家族との再会
馬車の外の景色が見慣れたものに変わってきた頃、御者がもうすぐ着きます、と声をかけてきた。その声で私は我に返り、鞄を抱え直して慌てて頬を拭う。
今まで泣き通しだったぶん元の顔に戻るのも時間がかかってしまう。家族に顔を見せる前に隠さなくては。
目は充血していて鼻は赤く、頬の涙のあとは隠しきれないだろう。外の景色を見た感じ、もう五分もしないうちに実家へ着く。どうせ間に合わない。
そう気づいた私は手を下ろし、鞄の上で組んだ。その手が小刻みに震えているのに気づき、力を込めて握りこむ。
酷く自分が弱く小さく、そして価値のないもののように感じられた。
嫁ぎ先からも捨てられた貴族令嬢に未来はない。そんなことは分かりきったことだった。事業でも展開していたなら話は違うだろう。交友関係が広かったら居場所はあっただろう。お父様に信頼されていて仕事を任せて貰えるような娘だったら後継者にでもなれたかもしれない。
私はそれのどれにも当てはまらない。伯爵家を出たこの状況になり、ロロやリリ、伯爵家のみんなという私を繋げていた細い糸が切られたことで、私は私だったのだと突きつけられた。
それに甘えていたという自覚はあったし、所詮は自分なのだと分かっていたつもりだったけれど、その状況に陥ってみなければ気づけない。こんなに愚かなことがあるだろうか。
一人ぼっちになってしまった。わたしは、
一人ぼっちなんだわ。
馬車が止まり、御者が先頭を降りる音が聞こえた。ガラスごしに扉の取っ手に手をかける姿が見え、鞄を右手に持ち直して降りる準備をする。
いくら逃げたくても、消えてしまいたくても、これから訪れるであろうことから逃れることは出来ない。今ここで家の役に立てず恥となって戻ってきた娘に父や母はなんて言葉をかけてくるのか。侯爵家の使用人たちはどんな反応をするのか。少なくとも以前と同じでは無いだろう。ただでさえの邪魔者が、恥さらしとなって戻ってきたのだ。
固まってほぐれない頬に触れる。そのまま軽く回してみても、酷く冷たく、表情が変わることは無かった。
重たい体を引きずり、視界が悪いため手探りで取っ手を見つけ、手をかける。心を決めて開けようとしたその時、自動では無いはずのそれが急に開かれた。そして目の前に表れたその顔に仰天し、私は鞄を落とす。
「お母様……」
「…………ヴェーラ」
出迎えなどに来るはずのない、侯爵夫人。結婚式以来顔を合わせることの無かったお母様は、美しい深緑をした瞳に涙をためて、美しく微笑んだ。
「おかえりなさい、ヴェーラ」
その笑顔や声が、嫁ぐ前に向けられていた物と異なることはなく、ただただ優しく美しく、こんな娘を心から愛してくださるお母様の姿だった。
「……た、ただいま戻りました…………」
抑えてきた涙がこぼれ落ち、私の頬に添えられたお母様の手を濡らす。
大丈夫よ、よく頑張ったわね、大好きよヴェーラ、今でもあなたを愛してる。
優しい声色が胸に響き、凍りついていた心をじんわりと溶かしていくようだった。
お母様の胸の中で泣きじゃくっている間、かつて私に仕えてくれていたメイド達が役目をほったらかしてみんな私の元へ集まって一緒に泣くものだから、一時侯爵家の仕事はまわらなくなったそうだけど、私はこの時何かを気にする余裕はなく、ただただお母様の温かさに涙をこぼしていた。
◇◇
「侯爵様、お嬢様がお戻りになられました」
「…………」
白い服を身にまとい、厳かな雰囲気を醸し出す侯爵邸の主は、窓の外に見える妻にすがって泣きじゃくる自身の娘を表情を変えることなく眺めていた。
「あれはもう私の娘ではない」
「……侯爵様、お嬢様もあちらで必死に」
「それがなんだ。伯爵なんぞに振り回されて逃げ帰ってくるなど」
壁に拳を打ち付ける音が響き、離れた机に置いてあるカップまでもが僅かに揺れた。執事はそんな主人をしばらく眺めたあと目を伏せ、ため息をついた。
◇◇
実家に戻ってから二週間が経とうとしていた。旦那様のお邸で過ごしていたときとは比べ物にならないほどに体調が回復し、何事も起こらない穏やかに時のすぎる生活の中で私は、まだ旦那様を忘れられずにいた。
「ヴェーラ、それは何を刺繍しているの?」
「あ……カモミールです。お母様」
「……そう」
花にあまり興味を示さない旦那様だけれど、カモミールが咲く時期だけはお庭に行かれて、花に触れていらした。
その姿を思い出し、反射的にまだ作り途中のハンカチを刺繍枠ごと膝に叩きつける。
「ヴェーラ……」
「……っ………!」
思い出してはいけない。恋慕ってはならない。もう、私は旦那様に捨てられてしまったのだから。
「……っ申し訳ありません、やっぱりこの刺繍やめますわ」
「……せっかくここまで出来ているんだもの。お母様が続きをやってもいいかしら」
「はい……」
糸が通っている針ごとお母様に渡す。お母様は刺繍がお上手だ。あっという間にカモミールは形作られていく。その白い糸を眺めているうちにまた目頭が熱を帯びてきて、慌てて上を向いた。
泣かない。私にそんな資格などない。自業自得よ、欲に溺れた醜い女。
ざわざわと落ち着かない胸を軽く叩いたあと、落ち着いて、落ち着いて、と自分に言い聞かせながら肩を撫でる。
旦那様から離れたあとどれほど体調が良くなろうとも、精神的に衰弱していくのは自分でも感じていた。実家に戻ってから辛くなることが増えた。
いつもなら信じられないけれど、イライラしてそれをものに当たりたくなったり、どうしようもなく涙がこぼれてきたり、悲しくて悲しくてじっとしていられなくなったり。
典型的な精神患者の症状だと言われ、槌で殴られたような衝撃を受けた。
病気だけでなく精神的にも脆くなってしまうだなんて。
「お母様、私気分が優れないので部屋に戻りますわ、申し訳ありません」
「そう……。いいのよ。せっかく戻ってきたんだもの。ゆっくり休みなさい」
頭を下げてから部屋を出る。廊下に誰もいないのをいいことに、ずるずるとしゃがみ込んだ。
「落ち着いて。落ち着いて」
つらい。苦しい。悲しい。寂しい。痛い。逃げたい。消えてしまいたい。
次々と湧き上がる負の感情を消す方法を私は知っている。
全て忘れてしまえばいいのだ。旦那様とのことは一時の幻だったのだと。もう過ぎたことだと。贅沢すぎる過去だったと。一種の夢だったのだ。これが私の現実。どうせもう関わることは無い。何も無かったことにして、愛ごと旦那様を忘れてしまえばいい。
けれど私は、忘れようとすることさえ躊躇う。
どれだけ辛くても苦しくても、あれが私の幸せだった。
結果はこうなってしまったけれど、私は確かに旦那様を愛していた。愛している。ロロやリリたちへの恩を忘れることは出来ない。忘れられない。忘れたくない。
幸せだった。どんなに不幸なことがあったとしても、愛する旦那様の隣にいられるだけで、私は幸せだった。