リトレルとリアム
ガリガリと、ペン先が紙の上を走る音だけが響いていた。無機質な音が鳴り止まないこの部屋は、アルカディル伯爵家の執務室である。
業務を行っているのは他でもない伯爵であり、その補佐官は、主人の不機嫌の憂さ晴らし相手にならないように息を潜めていた。
「……次」
「…おめでとうございます旦那様。全て終了致しました」
「子爵との取引はどうなってるんだ?」
「現時点で進めることは何もありません。書類仕事はそれだけでございますし、取引に関するものは全て私めが昨夜終わらせてしまいました」
仕事を終わらせたと言うのに主人から睨まれていてはたまったものでは無いが、それを指摘する権限は補佐官にはない。
何故ここまでにリアムが仕事に精を尽くしているかといえば、そうせざるを得ない精神状態のためである。ここ最近のリアムの精神状態は常に不機嫌、不安定。理由としては彼を癒すものが彼の元から去ってしまったからだろう。
「ではこれから子爵の元へ行こう」
「…まだ何も進んではいないかと」
「今後の予定を立てることくらいは出来る」
補佐官は安堵した。なぜなら、白羽の矢が自分ではなく子爵に立ったためである。
「…では、そのように……」
「おまちください!伯爵様は執務中でございます!!」
「お待ちを!誰か!!」
急に騒がしくなる邸宅内にリアムは眉をひそめた。
「なんだ?」
「確認してまいります」
レイが扉を開け確認に出ようとした瞬間、入れ違うように一人の男が体をねじ込んできた。レイは咄嗟にそれを止めようとしたが、その者の持つ瞳の色を見て、体を引いた。
「お久しぶりでございます。リトレル様」
「どういうことだ兄さん!!」
どこまでも冷静沈着なレイと違って興奮している男にちらりと視線を流したリアムは、特に気に停めた様子もなく立ち上がり、外着を手に取った。
「兄さん!」
再度男が叫ぶと、やっとリアムは弟に対して口を開いた。
「なんだ?お前はレラントに行っていたはずだろう。なぜここにいる」
「ついさっき戻ってきたんだよ、そしたらなんだ、兄さんと義姉さんの噂があちこちで囁かれているもんだから」
「……」
どういうことなんだ、と自分を睨んでくる二年ぶりの弟に近づき、リアムは言い放った。
「お前には関係ない。それだけなら帰れ」
衝撃を受けた様子のアルカディル伯爵の弟、リトレル・リスト・アルカディルは、僅かに首を振ってからレイを振り返った。伯爵家次男としてこの屋敷にいた頃はよく共に過ごした仲であり、信頼関係で結ばれている彼ならば納得出来る答えを出してくれると思ったようだが、レイは黙ったまま首を振った。
「奥様が出ていかれたのは確かでございます」
「……なんだと」
「旦那様のご指示です」
リトレルが怒りを顕に兄を怒鳴りつけた。
「どういうことだ!?あんなに義姉さんのことを愛していたじゃないか!それなのに義姉さんを追い出して聖女に懸想!?どうしたんだよ兄さん、もう義姉さんのことを愛してないとか言わないよな?」
「そんなわけないだろう」
「じゃあなんで…」
「お前には関係ない。帰れ」
先程と同じ台詞をはかれ、リトレルはぐっと唇を噛んだ後、興奮が冷めやらないままに部屋を出ていく。その様子に何も関心がないかのように、いや、見ないようにしていたリアムに対し、レイは声をかけた。
「リトレル様にも黙っておくのですか?」
「……極秘の任務だ。身内であろうと口外するな。この件を知っていいのは、俺と、お前と、皇帝皇后両陛下のみだ」
かしこまりました、といつもの返しがないことに違和感を感じたリアムがレイの方を見やると、何やら複雑そうな顔をしたレイが一度息を吐いて、それから意を決したように口を開いた。
「僭越ながら、奥様に一度話をされに行かれた方がいいかと」
「………」
今のリアムの前では「奥様」という言葉は禁句だ。「奥様」でなくとも、とにかく彼女を思い出させる言葉をこの家の主人の前で発してはならない。女主人が不在となってからの暗黙の了解だった。
それを誰よりも肌で感じていたはずのレイが言うことは何か理由がある。それを分かっているリアムは理由を問うた。それに対してレイは再びしばらく黙り込んでしまってから、奥様が出ていかれたあの日のことがどこか引っかかるのです、と言った。
「……例えば?」
「…奥様が居なくなられてからやけにロロとリリの様子が深刻だとは思いませんか。それに、あの日奥様は私のことをラッセルさん、とお呼びになられました。まるで、自分はもうここの奥様ではない、とでも言われるかのように」
自分が仕える主人は妻がいないと生きていけない。妻の方はそうでなかったと言うのか。自分を捨て聖女を迎えようとする夫を止めようともせず、ただ笑顔で頷いた奥様は、こんなにもあっさりと屋敷を去るほどにこの屋敷での全てはいらないものだったのか。
それはレイに分かることでは無い。ただ、夫の方が「妻は優秀だから自分の計画を何となく理解しているだろう」、と思い説明もせずに追い出す形を取っている今、これを放置すれば取り返しのつかないことになると、誰よりも主人のそばにいたレイには分かるのだ。
「…リヴェーラは、万が一にも周りに勘づかれないように演じているのだろう。心配しなくても、リヴェーラは分かっている」
「旦那様」
「子爵へ連絡を入れろ」
レイは分かっている。主人は、ただ妻が自分とアルカディル伯爵家をいとも簡単に手放したということを認めたくないだけだと。妻が勘違いをしているかもしれない。可能性はあるのに、それを認めることは出来ない。
なぜなら、リヴェーラはもう既に、何も言わずにこの屋敷を出たあと、その勘違いを誰にも問うことのないまま去ったということは、本人にとって夫と伯爵家は、大して大切なものでは無いと、言っているようなものではないか。
それを妻は賢い、分かっているはずだ、読んでいるはずだ、自分の計画を。と、自分自身に言い聞かせ、妻に手出ししようとしない伯爵は、その結果妻を失うことになるかもしれないなど、考えてもいないのだ。




