リヴェーラと父(2)
久々の外の空気は少し寒く感じられた。馬車をおり見上げると、真っ白な城壁。
ここへ来るのは何ヶ月ぶりだろうか。ここでの記憶はあまり良くない。そもそもここへ訪れるのも、皇室主催のパーティーへ旦那様のパートナーとして行った時以来だ。
パーティーでは旦那様の後ろで誰と話すでもなく立ち尽くすだけ。旦那様が離れなければいけない時は騎士に連れられ部屋の中に待機。旦那様がいなければ何も出来ない夫人だと、参加者全員に思われていた。
あの時から私は、何も変わっていない。一人じゃ何も出来ない愚かな女。
「来なさい」
「はい」
お父様がコートの裾を翻した後を追う。私よりも頭一つ分ほど背の高いお父様は、そこにいるだけで威圧感を放つ。途中通りすがった人たちも、足をとめ、拝礼していた。
その度に後ろに続く私に向けられる視線が居心地悪い。あれが夫に捨てられた伯爵夫人かと、どうして父親について来ているのかと、そういう視線であることが手に取るように分かる。
「……背筋を伸ばしなさい」
はっとして見上げると、お父様がちらりとこちらに視線を流した。
「お前はフェンデル侯爵家の人間だ。背を丸める必要は無い。私の隣にいる限り、お前を否定する者はいない」
その声音と目元があまりにも優しげに感じられて目を見張った。
お父様が、こんなことを言うなんて……。
「……はい」
ぐっとお腹に力を入れて顔を上げると、太陽の光がキラキラと視界を照らしている。世界はこんなにも明るかったのかと、その心地良さに目頭が熱くなった。
「ここで待っていなさい」
それからしばらく歩き続けて、皇宮の中央、つまり帝国の皇帝陛下がおられる広間の扉の前で、お父様が言った。
「はい。分かりました」
お父様が扉の中へ入ってしまってから、辺りを見回す。扉の前に立つ護衛二人以外辺りには誰もおらず、静まり返っていた。
そのまま護衛の前にたち続けるのも気まずいので一礼してから歩き出す。特にどこへ行くという訳では無いけれど、皇宮の中であれば安全は保証されているし、お父様もしばらく時間がかかるだろうから、問題は無い。
特に何も考えずに少し歩いた。笑えるような気分ではないけれど、それでも心が楽になっている気がする。
そろそろ道が分からなくなってきて、引き返そうとしたその時、たたたっと足音が聞こえ、その場で立ち止まる。軽やかな声と共に、目の前を一人の少女が横切った。
「リアム様!」
どくん、と心臓がなる。一気に体が冷たくなっていったのが分かった。
今……なんて……?
通り過ぎていった少女の髪色、そして、彼女が呼んでいた名前が頭にこびりついて離れない。
今、私の目の前を通り過ぎたあの人は、まさか。
「リアム様、これ、私が作ったマフィンです。よろしかったらどうぞ」
一歩、そしてまた一歩踏み出す。柱に手を突き、目の前に広がる光景に体を震わす。
「ありがとうございます」
旦那、様……。
中庭に花に囲まれてたつ旦那様を見て息を呑む。聖女様から渡される可愛らしい贈り物を受け取っている姿は、仲のいい恋人そのものだ。
私へ向けられる時は冷たいように感じられたチャコールグレーの瞳。それが今は、聖女様へ向けられている。優しげに細められたその目尻を認めた瞬間、私は咄嗟に視線を引き剥がした。
どくどくと強くなる胸を押さえつけて、口元を押さえた。
「今日いらしてくれると聞いて、とっても嬉しかったです。朝からはしゃぎすぎてメイドたちに怒られてしまいました」
可愛らしい高い声。堅苦しくない、打ち解けやすさを感じさせる話し方。全てが私とは違う。
旦那様は、聖女様の力が欲しくて求婚したものだと勝手に思っていた。聖女様のもつ治癒の能力は素晴らしいもので、聖女様と結婚すれば大きな権力を手に入れることが出来る。
私は、てっきり政略結婚に近いものだと思っていた。それで私は要らなくなったのだと。
もし、そうじゃなかったとしたら……?旦那様が、聖女様に恋をして、愛し合って結婚するのだとしたら……?
「……っ」
「あ!そうだ、今日のドレスどうですか?メイドたちが張り切って着せてくれたんですけど、リアム様に感想を聞いてくるといいって」
旦那様が私の服を褒めてくださることなんてなかった。気にもとめてくださってなかった。私がどんなに時間をかけて着飾っても、リリとロロに頑張ってもらっても、旦那様は何も言わなかった。
「とても似合っています。紫が本当にお似合いになられますね」
そんな優しい声で話しかけてくれたことなんてない。どんな色を纏った私が好みなのか教えてくださったことも無い。
「ジゼル様」
私の名前さえも、呼んではくださらなかったのに。
「?」
陛下の御前を辞した侯爵は辺りを見回すが、娘の姿はどこにもない。
「娘はどこへ行った?」
護衛に聞くも、二人とも首を振る。皇宮の中だ。危険はないだろうが、少し待たせすぎてしまったか。そう言うかのように眉をひそめている侯爵のもとに一人の侍従が近づく。
「フェンデル侯爵様、アルカディル伯爵夫人は既にお一人で帰られました。馬車に乗って帰られたので、侯爵様を邸宅までお送りするよう仰せつかっております」
「……………」
長い沈黙の後侯爵は、そうか、と低くつぶやく。何かを悟ったようなその横顔は、確かに娘を案じる父の顔であった。