取り出した。
「いけません旦那様、本日はこれから商人との会談をなされる予定です」
「そうだったな。申し訳ありませんジゼル様、本日はもう行かなければならないようです」
「リアっ……」
「ですが愛しいあなたを一人で部屋へ帰らせるのは心配です。あなたを慕う邪な男にでも遭遇したらと思うと胸が締め付けられます。もしよろしければ私の信頼する者を連れていってください」
「………」
愛しいあなた、という飾りで幾分か機嫌を直したのか、口をとがらせながらも頷いたのを確認して背を向ける。首元をしめるネクタイを緩め、早足でその場を去った。