家族との再会(2)
ある日の夕方だった。突然屋敷中に甲高い声が響き渡り、次いで階段をものすごい勢いで駆け上がるような地響き。
この階段の登り方をするのは彼女しかいない。侯爵邸の中でも貴族の中でも恐らく彼女だけだ。曰く、「階段というものは前へ前へ進むほど早く登れる。そのために前に重心を倒すとバランスを崩すから、それを補うために力いっぱい足を振り下ろす」らしい。
「ヴェーラっ!!」
私の姉、ミランジェが十の頃に自慢げに話していたことだった。
「お姉様……?」
「聞いたわよ!どういうことなのアルカディル伯爵はっ!」
自分の部屋で便箋を開いていた私はそれを慌てて引き出しの中に押し込み、髪を乱したミランジェに駆け寄る。
「どうしてこちらに……?お義兄様はどうされたのですか」
「そんなことはどうでもいいわ。礼儀知らずで欲深い聖女が現れたのは知っていたけど、そんな女に求婚ですって!?あの〇〇〇〇〇〇…」
「お、お姉様お姉様、落ち着いてくださいませ」
公爵夫人とは思えない暴言が形の良い唇から飛び出し、慌てて手を挙げてそれを止める。それでも姉の怒りは収まらないらしく、その場で足を踏み鳴らした。
突然登場したこの家の元お嬢様に使用人たちも困惑を隠せないらしく、開け放たれたドアの向こうでおろおろと立ち尽くしている。
私が伯爵家を出てからまだ二週間。もう情報を掴んでいるのは流石の公爵家の情報網だ。
「アルカディル伯爵……っ、こんなに美しいヴェーラを捨ててあんな女に求婚だなんて頭をおかしくしたに違いないわ。一度頭を叩いて直さなければ、いえ直ったとしてももう許さない、叩きのめして帝都から追放してやる……!」
「お姉様、とにかく落ち着いてくださいませ。旦那様は悪くないのです。……全ては私が至らなかったせいで……」
「旦那様と呼ぶのはもうおよしなさい!あんな男、あなたの旦那でもなんでもないわ!」
「…………」
返答を返せなくなった妹を見てミランジェははっとしたらしく、その肩を掴んでいる何かを言おうとして、けれど口に出すことは出来ず、黙って項垂れた。
「……ごめんなさい、ヴェーラは伯爵を心から愛していたのよね」
「いいえ…お姉様が謝ることではありませんわ……。けれど、旦那様を悪くいうのはやめて頂きたいのです。あの方が私を必要としなくなっても、私は……」
一生涯忘れることは出来ない幸せを与えてくださった大切なお方ですから。
それを言葉にする前にお姉様は泣き崩れた。慌ててその体を支え一緒に座り込む。
「お姉様、大丈夫ですか?お体に悪いですからソファへ」
ミランジェは昨年流産していた。
結婚して二年目、待望の第一子だったが、妊娠四ヶ月半ばでの流産。胎児は健康的に育っていたはずだったが、ふとしたはずみに母親の体内から逃げ出してしまった。四ヶ月にしては大きめの胎児で、流産はミランジェの体に大きな負荷を与えた。それに加え子を失ったことへの悲しみからくる精神的疲労。生まれつき病持ちのヴェーラと比べ健康体であったミランジェと言えど、流産で弱った体には相当の負担だった。
それから一年がたち体調も回復してきたようだが、幼い頃から見てきた姉の溌剌とした明るさは雲に覆われてしまったように感じる。一年がたったと言っても本調子では無いことは明らかで、ミランジェを自らの命よりも大切に思うナイトベル公爵は、そんなミランジェを片時も離さなかった。
だと言うのに姉は妹のために実家まで出向き、こうして愛する妹の苦しみを共に背負おうとしている。
それが心苦しい私はお姉様をソファに座らせ、その手を握った。
「これで良かったのです。お姉様」
「なぜ?アルカディル伯爵夫人の仕事はヴェーラだからこそあれだけ上手く回せていたわ。あなたが夫人となったことでアルカディル伯爵家は孤児院や教会に恩を売っている。評判が全てのここではそれがどれだけ人々の伯爵家への評価を上げたか分かっているの?聖女なんかにできるわけがない。
それに何より、あなたはこれまで伯爵のために身を尽くして、…………心から愛してきたというのに」
ミランジェは自分の足を睨みつけそう言った。いや睨みつけているのは自身の足じゃない。その向こう側に、旦那様を見ている。
「……お姉様、旦那様を勝手に愛してしまったのは私です。あの方はそんなものは望んでいないのに、私は醜い想いを抱いてしまいました。そんな私が、愛に見返りを求めることなどできません」
「あなたの思いは醜くなんかないわ!とても美しいものよ……。私は知っているわ。あなたがこれまでどれだけ辛い思いをしてきたのか。この病気のせいで、どれだけ苦しんできたか……。だから、アルカディル伯爵があなたの目の治療を献身的にやってくれていると聞いて、やっとあなたを大切にしてくれる人が現れたと思ったのに」
旦那様は高価な薬を二年間も屋敷に常備させ、私のために専属医師も雇ってくださった。
その優しさを貰う度私は、迷惑をかけてしまうことが申し訳なくて
「……いずれこうなることだったのです。旦那様からこうして言い渡されずとも、私は」
申し訳なくてたまらなくなって、自ら身を引いていたでしょう。
そう言えなかった。
本当に?私は自分で離れることが出来たかしら?
分かっているのに、自分で認められない。私はきっと自分から離れることは出来なかったでしょう。未練がましく居残っていたでしょう。与えられた幸せを手放したくなくて。
そう考えるとこれで良かったのだとすとんと腑に落ちた。こんな形でなければ、私はずっと皆に迷惑をかけ続けるだけだった。これで良かった。
「…………っ」
「……ヴェーラ」
お姉様の腕が優しく背に回る。その柔らかさに涙を零した。すすり泣く私の背中を撫でながら、お姉様は静かに呟く。
「ヴェーラ、あなたは…………まだ伯爵のこと、愛している?」
「…………」
愛してる?
喉が凍りついて声を出せない。なぜ?私は旦那様の事を心から愛していて、……、たとえ旦那様のお傍を離れたとしてもそれは変わらない。
はず。
なのに声が出ない。まるで体が愛していると言うことを拒否しているかのよう。
いつまで経っても返答しない私を見たお姉様は、黙って私の涙を拭ったあと、言い聞かせるようにこう言った。
「もう、愛さなくていいわ」
「…………お姉、様…」
◇◇
ここはとある船着場。異国船があちらこちらに着いており、辺りは商人の掛け声で賑わっている。
肌の黒い者や瞳の青い者、人々はその様々な色彩を何事もないのように受け入れ合い、商売を繰り広げていた。
ある一隻の船から降り立った男は、赤みを帯びた茶髪を持っており、その瞳はチャコールグレーの光を放つ。
目一杯伸びをしたあと、眩しそうに目を細めながら伸びをし、ぽつりと呟いた。
「さて、兄さんと義姉さんは元気にしてるかな」
リトレル・リスト・アルカディル、帰国




